36、ルカによる福音書11章5−13節

  「求めよ」



 前のルカによる福音書11章の2−4節の所では、イエスが弟子たちに教
えられた「主の祈」が記されていました。
私達は、この主の祈を大切なものとして、礼拝においても毎回唱えていま
す。
しかし、毎回唱えているだけに、ややもすれば形式的になってしまいます。
ここで、主イエスは、「主の祈」を教えた直後にこの譬え話をされていま
す。
これは、主の祈のただ抽象的な祈りではなく、具体的な祈りであり、また私
達の真剣な祈りは必ず聞かれる、ということを言おうとしているのです。
 私達は、祈りというものを、それほど大切には考えないかも知れません。
祈った所で、それが即かなえられるとは限りません。
祈っても祈らなくても事態は何も変わらないのではないか、という冷めた思
いを持つことがあるかも知れません。
しかし、フォーサイスという人は、祈りこそ信仰者にとって最も大切なもの
であり、祈りによって私達の魂が養われるのだ、と言っています。
そしてイエスご自身は、祈りを非常に大切にされました。
福音書を見ますと、イエスが熱心に祈られたという記事が沢山出てきます。
また、パウロも伝道旅行の時によく祈られました。
旧約聖書の詩篇は、祈りの書ということができます。
詩篇は、旧約の詩人が祈った比較的長い祈りですが、ここでイエスが教えて
おられるのは、非常に簡潔な祈りです。
主イエスが教えられたということで、「主の祈」と言われています。
この祈りは、非常に簡潔でありますが、しかし十分な祈りでもあります。
何を祈ったらよいか分からない時は、この祈りをすればいいと思います。
何も言葉を整えて上手に祈る必要はありません。
 問題は、心から祈る、真剣な気持ちで祈る、ということです。
そして真剣な祈りは、単なる独り言ではなく、必ず聞かれる、ということで
す。
イエスはここで、そのことを譬えによって教えられたのです。
イエスは、譬えでよく教えられましたが、譬えというのは、比喩とは区別さ
れて、話し全体で一つのことを言おうとしているのです。
比喩というのは、例えばここの話しであれば、「友人」というのにはこうい
う意味がある、「真夜中」というのにはこういう意味がある、「パン」とい
うのには、こういう意味がある、「三つ」というのには、こういう意味があ
る、といった具合に、話に出てくるひとつ一つに何かの意味をもたせます
が、譬えというのはそのようなひとつ一つに何か特別な意味があるのではな
く、その話し全体でどういうことを言おうとしているのか、ということにポ
イントがあります。
 そこで、この譬えでは、「熱心な求めは必ず聞かれる」ということが言わ
れているのです。
この譬えでイエスが言わんとすることは、9節の

  求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

ということです。
そしてその例として、この譬え話しをしたのです。
この求めは、主の祈の第3の祈りの、

  わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。

の具体例として話されているのです。
 この譬え話は、少し変な話かも知れません。
真夜中に友人の所にパンを貸してくれ、とたのみに行った、というのです。
真夜中にパンを借りに行くというのは、はなはだ非常識なことではないか、
と思われるでしょう。
何もわざわざ真夜中に借りに行かなくても、パンがなければ、一晩辛抱し
て、次に日に行けばいいではないか、と思われます。
友人ということをいいことに迷惑をかける人もいます。
友人ならある程度の迷惑はかけたり、かけられたりするものです。
パンを三つ貸す位のことなら、何でもないかも知れませんが、それを真夜中
に借りに行くのは、いささか非常識だと思われます。
良識ある者なら、そのようなことは差し控えるでしょう。
 この当時のパレスチナの普通の庶民の家は、お粗末なもので、一つの部屋
に家族全員で寝たのです。
真ん中にいろりのようなものがあって、その回りにござのようなものを敷い
て、地面にそのまま寝たのです。
家族は肩を寄せ合って寝たのです。
従って、皆が寝込んだ時に、自分がごそごそ起きて用事をすると、家族全員
を起こしてしまいます。
そして、朝は早くから起きて仕事をしなければなりません。
夜はぐっすり寝る必要がありました。
そこでこの家の主人は、7節のように言いました。

  面倒をかけないでくれ。もう戸は閉めてしまったし、子供たちもわたし
  と一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかな
  い。

今ここで起きてごそごそすると、家族全員の睡眠を妨げてしまう。
そんな面倒はかけないでくれ、と言うのです。
もっともな話です。 
普通ならここで引き下がります。
多少の迷惑を掛けたりかけられたりするのが友人かも知れませんが、そこに
も限度というものがあります。
しかし、この男は、なおドアをたたき続けて求めたので、とうとうこの家の
主人は根負けして、パンを与えた、というのです。
 この男は、その友人に恐らく、しつこい奴だ、迷惑をかける奴だ、と厭が
られたでしょう。
恐らく厭な顔をされ、無愛想にパンを貸してもらったことでしょう。
それ位なら、一層借りなければよかった、と私達には思えます。
 この男は、なぜ、そんなに厭がられてまでも、真夜中にパンを借りに行っ
たのでしょうか。
彼は、5−6節の所で次のように言っています。

  友よ、パンを三つ貸してください。友たちが旅先からわたしのところに
  着いたのですが、何も出すものがありませんから。

実は彼は、自分のためにパンを借りに来たのではありませんでした。
彼の所に、遠くから友達が訪ねて来たからでした。
その旅人は、夜、彼の所に到着したのです。
 夜中に旅人が訪ねて来るというのもおかしな話しかも知れません。
しかしパレスチナでは、そういうことも珍しい事ではありませんでした。
パレスチナの夏は、昼間はとても暑く、太陽の照っている時、旅をすれば病
気になるので、日が沈んでから、夕方に旅をするということがよくありまし
た。
ここでの旅人も恐らくそうだったのでしょう。
そして、この男の家に夜中に着いてしまったのでしょう。
この男も実は、訪ねて来た旅人に大変迷惑をかけられたのでした。
しかし彼は、この旅人を迷惑がって追い払うのでなく、家に入れて泊めよう
としたのです。
それだけでなく、お腹をすかしているこの旅人にごちそうを出そうとしたの
です。
泊めてやるだけでも十分なのに、その上ごちそうを出そうとしたのです。
しかし自分の家に何も出すものがなかったので、真夜中ではありましたが、
友人の所にパンを借りに行ったのです。
この男は何と友達思いでしょうか。
こういうのが真の友情というのではないでしょうか。
 しかしこの譬え話でイエスは、麗しい友情について教えようとされたので
はありません。
もっともイエスは、例えば、「人がその友のために命を捨てる、これほど大
きな愛はない」と言っていますように、友を大切にすることも言っていま
す。
 しかし、この譬えのポイントは、8節にあります。

  しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、
  しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。

ここで言われているのは、明らかに友情ではありません。
「友人だからというのでなく、しきりに願うので」とあります。
これは、友情の限界を超えた所での神を動かす力とでも言うことができま
す。
熱心な求めということです。
 私達は、このような熱心な、というよりは執拗な、求めというのを余りし
ません。
そんなに熱心に求めなくても、大方のものは満たされている、ということも
あるかも知れません。
あるいは、求めてもかなわないものはかなわない、と簡単に諦めてしまって
いるのかも知れません。
祈りにおいても、熱心に祈ってもかなえられない、と思ってしまわないでし
ょうか。
しかしイエスは、10節で言います。

  すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえ
  るからである。

私達は、あるいは、祈っても祈らなくても結果は同じだ、と思っていないで
しょうか。
ただ口先だけの祈りなら、あるいはそうかも知れません。
しかしイエスはここで、熱心な、執拗な求めは、必ず聞かれる、ということ
を言っているのです。
 ただし、いくら熱心に祈っても、それが私達の望んだ通りの結果になると
は限りません。
しかしそれは、神から見て最も良いものを下さったのです。
13節。

  このように、あなたがた悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り
  物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者
  に聖霊を下さらないことがあろうか。

私達人間の親は、自分の子供には実に良い贈り物をします。
そこで、私達の真の父である神様は、私達の良い物を下さらないはずはな
い、と言うのです。
ルカのテキストでは「聖霊を下さらないことがあろうか」とありますが、マタ
イのテキストの方では、「良いもの」となっています。
聖霊は、神の力です。
神のみ心を知る力です。
 熱心な祈りと言っても、私達はややもすると、自分勝手な利己的な祈りを
します。
しかしそれが、神のみ心でなければ、神はその求めをかなえては下さらない
でしょう。
何が神のみ心かを知るのは、やはり聖霊の力によるでしょう。
そこで、イエスはここで、熱心な求めによって聖霊が与えられる、と言うの
です。
そしてこの天の父は、私達に何が必要かを知っておられます。
私達の教会に今何が必要か、天の父はよくご存じです。
そして私達の熱心な祈りに神は必ず答えてくれることでしょう。

(1992年11月8日)