42、ルカによる福音書12章35−48節
「主への備え」
39−40節。 このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来る かわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなた がたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。 ここでイエスは、私達に「あなたがたも用意していなさい」と言っていま す。 それでは一体、何を用意するのでしょうか。 この譬では、盗賊に押し入られないように、ということですが、それは一体 何を意味するのでしょうか。 私達は、普段、将来に対して備えということをします。 将来のことは余り予測できませんが、何が起こっても、どのような事態にな っても大丈夫なように、いろいろな備えをします。 「備えあれば、憂いなし」という諺がありますが、私達は普段いろいろな備 えをします。 そのような人間の心理を利用してか、世間には実にいろいろな保険がありま す。 例えば、火事になって財産が燃えてしまった時の備えとして、火災保険に入 ります。 突然死ぬようなことがある場合家族が路頭に迷わないようにと生命保険に入 ります。 癌になった時のための癌保険というのもあります。 あるいは、老後の生活の備えとして年金に入りますし、交通事故の時に困ら ないように車の保険に入ります。 あるいは、大学に入るためにはその備えとして一生懸命勉強しますし、就職 のためにそれなりの備えをします。 その教育費のために学資保険などもあります。 結婚のためにも備えをしますし、あるいは自分の葬式のための備えもしま す。 私達は無計画に生活しているのではなく、むしろありとあらゆることを考え て将来の備えを、着実にしているのではないでしょうか。 そういう意味では、私達は、賢明であり、ちゃっかりしているかも知れませ ん。 そしてそういう備えをしていない人は、何か人生に遅れをとったのではない か、という気持ちを抱かせられたり、あせりを覚えたりするのではないでし ょうか。 確かに生活のための備えというのは大切かも知れませんが、しかし最も大 切な備えに対して無知になってはいないでしょうか。 否、むしろこの世の備えよりも、優先すべき備えというものがあるのではな いでしょうか。 21節に、 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである。 と言われていますように、神に対して富む、すなわち、真の命を得るための 備えというのが最も重要なのではないでしょうか。 これだけいろいろな事に賢明に備えている人が、最も重要な備えをしていな い、というのが多くの現状ではないでしょうか。。 イエスは、そのことを譬によって示そうとされました。 36節。 主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っ ている人のようにしていなさい。 これはイエスの語られた譬ですが、マタイによる福音書25章には、別の話 として伝えられています。 そして、マタイによる福音書の方の譬の方がよく知られています。 すなわち、10人の乙女があかりを手にして、花婿が帰るのを待っている、 という話しです。 その内の5人は、思慮が浅く、油を十分に用意していなかった、というので す。 そして、あとの5人は、思慮が深く、十分な油を用意していた、というので す。 そして、思慮の浅い女たちが油を買いに行っている間に花婿が着き、家の戸 が閉められて、油を買いに行っていた5人の乙女は家に入ることができなか った、というのです。 そして、そのたとえの最後に、 だから、目を覚ましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわか らないからである。 と結ばれています。 この場合の花婿は、再臨のキリストのことです。 初期のキリスト教会においては、天に昇ったキリストが、間もなく再臨す るという信仰がありました。 イエスは、復活後40日間弟子たちと過ごされましたが、その後天に上げら れました。 その上げられた時、弟子たちは、未練をもって、じっと天を見上げていたの ですが、その時、二人の天使が言いました。 使徒行伝1章11節。(P.180) 言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あな たがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのを あなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。 イエスは、「またおいでになる」と言われましたが、初期の教会の人々は、 それを文字通り取り、しかもそれは間近である、と信じました。 聖書が記された時代、即ちパウロの手紙が書かれた紀元50年代や、マタイ による福音書やルカによる福音書が書かれた、紀元80年代の教会では、そ のキリスト再臨は比較的近い将来だと信じられていました。 特に迫害にあった時には、もうすぐ再臨のキリストが来る、という緊張感が ありました。 もっともこれは、時代や状況によって強い時やそれほどでもない時もありま した。 それが最も強く出ているのが、新約聖書の中で一番最初に書かれたテサロニ ケ人への第一の手紙とヨハネの黙示録です。 牧会書簡と言われているテモテへの手紙などは、キリスト再臨はそう間近の ことではないので、それほど緊張感はなく、むしろ教会の制度を整えてい く、という傾向にあります。 しかし、このキリスト再臨の信仰は、キリスト教の歴史においてずっとあり ます。 そして、現代においてもあります 私達の日本基督教団の信仰告白においても、「教会は公の礼拝を守り、福音 を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行い、愛のわざ に励みつつ、主の再び来りたもうを待ち望む」と告白されています。 教会は、主の再臨への備えをなす団体だ、ということも言えるのです。 ただし、その再臨のキリストがいつ来るか、ということは私達人間には分か らないのです。 キリスト教の歴史においても、何年何月何日に世の終わりが来る、というよ うな予言が何度となくなされてきました。 多くは、ヨハネの黙示録にある数字をいろいろ計算して出しているようで す。 しかし、それは当たったためしがありません。 最近も、韓国において、ある宗教団体が、昨年の10月に世の終わりが来る ということが言われて、韓国でも大きな社会問題になりました。 しかしその日が来ても世の終わりは来ませんでした。 その後、その宗教団体がどうなったかは分かりませんが、勢力が減ったこと だけは確かでしょう。 私達の家によくご婦人がたが訪問に来る「ものみの塔(エホバの証人)」も もうすぐ世の終わりが来るということを言っているようです。 この宗教団体(正当なキリスト教ではない)は、かつて1914年に世の終 わりが来ると言いました。 しかし、それは当たりませんでしたが、その年に第一次世界大戦が始まりま したので、実はそれだったのだ、ということを言って、勢いは減らなかった のです。 また、世間を騒がしている統一協会では、文鮮明という男が再臨のキリスト だと言っているのです。 これはとんでもない冒涜だと思います。 しかも、日本では、この再臨のキリストだと称する男に、どんな手段を使っ てでもお金を得て、それを送っているのです。 そのような、インチキな再臨のキリストや、でたらめな終末予言などが、歴 史において繰り返されてきましたが、聖書において、再臨のキリストが来 る、ということは言われているのです。 そこで、私達(教会)にとって大切なのは、いつ再臨のキリストが来られて もいいように備えをする、ということです。 10人の乙女の譬では、常にあかりの油を用意しておく、ということです。 今日のテキストの37節では、 主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは、さい わいである。 と言われています。 また、42−43節では、 主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる 忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。主人が帰ってきたと き、そのように努めているのを見られる僕は、さいわいである。 イエスは、山上の説教では、「心の貧しい者は、さいわいである」とか「心 の清い人たちは、さいわいである」とか「あわれみ深い人たちは、さいわい である」と言いましたが、ここでは「主への備えをしている人たちは、さい わいである」と言っていると思います。 それでは一体、主への備えとは何でしょうか。 それは、キリストが来られた時には、いつでも開けられるように用意をして おく、ということです。 ヨハネの黙示録3章20節に次のようにあります。(P.390) 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を 聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼 もまたわたしと食を共にするであろう。 キリストが来られた時に、いつでも戸を開ける用意をしておく、これは信仰 以外にないと思います。 常に変わらない信仰というものが大切です。 そのためには、やはり礼拝を大切にすること以外にはないのではないでしょ うか。 (1993年3月7日)