40、ルカによる福音書12章13−21節

  「天に宝を積む」



 今日は、午後若王子に墓参をします。
それは、11月の第一聖日が、「永眠者記念日」に当たっており、この日、
私達の教会で既に天に召された方々を覚えるからです。
そして、この時に「死」とは何か、また私達に与えられている「命」とは何
か、ということを考える機会ともしたく思います。
 人間は、死すべき存在であります。
これは、だれもどうすることの出来ない厳粛な事実です。
この点については、人間すべて平等です。
これには何らの差別もありません。
どんなにお金があっても、どんなに知恵に優れていても、どんなに権力があ
っても、死を免れることは出来ないのです。
この点においては、すべての人が平等なのです。
そして、死の時期は、誰にも分からないのです。
いつの日か、私達は必ず死ぬ日が来る、ということだけは分かっています。
 聖書におきまして、人間とその世界は、初めがあって、終わりがあるので
す。
そして、聖書におきましては、その初めと終わりには、神の深いみ旨がある
のです。
私達は、ただ勝手に生まれてきて、勝手に死ぬのではありません。
神の深いみ旨のうちに私達は命が与えられ、そして神の定めたもうた時に従
って死ぬのです。
人間の命は、その始まりも、その終わりも、神の深いみ旨があるのであって
、それは非常に厳粛なものだと思います。
最近、医学の進歩によって、その人間の生命を、その誕生に関しても、また
その死に関しても、操作できるようになってきましたが、そのようなことは
果たして神のみ旨にかなっているのかどうか、慎重に考えなければならない
のではないでしょうか。
例えば、高度な技術によって人工的に授精させたり、また受精卵を冷凍にし
て、後の時代に誕生させたり、あるいは他人の母胎を借りて出産させたり、
ということが果たして生命をつかさどる神のみ旨にかなっているのでしょう
か。
また、尊厳死ということが言われていますが、機械によっていたずらに延命
させるのもどうかと思います。
人間は、神の定めた時に死ぬということも、祝福なのではないでしょうか。
むしろ、私達の生命は、すべてを神に委ねるべきではないでしょうか。
 永眠者記念とか、墓参という折りに、私達は死との関係で、今与えられて
いる命をどのようにして大切にするかを考えたいと思います。
そこで、今日は、ルカによる福音書12章13−21節を学びます。
 13節。

  群衆の中のひとりがイエスに言った、「先生、わたしの兄弟に、遺産を
  分けてくれるようにおっしゃってください」。

ここである人が、イエスの所に、遺産相続の問題をもちかけてきたのです。
遺産相続の問題は、いつの時代でも、深刻な様相を呈します。
時には、醜い肉親の争いにもなります。
今まで仲の良かった兄弟が、遺産を巡って突然憎み合うようになる、という
こともあります。
ここでイエスの所に来た人は、親からの遺産を不当に配分されたのでしょ
う。
ユダヤの社会において、このような場合、大体は律法学者の所に調停を求め
に行ったのです。
しかしこの人は、当時律法学者よりも多くの人に信望のあったイエスの所に
やって来たのでした。
彼は律法学者よりも知恵に優れたイエスならきっと良い判断を下してくれ
る、と期待したのでしょう。
ところがイエスは、彼の要求をすげなく拒否しています。
14節。
  
  彼に言われた、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配
  人に立てたのか」。

しかしここでイエスは、その男の言っていることが不当であると思ったので
はありません。
また、イエスがこの男の問題を処理する能力がなかった訳でもありません。
この男は財産ということに目が奪われているが、イエスはもっと重要なこと
に目を向けさせようとしたのです。
この男にとって当面の、そして最も重要な問題は、遺産のことでした。
しかしイエスは、それよりももっと重要なことがある、と言います。
そして今の機会に、それに目を向けさせようとしたのです。
それは人間の命ということです。
イエスは、マルコによる福音書8章36節において、

  人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。

と言っています。
15節。

  それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警
  戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持物
  にはよらないのである」。

人の命は、持物によらない、とイエスは言います。
ここでイエスは、真の人間として生きるということが大切だ、と言っている
のです。
そしてそれをイエスは、ここで譬で教えておられます。
 この譬では、目に見える物に目を注ぎ、目に見えないものに目を閉ざして
いる人間が取り上げられ、人間の生命が永遠でないこと、死の時は人間には
知らされず、いったん死が襲ってくると人間の生命とその生前の努力が一瞬
にして無に帰せられる、ということが警告されています。
 人間は何のために生きるのでしょうか。
これは古くからの人間の大きな問題です。
人間は食べるために生きる、と考えられてきました。
食糧は、人間にとって確かに大切なものです。
どの家庭においても、またどの国においても、食糧問題は最も重要な問題で
はないでしょうか。
これは人間の生死にかかわる問題です。
現在でも、飢餓に苦しんでいる国が多くあります。
世界の人口の3分の1は、飢餓状態にあるとも言われています。
特にアフリカのエチオピアやソマリヤでは、毎日何百人もの人が飢えで死ん
でいると言います。
全世界的に食糧危機の時代が来るとも言われています。
 とは言っても、日本に住む私達にとって、食糧問題はまだまだ深刻な問題
にはなっていません。
日本では、飢えで死ぬということは考えられないでしょう。
むしろ、お金させ出せば何でも食べられる、という状態ではないでしょう
か。
日本は、19節にあるように、

  おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食
  え、飲め、楽しめ。

といった状態ではないでしょうか。
 しかし、物が豊かにあれば充実した生き方ができるでしょうか。
今の日本は物質主義、お金中心主義のように思われます。
政治も佐川急便事件に見られるように金で動いているし、教育もお金次第と
いうことではないでしょうか。
また、一般の庶民の生活も、お金が中心です。
お金中心、物質中心の考え方から、人間にとってより重要なことが失われて
いるのではないでしょうか。
ある人は、「現代の大量生産、大量消費の文化の恐るべき結果は、精神的荒
廃である」と言っています。
教育の荒廃や少年非行の増加なども、結局は物質文明の副産物ではないでし
ょうか。
 私達は、生きるためには食べなければならず、食べるためには働らかなけ
ればなりません。
しかし、生きるのは、何のためでしょうか。
これがはっきりしていない限り、いくら一生懸命働いて食糧を沢山、財産を
多く蓄えても、無意味です。
物質主義においては、物を沢山蓄えるということが目的となります。
そうなると、人間の生き方は、もう物に支配されているのです。
 16−17節。
  
  そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。そこで彼
  は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておくところがな
  いのだが』と思いめぐらした。

これは持てる者の悩みです。
者が豊かにあれば、充実した幸福な生き方ができるかと言うと、必ずしもそ
うではありません。
かえって、その者を減らさないように、何とかして少しでも増やすように、
人に取られないように、といろいろ思い煩いが出てきます。
そしてその者に、自分が支配されてしまうのです。
18−19節。

  言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建
  てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。そして自分の魂に言おう
  。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さ
  あ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。

この金持ちは、自分の魂に「たましいよ」と呼びかけています。
神より与えられている魂まで、自分の力で何とかできると思い上がっている
のです。
イエスは、この金持ちの畑が豊作であったこと自体は非難していません。
しかし、この男は、豊かな実りが神の恵みによることを忘れているのです。
そして、この男の頭を占めているのは、その作物をしまう場所のことだけで
す。
さらに、自分の生命が神から与えられていることを忘れ、その生命まで自分
の力で何とか出来るように思い上がっています。
魂を与えるもの、生命を与えるお方は、神です。
従って、この生命を与え給う神のために生きるのが、本来の人間の生き方で
す。
それは決して者を沢山蓄えるような生き方ではありません。
かえって、神のために宝を積むものです。
それは、決して自己中心的な生き方ではありません。
この金持ちに対して神は20で次のように言います。

  すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも
  取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのもの
  になるのか』。

魂は神のものです。
人間の生命は、私達の計画通りにはなりません。
ヤコブの手紙4章13−15節に次のようにあります(P.364)

  よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに1か
  年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。あなたがたは
  、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなもの
  であるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧
  にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは
  生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。

人間は被造物のひとつであって、その生命は永遠ではありません。
始めがあるように終わりもあります。
死もまた、神の支配の中にあって起こります。
人間にとって死は、逃れられない運命であって、その時がいつ訪れるかは、
神以外には分かりません。
生命は神の所有物です。
神の所有物としての生命は、ある時間、人間に委ねられ、ある日再び神によ
って取り上げられるのです。
詩篇104篇29節に、

  あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。

と言われています。
神は今夜のうちにも私達の魂を取り去ることのできるお方です。
そして私達が今生きているのは、否生かされているのは、この神のみ旨によ
るのです。
私達に求められているのは、私達の魂を支配するこの神により頼み、この神
に従って生きることです。
そして地上にではなく、この神のために宝を積む者でありたいと思います。

(1992年10月25日)