24、ルカによる福音書8章4−8節
「種まきのたとえ」
4節。 さて、おおぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのと ころに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた。 ここには場所が記されていませんが、同じ記事を伝えるマルコによる福音書では、 「海べ」と記されています。 海べというのは、ガリラヤ湖のことです。 そしてマルコによる福音書の方では、イエスは舟に乗って陸にいる群衆に話さ れた、 とあります。 私達は、去る18日から28日まで、イスラエルに旅行しました。 もちろん、ガリラヤ湖にも行きました。 そして、ガリラヤ湖のカペナウムから船でティベリアに渡りました。 かもめが一杯私達の乗った船について来るのが印象的でした。 その時、船が少し陸から離れた時、陸を見て、イエス様はこんな所から陸にい る群衆 に話されたのか、と思い感動しました。 それにしてもイエス様は、相当大きな声をしておられたな、と思いました。 私達は、カペナウムで船に乗る前に、祝福の山という所にも登りました。 登ったと言っても、バスで行ったのですが。 そこは、小高いなだらかな丘になっていて、一面緑の草が敷き詰められてお り、また きれいなかわいい花が咲いていました。 そして至る所で小鳥がさえずっていました。 この山でイエス様は、大勢の群衆を前にして、「心の貧しい人達はさいわいで ある」 と言われたのかと思い感動しました。 また、実際に飛んでいる鳥を見ながら、「空の鳥をみなさい」と言われたのです。 イエスは、こういうガリラヤの豊かな大自然の中で、ガリラヤの素朴な人々に 福音を 語ったのか、と思いました。 イエスは、最初安息日には、会堂(シナゴグ)で話しておられました。 しかし、ユダヤ教の指導者ににらまれるようになり、その後は専ら、野外で話 をされ るようになりました。 カペナウムに行った時は、会堂の跡も見ました。 そこにイエス様も出入りされていたのかと思うと感動的でした。 さて、今日のテキストは、イエスがその大自然の中で、多分海べで、された 譬話で す。 その譬話に出てくる材料は、大自然の中にいくらでも身直に見られるものばか りで す。 種とか空の鳥とかいばらとか、すべてみんなのいるすぐそばにあるものばかり です。 譬話は、話し自体は単純ですが、その意味する所は、そう容易という訳ではあ りませ ん。 9節を見ますと、弟子たちもその譬の意味が分からずにイエスに質問をしてい ます。 尤も、この「弟子たち」というのは、ルカの時代の教会の人達だと思われます。 当時イエスの語られた譬えが多く伝わっていましたが、その譬えが一体何を意 味する のか分からなくなり、教会において一定に解釈がなわれていったようです。 教会において、そういう聖書の言葉の解釈をなすというのは、キリスト教の伝 統に なっていますが(説教もその一つと言っていいでしょう)、これは教会の最初 からの 伝統です。 聖書は一時に書かれたものではなく、百年、あるいは旧約聖書も入れると千年 以上の 期間に亙って語られ、伝えられ、書かれ、まとめられたものです。 その時々の人々の状況、教会の状況から、伝えられた言葉に解釈が施されてい ったこ とは当然考えられます。 その一番大きなものとしては、旧約聖書の証言を教会がキリストの預言と解釈 したこ とでしょう。 例えば、イザヤ書53章に苦しみを受ける一人の人物のことが記されています が、恐 らくこの当時の歴史上の人物のことを記したものではないかと思われます。 しかしキリスト教会では、この「苦しみを受ける一人の人物」を、キリストの 預言と 解釈したのです。 さて、譬というのは、よく知られているものを通して、他の全く知られてい ないも のを説明する方法なのです。 すなわちイエスはここで、皆が知っている大自然のものを通して、「神の国」 につい て教えているのです。 神の国というのは、私達には知られていないものです。 そこでイエスは、この知られていない「神の国」について示すために、ガリラ ヤの農 民なら誰でも知っている「種まき」というもので譬えを話されたのです。 貧しいガリラヤの農民にとって、汗水たらしてまいた種の発芽や成長や結実と いうも のは、切実な関心の的でした。 さて、イエス自身が話された譬えの戻りましょう。 イエスの譬えは殆どが「神の国」についての話しです。 イエスの宣教は、マルコによる福音書の最初にあるように、「時は満ちた、神 の国は 近付いた。悔い改めて福音を信ぜよ」というものでした。 「神の国」というのは、神の支配、あるいは神の働きということです。 神の支配は「こういうものである」と説明して理解出来るものではありません。 そういう論理的説明では、神の働きは分かりません。 自分と関係のあるものとして受け止めることが出来ません。 神の働きは、自分のこととして経験するものです。 第三者的に理解するのでなく、自分のこととして信仰的決断を迫られるもので す。 イエスは、そのために譬えを使って話されたのです。 5節。 種まきが種をまきに出て行った。まいているうちにある種は道ばたに落 ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。 このような光景はよく見られた光景だったでしょう。 これは何の種かは記されていませんので分かりませんが、何の種ということに 意味があるのではなく、11節にあるようにこれは「神の言」を意味しています。 この譬でイエスが言わんとしているのは、神の言に心より聞く、ということです。 私達はイスラエルの道ばたにもきれいな花が一杯さいているのを見ました。 私達は、死海の南の岸にあるソドムに泊まって、次の日死海の西のいわゆるユ ダの荒野と呼ばれる所をバスで通りました。 岩と砂しかない荒涼とした所を数時間通りました。 その東は岩山が続き、そこに歴史的に有名なマサダの要塞やクムランの遺跡が ありました。 しかしそのような荒涼とした所に突然道端に赤いきれいな花が一面に咲いてい ました。 これがイエス様が、「野の花を見よ」とおっしゃったアネモネのようでした。 現地のガイドさんも、この辺にこんな花が咲いているのを初めて見た、と行っ て、わざわざバスを止めて眺めました。 まさに、自然の恵みの大きさに驚きました。 ですから、ここの道ばたに落ちた種は、全部空の鳥に食べられる訳ではないの です。 しかし勿論この譬は、そのような自然現象について説明したものではなく、あ くまで 譬であって、鳥に食べられた種は、12節のことだ、というのです。 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないよう に、悪 魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。 「悪魔によって御言が奪い取られる」とあります。 悪魔は、私達の心に働きかけて、私達を神から離そうとするのです。 そして悪魔は、私達のスキを見付けるのが上手なのです。 私達の不満や欲望を上手に利用するのです。 イエスを試みた悪魔は特にそのことに巧みでした。 ユダの荒野を通っている時、ここでイエスが悪魔の試みにあったと言う「誘惑 の山」というのも見えました。 さて次の種は6節です。 ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。 さきほど、ユダの荒野を走っていた時にきれいなはなが道ばた一杯に咲いてい たのを 見た、と言いましたが、現地の人も驚いていましたが、こんなのは本当に珍し いことだそうです。 それは1か月ほど前に大雨が降ったからではないか、と言っていました。 荒野ですから、めったに雨が降りません。 ここに「水気がないので枯れてしまった」とありますが、荒野では大体は、こ のように枯れてしまうのです。 さてこれの意味は、13節です。 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無い ので、しばらくは信じていても、試練の時が来ると、信仰を捨てる人たち のことである。 これは恐らくルカの時代のことが反映されていると思われます。 すなわち、ルカが活動した紀元80年代には、キリスト教もいろいろな試練を 受けました。 一方では、ユダヤ教からの迫害があり、また一方からは、ローマ帝国からの迫 害がありました。 そのようなことで、せっかくキリスト教の信仰をもっても、信仰を捨てる人が 多く出たようです。 次に第3の種は7節です。 ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それ をふさいでしまった。 そしてその意味は、14節です。 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかい や富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。 私達はどうしてもこの世的なことに心を奪われ勝ちです。 日曜日は、礼拝に出て、御言を聞いて日頃の行いを反省しますが、月曜日にな るともうこの世のことに心を奪われてしまいます。 本当に弱い私達であることを認めない訳にはいきません。 しかしこの譬は、そのような弱い私達を裁くためのものではありません。 8節。 ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。 こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。 この譬は、種は神の言を表し、道ばた、岩の上、いばらの中、よい地は、聞く 私達を表しています。 そしてこの譬は、本来、聞く私達の態度について言っているのではありません。 9節以下は、多分にルカが活躍した時代の教会の状況が反映されています。 しかしそれをイエスの本来の意図とは違うと言って、退けてしまう必要はあり ませ。 その時々の状況において新たに解釈されていくことは、先程も言いましたよう に聖書 の最初からの伝統です。 ここには、この当時のルカの教会において、いろいろなことがあったことが 想像されます。 教会がいくら一生懸命伝道しても、全然それを受け入れない人がいました。 また、最初は喜んで教会に連なっても、何か問題が起こるとさっさと教会から 離れて 行く人がいました。 また、最初は喜んで教会に連なっても何か問題が起こるとさっさと教会を去っ て行く人がいました。 また、特に財産への執着のために全存在を賭けて「服従する」までに至らない 人がいました。 そしてそういう人達に警告するのにこの譬えはぴったりだったのでしょう。 そういう信仰的反省から、この譬が解釈されていったのでしょう。 したがって、この解釈にもそれなりに意味があります。 しかし、この譬え全体の意味する所を見失ってはなりません。 信仰者をいろいろなタイプに色分けするのではなく、これは「神の国」につい ての譬なのです。 したがってそれは、あくまで神の働きについて言っているのです。 キリストが種をまいたなら、それは豊かに実を結ぶということなのです。 それが神の国、神の働きだ、というのです。 そして最後に「聞く耳のある者は聞くがよい」と結ばれています。 ここがポイントです。 私達が道ばたにならないように、岩にならないように、いばらにならないよう に、と言うのでなく、ここでは豊かな実を結ぶ神の働きが言われているのです。 そして私達には、この神の言葉に聞き従うように、と勧められているのです。 それが、「聞く耳のある者は聞くがよい」という言葉なのです。 神の働きは、私達の予想や考えを遥かに越えたものです。 普段花が咲かないと思われているユダの荒野一面にきれいな花が咲いていたよ うに、例え、私達にいろいろな困難があっても、神は必ず豊かな実を結ばせて 下さるのです。 キリストが私達の間に種を蒔かれたことを信じ、そしてその種がやがて豊かに 実を結ぶことを信じて、この神の言葉に信頼していきたいと思います。 (1992年3月1日)