32、ルカによる福音書9章57−62節

  「主に従う」



 今日のテキストは、イエスに従ったいろいろな弟子たちについての話で
す。
イエスには、その時々に大勢の弟子たちが従ってきました。
私達がよく知っているのは、12人の弟子ですが、イエスの弟子は何もこの
12人だけではなく、その時々に多くの弟子たちが従ったのです。
そしてそこには、実にいろいろな人がいました。
現在の私達クリスチャンも、イエスの弟子と言うことが言えると思います
が、それぞれ皆違うと思います。
そして、今日のテキストに3人の弟子が出てきますが、これは名前も記され
ず、いつどんな状況でイエスに従ったのかも分かりません。
そしてこれは、ある時一度にあったことではなく、いろいろな弟子の話をル
カがここに集めたものと思われます。
 第一の人は、57節です。

  道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる
  所ならどこへでも従ってまいります」。

この人は、自分からイエスの弟子になることを申し出ています。
ですから、かなり熱心な人であったと思われます。
そして信仰ということに相当自信もあったようです。
それは、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」とい
う言葉からもうかがえます。
この人は、意志の強い、信念のしっかりした人のようです。
信仰生活において、確かに強い意志や、しっかりした信念といったものが必
要かも知れません。
しかし、人間の自身や信念などは、実は余り当てにならないものです。
この自信家の弟子にイエスは、58節のように言います。

  イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣があ
  る。しかし人の子にはまくらする所がない」。

これは、人間の強い意志やしっかりした信念などによって、イエスの弟子に
なることは出来ない、と言っているのです。
「人の子にはまくらする所がない」というのは、確かに極端な例かも知れま
せん。
イエスには、宿るべき家が全くなかったかと言うと、必ずしもそうではあり
ません。
その所々で、イエスを受け入れた人々によって宿が提供され、また豊かなご
ちそうにもありつけました。
ガリラヤ伝道においては、ペテロの家が拠点として与えられていたようで
す。
しかし、イエスの弟子になるには、毎日野宿するくらいの覚悟が必要であ
り、とても人間の自信や信念で乗り切れるものではない、ということです。
実は、人間の自信などというのは、当てにならないものです。
イエスの一番の弟子であったペテロは、最後の晩餐の時に、

  主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く
  覚悟です。

と自信たっぷりに言っていますが、その数時間後に大祭司の官邸で、「あん
な人はしらない」と主を否みました。
しかし私達も、ペテロを非難できるほど強くはありません。
そもそも私達人間の意志や信念は、余り当てにならないのです。
今はキリスト教も迫害を経験することはなく、幸いですが、あのかつての戦
争の時は、色々な形で迫害がありました。(←敗戦記念日)
特に、ホーリネスには激しい迫害が加えられ、多くの教職は逮捕され、牢獄
にぶちこまれました。
そして、とうとう牢獄で殉教した人もいます。(今の教団議長の父)
彼らは、「天皇とキリスト」とどちらが偉いか、と問われた、ということで
す。
そして、キリストと答える者には、容赦ない拷問が加えられたそうです。
果たして今、そのようなことが起こったら、「キリスト」とはっきり答えら
れるかは、自信がありません。
 イエスは、ここで第一の人に、自分の自信や意志でもってイエスの弟子に
なるのではない。
むしろ自分の弱さを認め、その弱い私達を受け入れて下さるイエスに従うよ
うに、と言っておられるのです。
 次に2番目の人はどうでしょうか。
59節。

  またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその
  人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。

2番目の人の場合は、自らイエスの弟子を志願したのではなく、イエスの方
から呼びかけられたのです。
12弟子のペテロとアンデレの兄弟やヤコブとヨハネの兄弟などもイエスの
側から呼びかけられて弟子になりました。
そして、漁師をしていた彼らは、仕事の道具を捨てて、すぐにイエスに従っ
たとあります。
 しかし、ここの2番目の人は、「まず、父を葬りに行かせてください」と
言っています。
父親の葬りというのは重大なことで、この人の言うのは尤もだと思われるで
しょう。
しかしこれは、この世的な事情のために、神の招きを断ることを言い表して
いるのです。
信仰を求めるという場合、しばしば、この世的事情が邪魔をする場合があり
ます。
私達人間には、ささいなことから重大なことまで、いろいろなこの世の事情
というものがあります。
そしてそのような事情がなくなってから、信仰のことを考えようとします。
例えば、今は忙しいから、年を取って少し暇になってから信仰を求めようと
か、今は別段何にも困っていないから、何か困ったことが起こってから信仰
を求めようとかします。
しかし、この世の事情を優先させるなら、一生信仰を持つことが出来ないで
しょう。
イエスは、ルカによる福音書14章の所で、「盛大な晩餐会」に招かれた人
が、いろいろな口実を述べてそれを断る、という譬をされています。
すなわち、ある人は、「土地を買い、それを見に行かなければならないか
ら」と言って断り、ある人は「5対の牛を買い、それを調べに行かなければ
ならないから」と言って断り、ある人は「妻をめとったので行くことが出来
ない」と言って断りました。
これらは確かに非常に重大な理由ですが、いずれもこの世の事情です。
そして、父を葬るということも、これまた非常に重大なこの世の事情です。
 イエスはここで、父を葬るという極端な例を引き合いに出して、たとえ重
大な事情であっても、神に招かれているという事態がもっと重要である、と
言っているのです。
それは人間の命に、人間の救いに関することだからです。
勿論主イエスは、葬りなどというのはつまらない習慣だからやめた方がい
い、と言っているのではありません。
現に聖書には、例えばアブラハムが妻サラを丁重に葬った記事とか、だれか
が死んだ後は、手厚く葬ることが記されていますし、イエス自身も十字架で
死んだ後に、アリマタヤのヨセフという人によって手厚く葬られています。
しかし、死人をいくら丁重に葬っても、その人に命が与えられる訳ではあり
ません。
確かに葬りという儀礼は大切ですが、それによって死人をどうこうすること
は出来ません。
それが出来るのは、命の支配者である神のみです。
そこで、死人はむしろ神に委ね、私達は生きた人間のことを考えなければな
らないのです。
「あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」とあります。
死人の葬りということも確かに大切ですが、究極の選択ということを考える
なら、死人に関わるより、今生きている人に神の国のことを伝えて、その人
を滅びから救いへ導く方が大切です。
そのようなことが意味されているのであって、決して父の葬りを軽視すると
いうことを言っているのではありません。
 さて、3番目の人は、どのような人でしょう。
61節。

  またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別
  れを言いに行かせてください」。

この人は、自ら求めてイエスに従ったのか、イエスに招かれたのかは、はっ
きりとは分かりません。
しかし最初の形はどうであれ、イエスに従っていく途上においていろいろな
迷いがある、ということを言っているのです。
信仰生活を続けて行くに当たって、私達にも色々迷いがあります。
「家の者に別れを告げる」というのは、これまた非常に極端な例ですが、し
かし信仰生活を続ける上で、何かと断絶しなければならない、ということも
あります。
この世のものと両立できることもありますが、両立出来ないこともありま
す。
そして両立出来ないことは、何らかの形で断念しなければならないでしょ
う。
その極端な例が「家の者と別れる」ということなのでしょう。
家の者と一緒にいることによって、信仰が守れないならば、どちらかを選ば
なければならないでしょう。
家の者と別れるというのは、重大なことですが、もっとささいなこともあり
ますし、私達も日常の信仰生活において、そのようなささいな戦いはしてい
るのではないでしょうか。(昔は酒たばこを断念するということがあった)
例えば、日曜日に、何か行事がある場合、今までだったら迷うことなく、行
事に参加していた者も、キリスト者になったら、礼拝か行事かということを
迷わなければならないでしょう。
そしてやはり礼拝を重んじるということになれば、他のものは断念しなけれ
ばならないでしょう。
ここでイエスは、イエスに従うと決めた以上は、後ろを振り返って、今まで
のものに未練をもってはいけない、ということを言っています。
62節。

  イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の
  国にふさわしくないものである」。

農夫が畑を耕す時、牛にすきを引かせる訳ですが、その時前を見てすきをま
っすぐにさせないと、うまく行きません。
そうではなく、牛がすきを引いている時に後ろを見ると、バランスを崩し
て、時には非常に危険なことにもなります。
後ろを振り返って、取り返しのつかない結果になった例は、旧約聖書のロト
の妻の話が有名です。
邪悪なソドムの町が神によって滅ぼされる時、アブラハムの執り成しによっ
て、ロトとその家族だけは助け出されました。
しかしその時、神は決して後ろを振り返ってはならない、と言いました。
これは、かつての生活に未練をもってはならない、ということでした。
しかし、ロトの妻は、やはり長い間生活したソドムに未練を持ち、後ろを振
り返ったのです。
そこで彼女は、塩の柱にされたのです。
 せっかくイエスに従った者も、その信仰生活の途上において、しばしば後
ろを振り返りたくなることがあります。
信仰をもっていなかった以前の生活が懐かしく感じられる時もあります。
しかし、一旦イエスに従うことを決めて、その歩みを始めた者は、後ろを振
り返るのはふさわしくない、とイエスは言います。
 さて、ここにイエスに従う3人の人が言われていますが、いずれもイエス
の目から見て完全な信仰者ではありません。
しかしイエスは、この3人に、イエスの弟子にはふさわしくない、と言って
拒絶してはいません。
むしろそのような弱い不完全な者を、受け入れて下さっています。
この3人のその後のことは一切分かりません。
最後までイエスに従ったのか、途中で投げ出したのかは、分かりません。
しかし、主イエスが、この3人を受け入れ、愛して下さったことだけは確か
です。
また、私達も、弱い不完全な者ですが、主イエスは、私達を受け入れて下さ
っています。
そしてイエスに従う決意をした私達が、例え途中色々迷うことがあっても、
生涯イエスに従い続けることを祈り、執り成して下さっていると思います。
そのイエスの祈りに答えて、私達も生涯イエスに従い続ける者でありたい。

(1992年8月16日)