27、ルカによる福音書8章43−48節

  「信仰があなたを救った」



 前回の話は、イエスがガリラヤ湖の東のゲラサの地に渡って、悪霊につか
れた男を癒した、という話しでした。
このガリラヤ湖の東の地方は、異邦人の町であり、イエスもこの地方に行か
れたのは、この時一回限りでした。
そして、その時出会ったのも、この悪霊につかれた人だけでした。
そして、再び、ガリラヤ伝道の拠点であったカペナウムに戻って来ました。
するとそこでは大勢の群衆に迎えられた、とあります。
40節。

  イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた。みんながイエスを待ち
  うけていたのである。

 さて、この40節から8章の終わりまでには、二つの物語があります。
すなわち、一つは会堂司ヤイロという人の一人娘が重病のため死んでしまっ
たが、イエスに癒されたという話しです。
そしてその話にはさまれて、もう一つの話し、すなわち12年間長血を患っ
ていた人が、イエスの衣にさわっていやされた、という話しです。
 今日は、その間にはさまれた12年間長血を患った女が癒された話を学び
ます。
43節。

  ここに、12年間も長血をわずらっていて、医者のために自分の身代を
  みな使い果たしてしまったが、だれにもなおしてもらえなかった女がい
  た。

この女性の病気は、はっきりしたことは分かりませんが、恐らく婦人科系の
慢性の出血であったと思われます。
「12年間も」というところに、この女性の病気に苦しむ姿があります。
古代イスラエルにおいては、血は命の源と考えられ、それゆえに血の流出は
宗教的に汚れている、と考えられたのです。
その細かな規定は、レビ記15章に記されています。
その15章の25節を見ますと、

  女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があれ
  ば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、そ
  の女は汚れた者である。

このような規定は、当時のユダヤ教では重んじられていたものですが、勿論
そういうことで人間を汚れた者だ、と差別するのは間違っていることである
し、イエスはこの女に対してはそういう目では決して見ませんでした。
しかし、そういう習慣の中に生きていた者としては、自分の病気が耐え難い
ものであったでしょう。
現代の社会においても、ある種の病気に対しては、非常なる偏見をもって見
られる、という場合があります。
例えば、エイズ患者に対する偏見があります。
エイズ患者のために歯の治療を断られた、というようなことが報道されてい
ました。
どんな病気の人であっても、神の目からは同じ人間であって、偏見や差別は
いけないことです。
この女性は、そういう社会的な偏見からも、何とかして病気が治りたいとい
う願いが強かったのでしょう。
そこで、その治療のためなら、どんどんお金を使い、とうとうその治療のた
めに全財産を使い果たしてしまった、というのですから、悲惨な状態です。
人の評判を頼りにあちらの医者、こちらの医者と高いお金を払って見てもら
ったのでしょう。
また、いい薬があると聞くと、どんなに無理をしてでも買いに行く。
あるいは、いろんな迷信的なことも人から聞いては試して見たでしょう。
日本ではこういう時、先祖を供養していないからだ、というような迷信的な
ことがいわれたりしますが、ユダヤにおいても似たようなことがあったよう
です。
12年間も治療にお金を費やしてきた、ということで、この女性は元々は非
常なる財産家であり、また由緒ある家柄の娘であった、というような推測か
ら、後の時代にこの女に関する伝説というのも生まれました。
 さて、この女性は、全財産を使い果たしてしまったにもかかわらず、なお
望みを抱いていたようです。
すなわち、人々の目を避けて家に閉じこもっていたのでなく、イエスが自分
の町に来られたと聞いて、人々の白い目をも顧みず、通りに出て行ったので
す。
伝道の書9章4節には、

  すべて生ける者に連なる者には望みがある。

とあります。
この女性は、まだ自分の病気が治りたいという望みをもっていたのです。
望みをもつことから、積極的な生き方が出てきます。
この物語を通して、私達は「どんな時にも、決して望みを捨ててはならな
い」ということを学びます。
そして、この望みが、イエスに出会うことによってとうとう叶えなれたので
す。
44節。

  この女がうしろから近寄ってみ衣のふさにさわったところ、その長血が
  たちまち止まってしまった。

この女性は、治りたい、という望みから、自分が汚れの身でありながら、群
衆の中に入って、イエスの衣に触ったのです。
「うしろから」というのは、自分が汚れの身であるという後ろめたさからで
あったかも知れません。
「うしろから」でもとにかくイエスの衣にさわったというのは、霊験あらた
かな人に触ると病気が癒されるという迷信のような気がします。
衣に触れることによって、病気が癒されたという話は、当時のユダヤの文学
にもヘレニズムの文学にもあります。
使徒行伝19章をみますと、パウロがエペソで伝道したとき、彼の手ぬぐい
や前掛けを病人に当てると病気が癒されたという記事があります。
衣に触れるなら病気が癒されるというのは、確かに迷信でしょう。
そこで、この女がイエスにたいしてどれだけの信仰をもっていたかは疑問で
す。
48節でイエスは、

  娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。

と言っていますが、これは彼女が後ろからそっとイエスの衣に触ったからそ
う言っているのではありません。
衣に触って病気が治ったというだけなら、この女性がいかに熱心であったと
しても、それは単なる迷信です。
いわしの頭を拝むのと余り変わりません。
イエスは、そういう迷信を私達に求めません。
そうではなく、人格的な関係を求めるのです。
信仰というのは、そういう神と私達との人格的な関係なのです。
この時に、この女性にとって大事なのは、気付かれずに後ろからそっと衣を
触って、去って行くというのでなく、イエスと人格的に出会うことなので
す。
病気が癒されるということよりも、例え癒されなかったとしてもイエスと人
格的に出会う事の方が大事なのです。
 そこでイエスは、この女性が分からないまま去って行くのを許さないので
す。
そこで、今自分の衣に触った者を必死になって探すのです。
45−46節。

  イエスは言われた、「わたしにさわったのは、だれか」。人々はみな自
  分ではないと言ったので、ペテロが「先生、群衆があなたを取り囲ん
  で、ひしめき合っているのです」と答えた。しかしイエスは言われた、
  「だれかがわたしにさわった。力がわたしから出て行ったのを感じたの
  だ」。

ここに、必死になって、自分に触った人を求めているイエスの姿がありま
す。
これは、あのいなくなった一匹の羊を一生懸命捜し求める羊飼の姿と重なる
ものがあります。
単なる迷信に終わらせないで、真の信仰を、人格的な出会いを求める姿があ
ります。
人格的な出会いは、私達の方から求める先に、神の側から既に求められてい
るものなのです。
 さて、この熱心に求めるイエスの姿に、この女性は黙っておれなくなりま
した。
私達は、信仰というものは、私達が求めたのだ、と思っているかも知れませ
んが、それ以前に神の側が私達に働きかけて下さっているのです。
それは、聖霊の働きなのです。
神が聖霊を通して熱心に働きかけて下さらないなら、私達はキリストを信じ
る信仰には至らなかったでしょう。
 47節。

  女は隠しきれないのを知って、震えながら進み出て、みまえにひれ伏
  し、イエスにさわった訳と、さわるとたちまちなおったこととを、みん
  なの前で話した。

「震えながら」とありますが、これは恐れということです。
この女は、すべてを知り抜いておられるお方の前で、真実を隠し通そうとし
た罪を恐れたのです。
キリストの前では何も隠すことは出来ません。
しかし、「恐れ」というのは、信仰者の態度です。
神はすべてをご存じです。
この事実の前に、私達は恐れを抱きます。
信仰のない者は、恐れがありません。
人の目さえごまかせばいいと思っているからです。
 さて、この女は、恐れを抱き、そしてすべてをイエスに話したのです。
これは全く信仰的態度と言うことが出来るでしょう。
イエスを信じたからこそすべてのことを話すことが出来たのでしょう。
ここに、この女とイエスとの全く人格的な関係が生じたのです。
衣を触れただけだったら、確かに病気は治ったかも知れませんが、真の救い
はなかったでしょう。
例え、病気が治らなくても、イエスとの人格的な出会いによって、真の救い
を得る方が大事です。
この女性は、イエスの方から出会いを求められ、それに応じて、イエスにす
べてを委ねるという信仰に変えられたのです。
それゆえに、イエスは、

  あなたの信仰があなたを救ったのです。

と言われたのです。
この言葉は、決して、彼女がひそかにイエスの衣にさわったことにたいして
言われたものではありません。
この「救う」というのは、単に病気が癒されるということではありません。
その人の全人格的な救いなのです。
さらにイエスは、この女に

  安心して行きなさい。

と言われました。
この「安心」と訳されている後は、ειρηνηと言いますが、「平安」とも
訳せる言葉です。
この平安は、神との正しい関係にある最も望ましい状態です。
イエスは、これを求めておられるのです。
この女は、病気が治りたい、という熱心さからイエスに近付いて、み衣に触
れたとはいえ、それは決して純粋な信仰ではなく、むしろ迷信的なものでし
た。
しかしイエスは、それをも受け入れ、更に人格的な出会いを通して、本当の
信仰へと、救いへと導かれたのです。
 私達も、純粋な信仰をもっているとは言いがたいと思います。
むしろ、信仰と言いながら、自己中心的な思いが強いです。
しかし、キリストは、私達のそのような不純な信仰を受け入れて、真の信仰へ
と、真の救いへと導いて下さるのです。
このことを覚え、常にキリストと出会うものでありたいと思います。

(1992年5月3日)