29、ルカによる福音書9章10−17節
「食物を与え給う主」
先週は、「花の日」礼拝で、自然の恵みに感謝を捧げました。 そして、そこでイエスは、神は明日は炉に投げ入れられる野の花でさえ養っ て下さるのだから、まして私達にそれ以上のことをして下さらないはずはな い、と言われました。 今日の話は、イエスが空腹の群衆に食物を与えられたということです。 イエスは、まさに私達に必要な物を備えて下さる、ということを実際に行わ れた記事です。 イエスの奇跡物語を伝える記事は、福音書に35記されていますが、4つの 福音書にすべて同じ記事が伝えられているのは、この2ひきの魚を5つのパ ンで5千人を養われた記事だけです。 ですから、この出来事は、余程弟子たちの印象に強く残ったのでしょう。 この出来事が起こった場所は、伝統的にタプハと言われています。 これはガリラヤ湖の丘陵地にありますが、私達も先日の旅行の時にこのタプ ハにも行きました。 そこには、2ひきの魚と5つのパンを記念する教会がありましたが、その庭 にはいなごまめがありました。 いなごまめというと、豆だから地面に生える草かと思っていましたが、何と 大きな木になっており、驚きました。 11節。 ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国の ことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。 イエスは弟子たちだけを連れて、静かな所に退いていました。 恐らく休息をするか、あるいは弟子たちに教えをなそうとされたのだと思い ます。 しかし、群衆はイエスたちの一行を見付けて、ついて来たというのです。 するとイエスは、疲れているのも顧みず、彼らを迎えて神の国のことを語っ たり、病人を癒したりした、というのです。 ここに、いついかなる時にも、私達のことを配慮して下さるイエスの姿があ ります。 12節。 それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「 群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にい れるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているの ですから」。 ここで弟子たちは、群衆を解散させようとします。 それは第一に、もう夕暮れになり、皆がお腹をすかしたからでしょう。 あるいは、弟子たちの方が煩わしい群衆から解放されたかったのかも知れま せん。 解放されて、自分たちも早く休息し、また食事を取りたかったのでしょう。 しかし、イエスは、群衆を解散させようとはされないのです。 13節。 しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。彼 らは言った、「わたしたちにはパン5つと魚2ひきしかありません、こ の大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。 ここでイエスは、自分たちで群衆の食物を何とかしようとされます。 イエスは、実に、空腹になっている群衆の食物のことを心配しているので す。 先週の山上の説教のところで、イエスは「食べ物や着物のことで思い煩うな 」と言われましたが、しかし、食べる物はどうでもいい、と言っているので はありません。 神は、私達の精神的なことだけを満たして下さるのでなく、肉体的なことも 配慮して下さるのです。 「武士は食わねど高楊枝」などと言って、食べ物のことなどを考えるのは、 下世話なことだ、とイエスは決して言われません。 それどころか、福音書を見ると、イエスは実によく人々と食事をされていま す。 そういう所から、7章の34節などを見ると、イエスは、 見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者 と言って非難されています。 ここでイエスは、遠くからやって来た群衆が、熱心にイエスの話を聞き、夕 方になってお腹をすかしたことを心配し、何とかしようとされているので す。 さてここで、イエスについて来た人々は実に大勢いました。 14節を見ますと、男の数だけで五千人ばかりと記されています。 従って、女子供を入れると、1万人は越えていたでしょう。 こんなに大勢の人をどうやって養ったのでしょうか。 17節を見ると、 みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二 かごあった。 とあります。 ここでは実際に何が起こったのでしょうか。 それはもはや分かりません。 いろいろな合理的な推測をする人もいます。 例えば、人々はイエスの言葉に精神的に満たされただけだったのだが、それ をこのような表現で伝えたのだ、と。 しかしそうではないであろう。 「食べて満腹した」というのは、いかにもリアルです。 彼らは実際に空腹を満たされたのだと思います。 ただどのようにしてか、ということは詳しく書かれていないので分かりませ ん。 しかし、聖書において神は私達人間にはとても不可能と思えることでも可 能にされます。 ここで弟子たちは「パン5つと魚2ひきしかありません」と言っています。 これは、5千人を養うには、とても不可能です、ということです。 これは人間の常識で考えれば当然であろう。 しかし、神は不可能を可能とされるお方です。 食糧の危機に瀕している人々を、神は不思議な業によって養った、という記 事は聖書の至る所にあります。 例えば、エジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野で食糧がなく、モーセ に不平、不満を言っていた時、神はマナでもって、彼らを養った、と言われ ています。 このマナは、シナイの砂漠においてマナ虫がギョリュウの木の樹液をを吸っ て出した分泌液だと言われています。 イスラエルの民は、しばらくこれを喜んで食べたが、それにも飽いて、また 不平を言った時、神は不信仰な彼らを今度はうずらで養った、とあります。 神は絶えず、私達を食物で養っていて下さるのです。 16節。 イエスは5つのパンと2ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福 してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。 ここには、聖餐式の時の用語がいくつか使われています。 恐らく、この記事と、初期の教会で行われていた聖餐式とが関係あったよう です。 私達は、聖餐式において、パンを食べ、ぶどう酒を飲む時、私達の罪を贖う ために十字架にかかられた主キリストを思い起こします。 しかし、聖餐式には、もう一つの意味があります。 それは、神は私達に十分な食物を与え給う、ということです。 聖餐式は、やがて神の国で催される祝宴の先取りでもあります。 イエスは、五千人を養うには、何の足しにもならない、5つのパンと2ひ きの魚でもって、みんなの人に十分食べさせました。 これは、神が私達に与える溢れるばかりの恵みを言い表しています。 神は、実際に私達に溢れる恵みを与え、私達の生活を支えて下さっているの です。 まさに、イエスが山上の説教で、 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこ のように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださ らないはずがあろうか。 と言っている通りです。 私達は、この神の恵みを忘れてはいないでしょうか。 現在、私達は、何でも好きな物を腹一杯食べることができます。 そして、これが当たり前のように思っています。 しかし、これは私達の力によるものではありません。 一重に神の恵みです。 そして、この神の恵みを思う時、十分な食事は、決して私達だけが独占すべ きものではなく、それに与れない人と共に分かり合うべきです。 古代イスラエルにおいて、収穫の時に、農園主は、貧しい人々を食事に招 いて共に収穫を喜ぶという習慣がありました。 申命記16章13−14節(P270)。 打ち場と、酒ぶねから取り入れをしたとき、7日のあいだ仮庵の祭りを 行わなければならない。その祭りの時には、あなたはむすこ、娘、しも べ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦 と共に喜び楽しまなければならない。 「仮庵の祭」というのは、秋の収穫感謝の祭りです。 この時、農園主は、自分の子供たちだけでなく、レビびと、外国人、孤児、 寡婦など貧しい人々を招いて、その収穫物を分かち合うというのです。 これは、豊かな収穫物は、決して農園主の力でできたのでなく、一重に神の 恵みによるという信仰から来ています。 レビびとも外国人も、孤児も、寡婦も、自分の土地をもたない貧しい人々で した。 しかし、神の恵みは、このような人にも等しく与えられるべきである、とい うのです。 今日の所で、人々が食べた後、その余りを調べると十二かごあった、とあ ります。 ここでは、神の恵みは少しも無駄にしてはならない、ということが言われて います。 この余った残りのかごは、恐らくここに来れなかった人々に分け与えようと されたのだと思います。 さて、今日の所で、もう一つ重要なことは、人々は確かに十分な食事を与 えられて満腹したでしょうが、しかししばらくすると、またお腹が空くでし ょう。 イエスが、この業を行ったのは、より重要なことを示すためでした。 すなわち、イエスは食物を与えて私達の命を支え給う、ということです。 私達は、どんな御馳走を食べても、しばらくするとまたお腹が空きます。 しかし、命のパンであるイエスを信じる者は、飢えることがない、と言われ ています。 これは、主イエスが、私達の真の命を養って下さるからです。 私達は、聖餐式において、イエスの与えて下さる真の命に与っているので す。 それに与ることによって、イエスの与えて下さる十分な恵みに感謝したいと 思います。 (1992年6月21日)