33、ルカによる福音書10章25−37節

  「わたしの隣人とは」



 今日は、聖書の中でも最も有名な話のひとつである「良きサマリア人」の
譬えについて学びます。
25節。

  するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、
  「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。

ここに一人の律法学者が登場します。
律法学者は、パリサイ派に属し、神から与えられた律法に忠実な生活を心掛
けていた人々です。
私達は、律法学者とかパリサイ人などに余りいい感情をもっていませんが、
当時の社会からすると、彼らは非常に宗教心の厚い人ということで、尊敬さ
れていたのです。
そして事実、多くは非常に真面目な生活をしていたのです。
ここに登場した律法学者も、「何をしたら永遠の生命が受けられましょう
か」と人生の根本問題についてイエスに問うています。
永遠の生命、あるいは救いと言ってもいいと思いますが、これは宗教の根本
問題です。
そして人生においても、最も重要なことです。
この律法学者は、常日頃こういうことについて真剣に考えていたのでしょ
う。
ただしここでは、「イエスを試みようとして」とあります。
問題自体は非常に重要だったのですが、その質問の動機は不純でした。
しかしながらイエスは、この律法学者の質問を真面目に取り上げています。
26−27節。

  彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読む
  か」。彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつく
  し、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛
  するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。

ここでイエスは、永遠の生命を受けるために何をしたらいいのか、という質
問に対して、ご自分で答えてはいません。
質問した律法学者に答えさせています。
マタイによる福音書22章では、イエスご自身が同じ答えをしています。
そしてイエスは、この二つの戒めが、律法と預言者全体、すなわち旧約聖書
全体の要約だ、と言っています。
ここでこの律法学者も同じ答えをしているというのは、この当時のユダヤ教
において、旧約聖書の中心は、神を愛することと、隣人を愛することだ、と
いう一定の答えがあったようです。
この『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあ
なたの神を愛せよ』というのは、申命記6章5節に記されています。
また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というのは、レビ
記19章18節に記されています。
そして、この二つを結びつけたのは、イエスが最初というのではなく、当時
のユダヤ教において既になされていたのです。
十戒においても、前半部分は、「あなたは私のほかになにものをも神として
はならない」とあるように、神を愛するということですし、後半は「殺して
はならない」「盗んではならない」とあるように隣人を愛するということに
要約できます。
ただし、当時のユダヤ教においては、この隣人については、解釈が異なって
いたのです。
29節に、

  すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「で
  は、わたしの隣り人とはだれのことですか」。

とありますが、この律法学者にとって、また当時のユダヤ教においても、隣
人というのは、自分たちの同胞、同じように律法を大切に考える集団、ある
いは自分たちの肉親のことだ、と考えていたのです。
ですから、自分の敵と思われる人を憎んだりすることはかまわない、と考え
られていたのです。
ある場合は、敵を騙したり、殺したりすることも許されていたのです。
また、自分たちと同じように律法を守れない人などを差別するのも当然だと
考えていたのです。
この律法学者も、そのように考えていたと思いますし、そのような生活をし
ていたでしょう。
そして自分で「あなたの隣り人を愛せよ」という模範解答を出し、そしてイ
エスに「そのとおり行いなさい」と言われたので、自分の立場を弁護しよう
としたのです。
 そこで、隣り人とはだれか、ということを示そうとしてイエスが語られた
のが、この有名な「良きサマリア人」の譬です。
30節。

  イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行
  く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺
  しにしたまま、逃げ去った。

エリコは、ヨルダン川に近い、非常に古い町です。
ヨシュアに導かれて荒野からカナンの地に侵入したイスラエルの民が一番最
初に足を踏み入れた町です。
先日の旅行において、私達もこの町を見てきました。
死海のほとりを南から上ったのですが、死海のほとりは一面の荒野が延々と
続いたのですが、このエリコの町の当たりまでくると、一面緑の樹木が生い
茂り、風景が一変しました。
イエスの時代、この町には多くの祭司が住んでいた、ということです。
それはエルサレムまで比較的近かったからです。
エルサレムからエリコまでは、山道を下っていく訳ですが、この道は危険な
ことでも有名でした。
ここにあるように、しばしば強盗が現れ、旅人を恐れさせました。
 さて、ここで、一人のユダヤ人の旅人が強盗に襲われ、半殺しにされた、
というのです。
そこに3人の人が通りかかりました。
一人は、祭司とあります。
彼はエルサレムでのお勤めが終わり、住宅のあるエリコに山道を下っていた
のです。
しかし、その道端で倒れている旅人を見ると、向う側を通って行った、とい
うのです。
そして、次に来たレビびとも同じように、向う側を通って行った、というの
です。
彼らが何故そうしたのか、という理由は記されていません。
何か宗教的な理由があったのだ、と説明する人もいます。
すなわち、当時の律法において、死人に触れることは、汚れを意味するの
で、祭司たちには禁じられていたのだ、というような。
しかし恐らくそういうことではなく、ややこしいことに関わりたくない、と
いった気持ちからではないでしょうか。
彼らは恐らく徒歩で山道を下っていたでしょうから、瀕死の病人を抱えて下
るのはとても大変だ、と思ったのかも知れません。
馬やロバにでも乗って通りかかる人が助けてくれるかも知れない、と思った
かも知れません。
私達の身近においてもしばしばこのような事件が起こります。
時々新聞なんかで見ますが、だれかが道路に倒れていて、大勢の人が通って
いるのにだれ一人助けようとしない、まただれ一人救急車を呼んだり、人に
知らせたりしない。
皆そのうちだれかが知らせてくれるだろうと思って、自分のために急いでい
た。
そのような無関心ということが、大都会の真ん中で行われていた、といった
報道です。
こういうことは、悪いことをした、というのではないのですが、余りにも冷
たいことです。
しかし私達も、ややこしいことに関わりたくない、という思いはあるのでは
ないでしょうか。
特に、関わっても自分に何のメリットもない、と思われる時は。
しかしイエスは、マタイによる福音書25章40節において、次のように言
っています。(P.43)

  すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わ
  たしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち
  、わたしにしたのである』。

私達は、親切にする相手が自分にとって有利な人であれば、親切にしますが
、そうでないと思われる人に対しては、わずらわしいと思うのではないでし
ょうか。
まして、普段憎らしいと思っている人に対しては、例え相手が困っていても
中々手を差し延べません。
 しかし、イエスのこの「良きサマリア人の譬」を見て見ますと、
33−34節。

  ところが、あるサマリア人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼
  を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注
  いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱
  した。

このサマリア人というのは、当時のユダヤ人とは犬猿の仲でした。
このサマリア人とユダヤ人とは、元々は同じイスラエルの民でした。
イスラエルが北と南に分裂し、さらに北がアッシリア帝国に滅ぼされてから
北の人々は、アッシリアの政策によって、雑婚させられ、イスラエルの民と
しての純粋性が失われたことによって、南のユダヤ人から非常に嫌われるよ
うになったのです。
そしてイエスの時代は、サマリア人は、ユダヤ人に嫌われ、口もきかない状
態だったのです。
ですから、サマリア人が旅の途中で道端にいわば敵であるユダヤ人が倒れて
いるのを見たのですから、助けるどころか、愉快な気持ちになってもいいと
ころです。
ところがこのサマリア人は、「彼を見て気の毒に思った」とあります。
例え、普段仲が悪くても、半殺しにされて苦しんでいる人を見た場合、「気
の毒に思う」のは、人間の自然な感情ではないでしょうか。
しかし彼はそれだけだはなく、親切に介抱し、また宿屋に連れて行き、デナ
リ二つを支払った、というのです。
まさに、敵をも愛せよというイエスの教え通りの人でした。
そしてイエスは、最後の律法学者に、「だれが隣り人になったか」と言いま
した。
すると律法学者は、37節で、

  その人に慈悲深い行いをした人です。

と答えています。
まさに正しい答えであり、この律法学者は、聖書の根本的な意味を十分に理
解していた、ということになります。
しかし、愛は、論ずるのは易しいですが、行うのは実は非常に難しいので
す。
それは、人間は所詮自己中心だからです。
最も身近である我が子でさえ、「自分を愛するように」愛しているかという
と、中々そうではないのです。
ですから敵とまでいかなくても、割りと親しい他人でも、中々「自分を愛す
るように」は愛せないものです。
まして、敵を愛するというのは、至難の業、否ほとんど不可能なことです。
このサマリア人は、実はイエスを表しているのかも知れません。
イエスこそ、敵をも隣り人とされ、自分を愛するように愛されたのです。
サマリア人が、傷ついたユダヤ人に親切にしたように、イエスは私達をこよ
なく愛して下さるのです。
私達がイエスを愛したのではないにも関わらず、イエスは私達を愛し給うの
です。
このイエスの無償の愛を私達は受けていることを覚え、わたしたちもできる
だけ多くの人を「隣り人」とすることができるように導かれたいと思いま
す。

(1992年8月30日)