41、ルカによる福音書12章22−34節
「思いわずらうな」
今日の話はマタイによる福音書の「山上の説教」でも大体同じ内容になっ ています。 ただし、ルカの方は、前の話との関連に置かれています。 前の話は、「金持ちの農夫の譬話」でした。 この農夫の畑は、豊作であって、非常に沢山の穀物が収穫された、というの です。 ところがこの農夫は、それをしまって置く所がない、と言って思いわずらっ た、というのです。 ここに、思いわずらいというのが、必ずしも物質的に満たされない人がす る、というのではないのです。 思い煩いというのは、たいてい、自分の思い通りにならない場合に起こるの です。 私達もいろいろな場合に、思い煩うことが多いのではないでしょうか。 25節。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわず かでも延ばすことができようか。 私達の命をつかさどっているのは、私達ではなく、創造主なる神です。 この創造主を無視して、自分の力で自分のいのち、あるいは、自分の生活を 何とかしようとする所に、思いわずらいが出てくるのです。 そうではなくて、創造主なる神の愛を信じ、これに己を委ねていく所に、思 いわずらいからの解放があるのです。 私達は、父なる神を、天地万物の創造者として信じています。 創造者は、自分の作品である被造物をこよなく愛しています。 優れた芸術家は、自分の傑作を自分の分身のように思って大切にします。 神は、自分の作った自然を見て、「良しとされた」とあります。 そして、人間を造られたとき、「はなはだ良かった」とあります。 神は、人間をかけがえのないものとして創造されたのです。 従って、神はこのかけがえのない被造物を愛し、養うことは当然のことで す。 イエスは、ここで創造者なる神が被造物の私達をこよなく愛し養うことが当 然のことだ、と私達に気付かせようとしています。 しかし、私達は、往々にして、この神の恵みを忘れます。 そして、この神の恵みを忘れるとき、思い煩いが起こります。 金持ちの農夫の場合、沢山の作物が収穫されたのに、その豊作をもたらした 神の恵みを思わずに、それをしまうところがない、と思い煩ったのです。 豊かな収穫をもたらした神に感謝せずに、その豊作が思い煩いの種になって います。 そしてその揚げ句の果てに、自分の魂まで自由にできるように思い上がって います。 もし、この農夫が、豊かな収穫を見て、神の恵みを思ったなら、まず神に感 謝をしたことであろうし、それだけ沢山の物が取れたなら、自分の生活だけ にそれを使うのでなく、困っている人に分け与えるという気持ちも出て来た でしょう。 この神の恵みを忘れているときに、それを思い出させてくれるのは、自然界 のものではないでしょうか。 ここでイエスは、自然界の二つのもの、すなわち、からすと野の花を引き 合いに出して、神の恵みに気付かせようとしています。 キェルケゴールは、「野の花は、神の恵みについて教えてくれる教師であ る」と言っています。 野の花を見ていると、自然と神の恵みを思わしめられます。 ここで、「野の花」と言われているのは、アネモネの種類で、春先に非常に 美しく咲く花でした。 幸運にも私達は、昨年のイスラエル旅行の際に、これがユダの荒野一面に咲 いている光景にでくわしました。 死海の西側は殆どが石と砂の荒野で、木や草はほとんどない殺伐とした所で す。 そのような所をバスで数時間走った訳ですが、そのような荒野で突然当たり 一面きれいな花が咲き乱れた所を通りました。 バスの運転手も、驚いたようで、予定にはなかったのですが、バスを停車さ せましたので、私達は、降りて見ることができました。 まさに、野の花ですが、赤や青や黄色や緑といった、あらゆる色の花が咲き 乱れ、皆うっとりさせられました。 このような自然の条件のはなはだ悪い所にも、このような美しい花が咲き乱 れるのか、と神の自然に対いする恵みの大きさを思わずにはいられませんで した。 イエスはここで、このような野の花は、あの栄華を誇ったソロモンの着物よ りも遥かに美しいと言います。 何げない自然を見る時、私達は神の恵みの大きさを教えられます。 また、からすが言われています。 24節。 からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋 もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたが たは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。 マタイによる福音書の方では、漠然と「空の鳥」と言われています。 しかし、ルカはそれを「からす」と言っています。 ここには、ルカの意図があるのかも知れません。 レビ記11章15節をみると、からすは汚れた忌むべき鳥だ、と言われてい ます。 ユダヤ人には、汚れた鳥は食べてはならないという規定があり、そのリスト にからすが入っています。 鳥の中でもきれいな立派な鳥を引き合いに出さずに、からすを出して来てい るのは、この人々に嫌われ、忌むべき鳥でさえ、神は養っていてくださるの だ、ということを言おうとしているのではないでしょうか。 私達は、自然を見る時、神の恵みをいろいろ教えられます。 そして、人間は、その自然の中でも、最も価値ある者として創造されたので す。 この私達に神は、からす以上の恵みを下さらないはずはない、野の花以上に 養って下さらないはずはない、と言います。 28節。 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのよ うに装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらな いはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 「ああ、信仰の薄い者たちよ」とイエスは言います。 信仰とは、神のなさることに信頼し、神に全く自己を委ねていく態度ですか ら、そこには自分がどうしようこうしようという思い煩いから解放されるの です。 そのいい例は、旧約聖書に出てくるアブラハムです。 聖書ではアブラハムを信仰の父と称していますが、彼の生涯を見ますと、まさ にそうです。 ヘブライ人への手紙11章8節には、 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこ うむった時、それに従い、行く先をしらないで出て行った。 とあります。 「行く先を知らないで出て行った」とありますが、アブラハムには、いろい ろな心配はなかったのでしょうか。 不安はなかったのでしょうか。 生活のこと、寝る家のこと、頼るべき人のこと、家族のこと、食べること、 着ること、などの心配はなかったのでしょうか。 しかしアブラハムは、聖書によると、神の言う通りに従った、とあります。 そして、いろんなことを心配したとか、思い煩ったということは記されてい ません。 全く神のなさることに信頼し、神に全く委ねています。 そして神は、このアブラハムを決して見捨てず、常に彼を導き、守り、さら に大いなる恵みを与えました。 自分の期待や思いを優先させず、神にすべての信頼を寄せる時、私達は思 い煩い解放されて、恵みを受けるということを、アブラハムの話から教えら れます。 29節。 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を 使うな。 イエスはここで、「あくせくするな」と言います。 「あくせくする」ということも、私達の日常においてよくあります。 これも、自分の思い通りにならない時に起こります。 何とかして、自分の思い通りにしようとする時、私達はあくせくします。 自分の思い通りにならない状況においても、しかしながら目を転じて見ます ならば、そこには神の恵みがあるのです。 私達はしばしばその神の恵みに気付かずに、自分の思いと違っているからと 言って、あくせくするのです。 しかし、その神の恵みに気付き、神に信頼するならば、どんな状況にあって も、あくせくすることから解放されるのです。 創造者なる神は、自分の被造物、特に人間をこよなく愛し給うのです。 30節。 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あな たがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じ である。 異邦人とは、創造者なる神を信じていない人ということです。 創造者なる神に信頼しない場合、すべての中心は自分になります。 自分の思い通りになるように努めます。 しかしそのために、あくせくします。 しかし、神に信頼する者は、そうではありません。 私達の唯一の願いは、自分の意志を押し通すことではなく、神の意志に従う ことです。 31節に、 ただ、御国を求めなさい。 とあります。 私達の求むべきは、神の国、神の支配です。 主の祈でも、み心が天になるごとく、地にもなさせ給え、と祈ります。 神の意志が、この世において実現することが、私達の願いです。 私達が、日常の思い煩いから解放される唯一の道は、己を神に委ね、神の み心がこの地上において成ることを切に求めることです。 そして、神のみ心を求めるならば、私達に必要なものを神は必ず備えて下 さるのです。 私達は主の祈でも、「み心がなりますように」と祈った後、「日毎の糧を与 え給え」と祈ります。 まず神のみ旨を求めれば、この世での私達の生活もおのずと支えられます。 そこことは、アブラハムやエリヤやモーセ、あるいはパウロといった聖書の 多くの人物が証明しています。 私達も、いろんなことで思いわずらったり、あくせくしたりすることがあり ますが、常に創造者なる神が私達をこよなく愛して下さり、養って下さるこ とを信じ、神にすべてを委ねることによって、思い煩いから解放されたいと 思います。 (1993年2月21日)