38、ルカによる福音書11章33−41節
「内なる光」
33節。 だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしな い。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の 上におく。 これはだれにでも分かるごく単純な譬えです。 「あかり」というのは、当時の人があかりにしていた油にひたした「ともし 火」です。 新共同訳聖書では、「ともし火」と訳されています。 夜になって、ともし火に火をともしたならば、それはだれでも部屋の中が明 るくなるように、一番目立つ所に置きます。 せっかくの火を穴倉や枡の下に置く人はいません。 そういうことをすれば、せっかくの光りも役に立ちません。 これはだれにでもよく分かる話しです。 しかしイエスはここで、勿論、ともし火の点け方を言っているのではありま せん。 イエスの譬え話は、話し自体はごく単純な話しですが、その意味する所はそ れほど単純ではありません。 まして、その教えに忠実に従うということはそれほど容易ではありません。 それでは、ここで言われているあかりとは一体何でしょうか。 それは、キリストであり、キリストが私達に与えて下さった福音です。 聖書において、キリストはしばしば、光として言われています。 例えばヨハネによる福音書1章9節では、 すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。 と言われていますが、これはもちろんキリストのことです。 家の中ではともし火を一番中心に置くべきですが、そのように私達の生活に おいても一番中心は、まことの光なるキリストの福音です。 せっかく与えられたキリストの福音も、分からない所、目立たない所に隠し てしまっては何にもなりません。 キリストの福音によってすべてのものを照らす必要があります。 それは、キリストの福音によって、光が与えられ、力が与えられ、勇気が与 えられ、恵みが与えられるからです。 このキリストの福音を私達の生活から隠してしまっては、だめでしょう。 35節。 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。 この「内なる光」が私達にとって、最も大切なものです。 私達は、この世で生きる時、実にさまざまな光りに照らされて生きている のです。 そして、実にさまざまな光があるために、最も大切な「内なる光」を隠して しまい勝ちなのです。 そして別の光を照らして物事を見てしまいます。 しかし私達があらゆる生活において、最も全面に出すべき光りは、キリスト の福音の光りではないでしょうか。 この光を照らすことによって、あらゆる物事を見、判断すべきではないでし ょうか。 私達は、物を見る時、それは光りによって非常に影響されます。 それゆえ、私達の生活にとって照明は、非常に重要です。 例えば、白い物であっても、赤い光を当てれば、赤く見えます。 緑の光を当てれば、緑に見えます。 また、弱い光りであれば、はっきり見ることができません。 太陽のような強い光りに照らされば、それが白い物だとはっきり分かりま す。 私達は、いろいろな事にであって、判断をする場合、実はそれにいろいろ な光を当てて判断をしているのです。 どの光を当てるかによって、私達の価値観が違ってきます。 私達は、人生の歩みにおいていろいろな場面に遭遇して、その時々、いろい ろな光を当ててそれを判断し、歩んでいると思います。 その時に重要なのは、その時々に正しい光を当てて、正しい判断をしている か、ということです。 私達にとって、正しい光りとは、勿論福音の光りです。 私達は、キリストから、この福音の光をいただいているのですから、私達の 人生の時々に、この真の光りを当てていかねばならないと思います。 せっかく真の光を与えられても、それを隠してしまったら、何にもなりませ ん。 人生の歩みにおいて、福音の光を掲げて歩むというのは、そう容易ではあ りません。 パウロは、ローマの教会の人たちに、 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人に も、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。(1:16) と言っていますが、ローマの教会の人達の中には、福音を恥とし、せっかく 与えられた福音の光りを、穴倉の中や枡の下に隠していた人がいたようで す。 さて、今日のテキストの37節以下では、パリサイ人が、せっかく神から 与えられた真の光ではなく、別の光を当てて、偽善的になっていた例が記さ れています。 37節。 イエスが語っておられた時、あるパリサイ人が、自分の家で食事をして いただきたいと申し出たので、はいって食卓につかれた。 このパリサイ人は、イエスに非常に好意をもっていたようです。 パリサイ人と言えば、常にイエスに敵対していたと思いがちですが、必ずし もそうではありません。 むしろイエスに好意を寄せていたパリサイ人も少なからずいたのです。 このパリサイ人がイエスを食事に招待したというのは、彼が特別にイエスに 親近感をもっていたからです。 38節。 ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサ イ人が不思議に思った。 パリサイ人は、食前に手を洗うのを習慣にしていました。 食事の前に手を清潔にするというのは、いいことですが、それが一種の戒め となっていたのです。 しかしこれは、神の定めた戒めではありません。 しかしパリサイ人は、それがあたかも神の定めた戒めのように取り、手を洗 わない者は、神の戒めにそむいたという見方をしたのです。 このパリサイ人はしかし、イエスに面と向かってそれを非難した訳ではあり ません。 「不思議に思った」とありますが、これはイエスの態度を心の中で咎めたと いうことです。 イエスには、このパリサイ人の心が分かったのです。 39節。 そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や 盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちてい る。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではな いか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいが あなたがたにとって、清いものとなる。 ここでイエスは、内面と外面ということを問題にされています。 あるいは真心と形式と言ってもいいでしょう。 パリサイ人は、外面や形式を整えるが、そこには真心がない、ということで す。 イエスを食事に招待したのも、あるいはイエスを真心からもてなそうとした のではなく、そうすることによって、当時多くの人に支持されていた方を丁 重に扱っているということを人に見せたかったからかも知れません。 イエスがここで言わんとしていることは、勿論外面や形式を整えることでは なく、大切なのは、内面であり、真心である、ということです。 これは、旧約聖書の時代から問題にされたことです。 特に預言者たちは、真心がなく、形式だけを整える人々を批判しました。 例えば、ホセア書6章6節。(P.1249) わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。 ホセアの時代、権力者は、不正なことをして富を増やし、貧しい者をしえた げていました。 そして一方では、いかにも信仰深い者のように、神に多くの犠牲をささげて いたのです。 しかし神は、真心の伴わない犠牲なら、どんな高価なものであっても、喜ば ない、というのです。 それよりも大切なのは、神を知ることだ、と言います。 この「知る」というのは、単に知的に知る、というのではありません。 ヘブル語で「知る」というのは、ヤーダーという語ですが、これは日本語や 英語の知るという語よりは、ずっと深い意味があります。 これは、関わりの概念です。 日本語の場合、知った相手との関係は別に問題にはなりません。 ですからこれは、外面的な関係であって、内面的なことまでは関係ありませ ん。 しかしヘブル語の場合、知るということは、その者との深い関係を意味しま す。 非常に内面的なのです。 ですから、神を知るという場合、その神を愛するとか、その神に従うという ことまで含まれるのです。 今日の所でも、手を洗うという外面的なことが重要なのではなく、イエスと の関係、イエスの言葉に心から耳を傾け、イエスに真心から接するという内 面的なことが重要なのです。 これは、35節にある「内なる光」とも関連のあることです。 私達も常に、イエスの福音に照らされ、またイエスの福音に真心から従っ て日々の歩みを歩む者でありたいと思います。 (1993年1月17日)