39、ルカによる福音書12章1−12節
「真に恐るべき方」
1節。 その間に、おびただしい群衆が、互いに踏み合うほどに群がってきた が、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン 種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。 イエスの行く所には常に、多くの群衆が集まりましたが、ここにも「おびた だしい群衆が群がってきた」とあります。 ガリラヤの貧しい民衆は、心の渇きを覚えていたのでしょう。 そしてイエスの言葉に、その渇きを癒す、命の水を求めたのでしょう。 現代も多くの人が心の渇きを覚えています。 未来に中々希望のもてない状況です。 世の中が混沌としています。 世界を見ても、また日本を見ても、将来に希望をもつことがむつかしい時代 です。 心の渇きを癒すために、占いや、新興宗教には多くの人が集まります。 しかし、真の命の水を与えるキリストの言葉には、中々集まりません。 今こそ教会の使命の重大な時はありません。 さてここでイエスは、心の渇きを癒すためにイエスの所に集まってきた群 衆にではなく、弟子たちに語り始めました。 11章の終わりのところで、パリサイ人たちがイエスの命を狙い始めた、と ありました。 イエスはここで、ご自分の命は長くはないと思い始めていたのではないでし ょうか。 そこで、自分が死んだ後に、ご自分の仕事を弟子たちに託そうとして、弟子 教育に力を入れようとされたのでしょう。 さてここでイエスが弟子たちに教えられたのは、「偽善に気をつけなさ い」ということでした。 ここで引き合いに出されているのは、パリサイ人です。 彼らは、神の前に、また人の前に正しい者だ、と自認していたのです。 自分達は、数々の律法の規定を忠実に守っている、と。 「自画自賛」という言葉がありますが、当時のパリサイ人たちは、まさにそ うでした。 「自画自賛」だけならまだしも、律法の規定を忠実に守っているゆえに、神 からも自分たちは称賛されている、と思い込み、また、人々も自分達を尊敬 してしかるべきだ、と思っていました。 そこで彼らは、恐らく通りを歩くにも、肩で風を切るようにして歩いていた のではないかと思います。 昨年イスラエルを旅行した時、エルサレムの通りで、常に黒い帽子をかぶ り、髭をたくわえた人を、見かけました。 ウルトラ・オーソドックスと言われる、保守的なユダヤ教徒で、一般の人から は余りいい感情はもたれていない、ということでした。 彼らは、通りを歩く時にも、自分達は他の人とは違うというような雰囲気で した。 嘆きの壁の所にも、このような男性が大勢いて、聖書を片手に、大声でそれ を読んでいました。 この光景を見て、聖書のパリサイ人を思い起こしました。 当時のパリサイ人たちが、律法に忠実であったのは、表面的なことであっ て、一皮めくれば、一般の人と何ら変わりはなかったのです。 「他の人と自分とは違うのだ」ということは実は何もなかったのです。 「良きサマリア人の譬」にも言われていますように、だれも見ていない山の 中では、倒れている同胞のユダヤ人を見て、見ぬふりをして通り過ぎたので す。 偽善というのは、ありのままの自分を見せない、それを隠す、ということで す。 ありのままではなく、自分を自分以上に見せようとすることです。 人間に対してなら、あるいはそういう小細工はきくでしょう。 しかし、神に対しては、自分を自分以上に見せようという小細工は、全く通 用しません。 2節には、次のようにあります。 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、隠れているもの で、知られてこないものはない。 いくら表面を取り繕っても、神には隠すことができない、ということです。 完全犯罪というのは、人間の世界にはあるいは、あるかも知れません。 私が学生の頃3億円事件というのがあり、当時の世間をにぎわせました。 もう30年近く経ちますが、未だに犯人は分かっていません。 あれなどは、完全犯罪というのかも知れません。 しかし人間の目には見えないかも知れませんが、神の目には見えているので す。 ですから、あの3億円事件の犯人も、きっと安らかな気持ちではないと思い ます。 神の目には、完全犯罪ということはあり得ないのです。 ですから、私達は皆、欠けのある罪人です。 しかし、キリストはありのままの私達を受け入れて下さるのです。 何か特別立派なことをしなければ、受け入れて下さらないのではありませ ん。 表面を飾らなければ、キリストの前に出ることができない、というのではあ りません。 イエスが弟子たちを選ばれたのも、弟子たちが特別他の人より立派な人で あった、というのでは決してありませんでした。 むしろ欠けだらけの人たちでした。 その欠けあるものを、欠けあるままに認めて、あえて弟子として選ばれたの です。 ここに神の選びの真実があります。 私達も、このように、教会の礼拝に招かれているのは、神に選ばれているか らですが、それは決して私達が特にそれにふさわしかったから、というので はありません。 私達も欠けの多い者ですが、神はあえてこのような私達を欠けあるままに選 んで下さったのです。 4節。 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、その あとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。 ルカによる福音書が書かれたのは、紀元80年頃だと言われています。 当時キリスト教会は、ローマ帝国による迫害が起こりました。 そこで、ルカによる福音書の中にも、そのような迫害のことが暗示されるよ うな記事があります。 今のテキストにもそのようなことが暗示されています。 「からだを殺しても」とありますが、当時、迫害されて、殉教していった人 も多くありました。 そのような時に、迫害に負けて、キリストを拒んだ人も多くいたようです。 9節に、 しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろ う。 とあります。 この言葉の背景には、ルカが関係していた当時の教会において、迫害に屈し てキリストを拒んだ者が大勢いたことが想像されます。 江戸時代のキリシタン迫害のことも思い浮かばれます。 しかし、このような状況になって、一体どれくらいの人が、キリストの信仰 を堅持して殉教できるでしょうか。 そのような状況の中で、キリストを拒んだ人を非難できるほど、私達も強い 存在ではないと思います。 私達も、そういう意味では、はなはだ弱い存在ではないでしょうか。 しかしあのイエスの一番弟子のペテロも、イエスが捕らえられた時、「お前 もイエスの仲間だろう」と問われた時、怖さの余り、「あんな男は知らな い」と言って、イエスを拒みました。 彼は、その数時間前には、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまで も、あなたとご一緒に行く覚悟です」と威勢のいいことを言いましたが、こ れこそ偽善だった訳です。 しかし、神は、私達がそのような時に、キリストへの信仰を堅持して、殉 教することができるほど強い存在でない、ということをご存じです。 神は、私達の弱さをよくご存じです。 そして、このような私達を、忍耐をもって、養っていて下さるのです。 6−7節。 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その 一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛 までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くの すずめよりも、まさった者である。 ここには、神の私達に対する豊かな配慮というものが言い表されています。 神は、私達のどんな小さなことも知っておられます。 アサリオンというのは、当時使われていたローマの銅貨で、最も小さな単位 でした。 労働者の一日の賃金であった1デナリの16分の1でした。 そのように、無価値なすずめさえも、神は養っておられる。 まして、私達人間にそれ以上配慮して下さらないはずはない、というので す。 イエスは、同じようなことを、山上の説教でも言われました。 マタイによる福音書6章30節。 きょうは生えていて、あるは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこ のように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださ らないはずがあろうか。 神がこのように私達を養ってくださるので、「恐れることはない」と言いま す。 私達は、日々いろいろなことに恐れながら、あるいは不安を感じながら生き ているのではないでしょうか。 現在は、幸いなことに、キリスト教に対する迫害はありません。 しかし、いろいろな恐れや不安はあります。 現在なら、不景気の中での生活の恐れ、また、地中規模の汚染の恐れ、また 明日への恐れ、仕事への不安、対人関係への恐れ、病気への恐れ、死への恐 れなど、実にさまざまな恐れのなかで生きています。 このように、恐れや不安を抱きつつ生活している私達に、主イエスは、「恐 れることはない」と言います。 この「恐れることはない」という言葉は、聖書の中で、実にいろいろな人が 言われています。 旧約聖書の預言者が、神から召命を受けたときは、大体こう言われていま す。 また、マリヤが受胎告知を受けた時も、天使から「恐れるな、マリヤよ」と 言われています。 種類は違えども、私達人間は、何かに恐れつつ生きているのです。 そういう私達に神は、「恐れることはない」と語りかけます。 それは、真に恐るべき方を知る時です。 真に恐るべき方を知る場合、その他のものは恐れる必要はなくなるのです。 そうではなく、真に恐るべき方を知らない場合は、この世のいろいろなもの に恐れるのです。 その真に恐るべき方は、どなたでしょうか。5節。 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄 に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言って おくが、そのかたを恐れなさい。 神は、命の創造者です。 あらゆる命の支配者です。 その他のものは、たとえどんな恐ろしい専制君主であろうと、その創造者の 被造物です。 本当に恐るべき方は、肉体も魂も支配する神です。 ジョン・ノックスという英国の宗教改革者がいましたが、この人の墓には、 「ここに神を恐れ、人の顔を恐れなかった人が眠る」と書かれているそうで す。 そして、神を恐れるという事が、旧約聖書の知恵です。 箴言1章7節に「主を恐れることは知識のはじめである」とあります。 そして、この真に恐るべき方を恐れることによって、実はそれ以外のもの に対する恐れから解放されるのです。 私達も、真に恐るべき方を恐れることによって、この世の恐れから解放され たいと思います。 (1993年2月7日)