34、ルカによる福音書10章38−42節

  「無くてならぬもの」



 38節。

  一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマ
  ルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。

ここで「ある村」と言われているのは、恐らくエルサレムの近くのベタニヤ
という所だと思われます。
というのは、このベタニヤの村にマルタとマリアの姉妹が住んでいた、とヨ
ハネによる福音書には記されているからです。
ヨハネによる福音書を見るとこの姉妹には、ラザロという兄弟もいました
が、この箇所には出てきません。
 さて、イエスがこのベタニヤの村に入られると、マルタがイエスを家に迎
え入れたというのです。
ですから、マルタは以前からイエスのことを知っていたのでしょう。
どこで会ったのかは分かりません。
あるいは、イエスがどこかの町で群衆に話をされた時の聴衆の一人であった
かも知れません。
そして恐らくイエスの話に感動して、イエスの信奉者になったのでしょう。
そこで、自分の村にイエスが来られた時、すぐにイエスを家に迎えたのでし
ょう。
ここにマルタの尊敬する人をもてなそうとする暖かな性格というのが現れて
います。
また、面倒みのいい、働き者の姿があります。
彼女は、イエスに御馳走を出そうと一生懸命働いていたのです。
 妹のマリアの方はどうかというと。
39節。

  この女にマリアという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き
  入っていた。

兄弟といっても、その性格が違う場合がよくあります。
聖書に出てくる兄弟も、調べてみると面白いと思います。
例えば、カインとアベルの兄弟とか、エサウとヤコブの兄弟などは、やはり
性格が全く違っていました。
また、ペテロとアンデレの兄弟もかなり性格の異なる兄弟であったようで
す。
イエスの「放蕩息子の譬話」に出て来る二人の兄弟も全く性格の違う人で
す。
聖書に、性格の異なる兄弟が多く登場するのは、そもそも人間は、一人ひと
り皆違うということを表しているように思えます。
同じ親から生まれ、同じ家で育ったにもかかわらず、一人一人が皆違う。
まして他人ならなおさらである、ということではないでしょうか。
そしてそれらの違いは、皆神からそれぞれの人に与えられたものなのです。
ですから、それぞれの違いというのは、お互い排斥し合うのでなく、お互い
認め合うことが大切なのだ、ということが言われているように思います。
このマルタとマリアの姉妹の話も、そのことが言われているのではないでし
ょうか。
このマルタとマリアの姉妹も、非常に性格の異なる姉妹であったようです。
 40節。

  ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、イエスのと
  ころにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、
  なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするようにおっしゃ
  ってください」。

マルタは、一家の主人であり、責任感も強く、よく気がつき、よく働くしっ
かり者のようです。
それに比べて、妹のマリアは、のんびりしていて、余り気がつかず、人がど
う思うかということを余り気にしない人だったようです。
そして少し変わり者のようでした。
ヨハネによる福音書の記事には、彼女は、突然高価なナルドの香油を沢山イ
エスの足に塗り、周りの者をびっくりさせた、ということが記されていま
す。
 さてここでは、マルタがイエスの接待で忙しく立ち働いていたのに、マリ
アは何もせず、イエスの足もとに座って、イエスの話をじっと聞いていた、
というのです。
そこで忙しく立ち働いていたマルタは、イエスに愚痴をこぼしたのです。
そしてこの姉の愚痴は、私達にはよく分かるのではないでしょうか。
自分は一生懸命働いている。
しかもそれは、自分のためではなく、尊敬する先生のためである。
40節で「接待」と訳されている語は、διακονιαという語で、これ
は「奉仕する」という意味の語です。
ですから、マルタは、決して自分のために忙しくしていたのではなく、主の
ための奉仕を一生懸命していたのです。
それに対して、妹のマリアは、何もせずに黙ってイエスの前に座っているだ
けです。
そしてマルタは、そのように一生懸命奉仕している自分をイエスに評価して
もらいたいと思っていたでしょう。
それに対してイエスはどう言われたでしょうか。
41−42節。

  主は答えて言われた、「マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思
  いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一
  つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女
  から取り去ってはならないものである」。

マルタの思惑に反して、イエスは意外な答えをしています。
マリアのことを非難するのでなく、かえって評価しているのです。
「マリアはその良い方を選んだのだ」と言っています。
ただしマルタの方を非難しているか、というとそうでもありません。
すなわち、接待のために忙しく立ち働かないで、マリアのように自分の話を
聞きなさい、という風には言っていないのです。
マルタは、イエスに仕えるために一生懸命だった訳ですから。
しかし、何もせずにじっとしていたマリアも、実はイエスに仕えていたの
だ、ということでしょう。
イエスの言葉を静かに聞くということも、実は奉仕なのです。
ここで、接待と訳されている語は、英語ではserviceです。
そして御言に聞くこと、すなわち、礼拝も、serviceです。
マルタはマルタの仕方で、マリアはマリアの仕方で、イエスに仕えていた訳
です。
イエスがここで言っているのは、マリアがマリアの仕方でイエスに仕えてい
たやり方をマリアから取り去ってはならない、ということです。
 私達人間は、自己中心的です。
常に自分の考えている所、自分のやっている所からしか、ものを見たり、考
えたりできません。
自分のやっている事は正しい、という思いがあります。
自分の尺度で測り、それに合わなければ、裁いたり、非難したりします。
ですから、それとは違う立場なり考え方を中々受け入れられないのです。
 ここで、マルタがイエスをもてなそうと思って一生懸命働いていたこと自
体は、非常に貴いことです。
イエスは、このこと自体には何一つ批判はしていません。
むしろ、評価していたと思います。
しかしそのような仕え方のみを認め、マリアのような仕え方を認めなかった
所に問題があったのです。
イエスは、マリアのような仕え方をも認め、評価されたのです。
ここにイエスの優しさ、また寛容というのが現れています。
イエスは、私達いろいろ非常に違いがある者を、そのままで受け入れて下さ
るのです。
一定の型があって、この型にはまらなければならない、というのではないの
です。
私達の有りのままの姿を受け入れて下さるのです。
 イエスが、マルタのことを批判しているとすれば、彼女の一生懸命の行動
に対してではなく、「思いわずらっている」ということに対してです。
なぜ彼女は思いわずらったのでしょうか。
イエスに喜んでもらいたいと思って、一生懸命食事の用意をしていたのです
から、喜びであったはずです。
ところが、何も手伝いをしない妹と自分とを比較した所に、彼女の思いわず
らいが生じたのではないでしょうか。
私達の思いわずらいの多くは、自分と他とを比較することから生じます。
それも多くは、自分の考え、自分のしていることは、正しい、という思いに
立って他人と比較する時です。
 ここでマルタは、イエスが自分の住んでいる村にやって来たのを知って、
早速自分の家に招き入れ、大いにもてなそうとした訳です。
ですから、食事の準備をしてイエスに仕えることは、大いなる喜びであった
はずです。
それが、妹の態度と比較することによって、それが思いわずらいへと変化し
たのです。
喜びであったはずのものが、思いわずらいに変わった、そこにマルタの問題
があったと言えましょう。
主に仕えること、奉仕、serviceは、喜びから出ないと何にもならないでし
ょう。
礼拝も一つの奉仕(英語ではserviceと言うが)ですが、やはり喜びをもっ
て参加するのでなければ意味がないと思います。
クリスチャンだから仕方なく来るとか、義務感で来る、というのでは意味が
ありません。
また、その他の奉仕においても同じだと思います。
喜びをもってするのでなく、強制的にこうしなければならない、というので
は意味がありませんし、それだったらしない方がいいでしょう。
42節で「無くてならぬもの」と言われているのは、マリアのような仕え方
というのではなく、「喜びをもって主に仕える」ということでしょう。
ですから、マルタのような仕え方があってもいい訳です。
私達も、喜びをもって主に仕えていく者でありたいと思います。

(1992年9月13日)