43、ルカによる福音書13章6−9節

  「神の忍耐」



 今日お読み頂きました話は、イエスがされた譬え話です。
新共同訳聖書には、見出しがつけられていますが、それによりますと「『実
のならないいちじくの木』のたとえ」という見出しがつけられています。
イエスがこの譬え話をするきっかけとなったのは、前に記されている二つの
事件です。
その一つは、1節。

  ちょうどその時、ある人々がきて、ピラトがガリラヤ人たちの血を流
  し、それを彼らの犠牲の血に混ぜたことを、イエスに知らせた。

このピラトという人物は、イエスを十字架にかけたことで有名ですが、他に
も残酷なことを沢山していたようです。
『ユダヤ古代誌』という本を書いたヨセフスという歴史家は、そのようなこ
とをいくつか報告しています。
先程の1節のところで、ピラトがガリラヤ人の血を流したというのは、水道
工事に反対したユダヤ人を兵士に命じて殺させた事件のことのようです。
彼は、自分の方針に反対する者をただ鎮圧するだけでなく、ここのように非
常に残酷に取り扱ったのです。
すなわち、殺しただけでなく、その者の血を犠牲の動物の血に混ぜたという
のです。
それは、神を冒涜することであり、ユダヤ人にとっては耐え難い事でした。
ピラトは、そのような民衆の感情を逆なでするようなことを、わざとしたこ
ともありました。
しかし、ここでこの事件をイエスの所に伝えた人々は、こんな残酷な殺され
方をしたガリラヤびとは、何か罪を犯したからだ、ということを暗に言って
いるようです。
ここには、当時のユダヤ教の応報的な考え方が背後にあったと思われます。
災難にあった人は、何か罪を犯したからだ、と考えられたのです。
 もう一つの事件は、4節。

  また、シロアムの塔が倒れたためにおし殺されたあの十八人は、エルサ
  レムの他の全住民以上に罪の負債があったと思うか。

シロアムにあった塔が老朽化したために、ある時突然倒れて、たまたまそこ
に居合わせた十八人の人がその下敷になった死んだのです。
これは全くの不慮の災害でした。
しかし、当時の人達は、塔の下敷になって死んだ人々は、何か悪いことをし
たからではないか、と考えたようです。
 しかし、イエスは次のように言いました。5節。

  あなたがたに言うが、そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、
  みな同じように滅びるであろう。

イエスはあらゆる迷信的な因果応報を否定されます。
私達の周りには、実にさまざまな迷信があります。
そして多くの人は、そのようなことに影響を受けて生活しています。
この日は日が悪いとか、この方向は方角が悪いとか、この字は字画が悪いと
か、ありとあらゆる迷信があります。
そして災難が起こると、やれ何が悪かったとか、いろんなことを言います。
先日もある全然面識のない女性が何やら頼みごとがある、と言ってやって来
ました。
見ると木の十字架を手に持っていました。
どういうことか、と聞くと、自分の歯がうずいて、止まらないので、占い師
に見てもらったところ、なくなった主人が生前教会に行っていたことがある
のに、現在だれもそのことをかえりみなくなったから、それが原因で歯の痛
みが止まらないのだ、と言われたというのです。
そして、十字架を買って、それを牧師の所に持って行って、それに魂を入れ
てもらって、家に置くように言われた、と言うのです。
「何と変なこと」と思いましたが、日本人は案外このようなことに支配され
ているのではないでしょうか。
そこで私は、キリスト教では、十字架に魂を入れるというような迷信的なこ
とが大切なのではなく、生ける神を礼拝することが大切なのですよ、と言っ
たのですが、それ以後その人は再び来ません。
私達キリスト者は、そういう迷信からは解放されているのです。
 災難を受けようと受けまいと、それは直ちに罪の結果という訳ではありま
せん。
罪ということからすれば、すべての人が罪を犯しているのです。
むしろ、それぞれは、災難を受けた者をとやかく言うのでなく、自分の罪を
認識して、悔い改めるべきだ、とイエスは言われるのです。
そして神は、私達が悔い改めるのを忍耐して待っておられるのです。
 そのことを言うためにイエスはここで、この譬え話をしたのです。
この譬えは、その前のガリラヤびとが残酷に殺された事件や、シロアムの塔
が倒れて12人の人達が犠牲になった事件とは直接関係がありませんが、こ
の事件を動機に、神が人々の悔い改めを忍耐深く待っていることを言おうと
したのもです。
 6節。

  それから、この譬を語られた、「ある人が自分のぶどう園にいちじくの
  木を植えて置いたので、実を捜しにきたが見つからなかった。

「いちじくの木」は、旧約聖書において、しばしばイスラエルの民を表しま
した。
またこれは、私達キリスト者と理解することもできます。
いちじくの木は、ぶどう園にたまたま生えてきたのではなく、ある人(神)
がわざわざ植えたのです。
神は、この世界の中で、私達をキリスト者と召したのです。
しかもそれは、自然に生えてきたというのではなく、神が大切なものとし
て、わざわざ植えたのです。
ここに神の私達に対する愛と配慮があります。
そしてそれは、ただ漠然と植えたのではなく、良い実がなるのを期待して植
えたのです。
 7節。

  そこで園丁に言った、「わたしは3年間も実を求めて、このいちじくの
  木のところにきたのだが、いまだに見あたらない。その木を切り倒して
  しまえ。なんのために、土地をむだにふさがせて置くのか」。

良い実りを期待して植えられたこのいちじくの木は、しかし3年間実がなら
なかった、というのです。
気の短い人ならば、1年でも実がならなかったら、その木を切り倒して、別
なのを植えるでしょう。
そういう点では、私達はいささか気が短いのではないでしょうか。
すぐに役に立たなければすぐ見捨ててしまいます。
使い捨て時代などという好ましくない時代の中にあって、私達は少し役に立
たなくなったものは、あっさりと捨ててしまうくせがついています。
そのような状況の中で、人間をもそのように扱うような社会の傾向にあるの
ではないでしょうか。
弱い者、役に立たない者、人よりどんくさい者は、社会から見捨てられてい
く世の中です。
しかし、ここの主人の態度は少し違います。
役に立たないと思われるものに、かなり辛抱しています。
すなわち、「3年間待った」とあります。
しかし、3年間待っても実がならなかったので、切り倒してしまえ、と言っ
ています。
 特に旧約聖書においては、神は時々、恐ろしい裁きの神として現れます。
ノアの洪水の物語りにおいて、神は人間の罪を見て、人間を滅ぼそうと計画
し、大洪水を起こして、ノアの家族以外の人々をすべて滅ぼした、とありま
す。
神は、正しいお方で、人間の罪に対しては、厳しい裁きを下します。
しかし神は、私達人間を裁くことが目的なのではありません。
神の目的は、罪に落ちた人間を救うことにあります。
そこで、神は、人間が神に立ち帰って悔い改めることを待つのです。
ノアの洪水の後、神は空に虹をかけて、契約のしるしとしました。
これは、神が二度と人間を滅ぼさない、という約束のしるしなのです。
神が人間の罪を見て、怒りを覚えた時、空にかかる虹を見て、かつての誓
いを思い起こす、というのです。
 そして神は、ノアの契約を成就するために、イエス・キリストをこの世に
送られたのです。
8−9節。

  すると園丁は答えて言った、「ご主人様、ことしも、そのままにして置
  いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来
  年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒して
  ください」。

実を結ぶというのは、神に従って生きる、ということです。
神との正しい関係に生きる、ということです。
しかし私達は、必ずしも、神との正しい関係に生きてはいません。
本来、切り倒される存在かも知れません。
しかし、キリストは、そのような私達のために、神に執り成して下さってい
るのです。
神の目から見て、本当に申し訳ない歩みしかできていない者に、特別な配慮
をして下さっているのです。
「ことしも、そのままにして置いてください」とあります。
ここに神の大いなる忍耐が言い表されています。
キリストは、そのように私達を神に執り成して下さっているのです。
ここに神の忍耐があります。
私達は、気長に待つ、そして中々実を結ばない者に特別な配慮を注ぐ、とい
うことが中々できません。
そのような気の短い私達からすれば、キリストは何と気が長く、忍耐深いお
方でしょうか。
何と配慮の深いことでしょうか。
「そのまわりを掘って肥料をやって見ます」とあります。
実を結ばない者に、怒りやいらだちを覚えるのでなく、さらに大いなる保護
を与えるのです。
園丁にとっては、この実の結ばないいちじくの木にも世話をする価値がある
のです。
園丁は、この実のならないいちじくの木を愛しているのです。
イエス・キリストにとって、私達一人ひとりの命は、そんなに価値があるの
です。
彼は、私達をこよなく愛して下さるのです。
私達が、神から滅ぼされずにいるのは、キリストの執り成しのお陰なので
す。
 この譬えでは、この木が次の年に実をつけて、切り倒されずに済んだの
か、あるいは次の年も相変わらず実をつけずに、とうとう切り倒されたの
か、記されていません。
そしてこれは、まだ結果の出ていない状態です。
そしてこれは、また私達の状態なのではないでしょうか。
私達も実をつけているとは言いがたい状態です。
そしてまだ、切り倒されてはいないのです。
そして、そのような私達に、キリストは何とか実をつけてほしいと、神に執
り成し、一生懸命肥料を与えて下さっているのです。
切り倒されてはならない、と一生懸命世話をして下さっているのではないで
しょうか。
私達は、こんなに私達のために一生懸命になって下さっているイエス・キリ
ストの姿を見ることができるようになりたいと思います。
私達に特別は配慮と愛を注いで下さっているキリストの姿を認めることがで
きる者でありたいと思います。
そのキリストの愛に気付き、その愛に答えるべく自分たちの生き方を反省
し、神との正しい関係を求めていくこと、それが実を結ぶことでしょう。
そのような実を結ぶことを、神は忍耐をもっていつまでも待っておられるの
です。
そして何よりも、キリストによって肥料が与えられれば、私達は必ず実を結
ぶことができるでしょう。
キリストによって、私達は常に支えられ、養われていることを覚えたいと思
います。

(1993年3月21日)