31、ルカによる福音書9章28−36

  「イエスの栄光の姿」



 今日のテキストは、一般に「イエスの変貌の記事」と言われています。
同じ記事は、マタイによる福音書にもマルコによる福音書にも伝えられてい
ます。
この出来事を体験したのは、イエスの12弟子の中の3人だけでした。
28節にあるように、ペテロとヨハネとヤコブの3人でした。
この3人は、共にガリラヤ湖で漁師をしていた所をイエスによって召され、
イエスの最初の弟子になった人たちです。
イエスはこの3人を重要視し、何か重大な時には、しばしばこの3人だけを
連れて行きました。
例えば、前の8章51節の所でも、イエスがヤイロの娘を生き返らせるとい
う重大な時に、イエスはこの3人だけを家に入れました。
また、この3人は、エルサレムの初代教会においても、最も指導的立場にあ
ったようです。
 しかし、この3人は、この変貌の出来事の意味がその時には分からず、
36節を見ると、「だれにも話さなかった」と、記されています。
恐らく、イエスの復活の後に、彼らはやっとこの出来事が分かり、人々に語
り始めたのでしょう。
 28節。

  これらのことを話された後、8日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨ
  ハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

この山の名前は記されていませんが、恐らくヘルモン山だと思われます。
前の所の記事は、ペテロが、イエスに対して「神のキリストです」と信仰告
白をした記事でしたが、これはピリポ・カイザリアという所だとされていま
す。
このピリポ・カイザリアというのは、ガリラヤの北東方向の異教の地で、ヘ
ルモン山のふもとの町でした。
ですから主イエスの一行は、ピリポ・カイザリアの町からこのヘルモン山に
登られたのだと思われます。
ヘルモン山は、標高3千メートル位の山で、頂に万年雪をたたえるこの地方
最高の山です。
もっとも、イエスたちは、頂上まで登ったのではないでしょう。
恐らく、その中腹だと思われます。
 さて、イエスは、何のためにこんな高い山に登られたのでしょうか。
28節には、「祈るため」とあります。
イエスは、しばしば祈るために人里離れた所や、山に退かれました。
祈りというのは、神との対話です。
この世のことに心を奪われている時は、本当の意味で神と対話することはで
きません。
祈りというと、私達日本人は、往々にして自分の願い事を神に訴えることだ
と考えます。
勿論祈りには、そのような要素があってもいい訳ですが、それだけではあり
ません。
むしろ祈りの本髄は、自分の願いごとではなく、神の願い、神のみ旨を求め
るということです。
イエスがゲッセマネでなしたように「主のみ旨がなるように」と願うのが祈
りの究極的なものです。
また私達は、「主の祈」においても、「みこころの天になるごとく、地にも
なさせたまえ」と祈ります。
ですから、この世の考え、俗世間の考えから遠ざかるために、イエスはしば
しば下界から遠い山に登られたのです。
私達も高い山に登る時、この世のこせこせした考えから解放されて、崇高な
気持ちを持つようになることがあります。
 さて、この山において非常に不思議な光景が起こりました。
29−31節。

  祈っておられる間に、み顔の様が変わり、み衣がまばゆいほどに白く輝
  いた。すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモー
  セとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げ
  ようとする最後のことについて話していたのである。

ここでイエスが栄光の姿になられた、というのです。
ここで「祈っておられる間に」とあります。
神のむ旨を求める祈りに、神は答えられたのでしょう。
祈りというのは、人間の単なる独り言ではありません。
神は生ける神であるゆえに、その祈りを神は必ず聞き給うのです。
ただし、このイエスの姿が具体的にどのような姿であったのかは分かりませ
ん。
それについては、他に何も言われていません。
そしてそこにモーセとエリヤも現れた、というのです。
この光景を見たペテロは、33節で、「すばらしいことです」と言いまし
た。
恐らく、うっとりした気分、恍惚的な気分になっていたのでしょう。
32節に「熟睡していた」とありますから、あるいは夢でも見ていると思わ
れたかも知れません。
モーセもエリヤも、旧約聖書における偉大な英雄です。
モーセは、律法を代表し、エリヤは預言者を代表します。
ですから、この二人は、旧約聖書の代表者ということができます。
そして、その二人と自分達の先生であるイエスと3人が何か話している、こ
れほど素晴らしい光景はないでしょう。
ペテロは、この素晴らしい状態がずっと続いてほしいと思い、「小屋を三つ
建てましょう」と言いました。
まさに、「時よ、止まれ」という心境ではないでしょうか。
私達も、素晴らしい光景に出くわした時は、「時よ、止まれ」と叫びたい時
があります。
私も先日の旅行において、ガリラヤの美しい自然に接した時、「時よ、止ま
れ」という心境になりました。
 しかし、ここで、イエスは、モーセとエリヤとで何をしていたのでしょう
か。
31節を見ると、

  イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していた

とあります。
これは十字架のことです。
イエスに与えられる苦難の道について話し合っていた、というのです。
ペテロがうっとりして素晴らしい光景だとしていたこの3人は、実は、イエ
スの十字架について話し合っていた、というのです。
イエスは、このことについては、ペテロが「イエスこそ神のキリストです」
と告白した直後に、打ち明けています。
22節。

  人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨て
  られ、また殺され、そして三日目によみがえる。

イエスは、この時初めて、ご自分の使命というものを弟子たちに打ち明けま
した。
これを聞いた弟子たちは、本当のことが理解できなかったのです。
そこでイエスは、今度は弟子たち全員ではなく、特に重要な3人にこのこと
を知らせようとして、高い山に登られたのでした。
そして、イエスは、モーセとエリヤとこのことについて話していたのです。
31節に「最後のこと」とありますが、これがギリシア語ではεξοδοs
という語です。
これは、旧約聖書では、エジプト脱出に使われた語です。
このエジプト脱出は、まさにここのモーセが自ら体験したもので、神がイス
ラエルの民に与えた最も大いなる救いの業として、いつの時代にも覚えられ
たものです。
エジプトで奴隷であったイスラエルの民がそれから解放されて自由を与えら
れた事件です。
εξοδοsと言えば、イスラエルの民にとっては、最も重要な救いの業を
意味しました。
ここでは、この同じεξοδοsが、イエスの十字架に使われているので
す。
イエスの十字架は、まさに、私達を奴隷の状態から解放する最も重要な救い
の業なのです。
 さて、ここになぜモーセとエリヤが登場しているのでしょうか。
モーセは、エジプト脱出の時代ですから、紀元前13世紀の人です。
また、エリヤは、紀元前9世紀に北イスラエルで活躍した預言者です。
すなわち、イエスの十字架というのは、イエスが生まれる900年も前か
ら、さらに1300年も前から計画されていた、ということなのです。
神が人類を救うという計画は、はるか昔からなされていた、ということなの
です。
旧約聖書では(創世記12章ですが)、モーセよりももっと古いアブラハム
において既に、神が全人類を祝福しようとされた、ということが言われてい
ます。
そして、私達もまた、その神の救いの計画のうちにあるのです。
今から2千年前にイエスが十字架にかかって死なれたのは、実は神が私達を
救おうとされた計画なのです。
私達は、偶然、この時代に生まれ、生活し、そして死んで行くというのでは
なく、壮大な神の救いの歴史の中に生かされているのです。
モーセとエリヤとイエスが話していた、というのは、そのような壮大な神の
救いの歴史ということが意図されているのです。
そして、私達は、この神の壮大な救いの歴史と無関係の所にあるのではな
く、さまに神の恵みによって、この歴史に参与させられているのです。
ですから、私達の命は神によって与えられたものであるし、私達の人生とい
うのは、神によって備えられたものなのです。
ですから、私達の人生を私達の力によって切り開いて行く、というのではな
く、アクセクせずに神のみ手に委ねて行くのです。
自分の力で切り開いて行く、という場合、「恐れ」というのが隣合わせにあ
ります。
34節に、

  彼がこう入っている間に、雲がわき起こって彼らをおおいはじめた。そ
  してその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。

とあります。
彼らは何故恐れたのでしょうか。
モーセとエリヤとイエスの栄光の素晴らしい光景が、雲によって隠されたか
らです。
人間、理想通りに行かない場合、恐れを抱くのです。
そうではなく、神のみ手に委ねる時、平安な状態になることができるので
す。
しかし、人間、中々、理想を追い求め、自分の力で切り開こうとする思いが
あり、すべてを神に委ねるということができません。
35節に、

  これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。

とあります。
これは、イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた時にも言われた言葉
です。
これは、また私達に対する神の言葉です。
イエス・キリストは、私達人間を救うために神が選んだ者です。
そしてこのイエス・キリストのみ言葉に聞くことによって、神の壮大な救い
の歴史に参与することができるのです。
私達に重要なのは、イエスを通して語られた神のみ言葉に聞く、ということ
です。
このイエスご自身が、神の言葉に忠実に従いました。
そして十字架の道を忠実に歩まれました。
それによって神は、イエスに大いなる栄光を与えました。
ここで栄光の姿になったのは、その先取りでした。
そして、私達も、主イエスと同じ栄光の姿に与る、と言われています。
そのためにも、常に主イエスの言葉に聞き従う歩みをしたいと思います。

(1992年7月26日)