44、ルカによる福音書14章15−24節
「招きに答える」
今日の話は、イエスの譬話です。 新共同訳聖書には「大宴会のたとえ」というタイトルがついています。 15節。 列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さ いわいです」と言った。 14章の1節を見ると、イエスは「食事をするために、あるパリサイ派のか しらの家にはいって行かれた」とあります。 イエスは、パリサイ人に食事に招かれたようです。 従って、そこには、パリサイ人が多くいたと思われます。 そこで、先程の「列席者のひとり」というのも、パリサイ人であったと思わ れます。 パリサイ人は、神の国で食事をするのを非常にあこがれていました。 しかし彼らは、神の国で食事をすることのできるのは、ごく限られたユダヤ 人だけだ、と考えていました。 彼らは、異邦人や罪人がその宴会の席に連なるなどとは、考えていなかった のです。 先週の話にもあったような、食事の時に手を洗うなどの戒めを厳格に守るも のだけがそれに与ることができる、と考えていたのです。 そこで一人のパリサイ人が「神の国で食事をする人は、さいわいです」と言 ったのは、とりもなおさず自分たちが神の国で食事をする資格がある、と少 々思い上がった気持ちからの発言なのです。 そういうパリサイ人の思い上がった、あるいは他の者を見下げた思いを見抜 いて、イエスはこのような譬話をされたのです。 16節。 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの 人を招いた。 イエスも神の国を食事の席に譬えています。 しかし、パリサイ人と違うのは、「盛大な晩餐会」であり、大ぜいの人が招 かれた、ということです。 神の国には、多くの者が招かれています。 パリサイ人たちは、神の国に招かれているのは、ユダヤ人だけ、しかも律法 を厳格に守る少数の者だけ、と考えていました。 しかしイエスはここで、「大ぜいの人を招いた」と言っています。 しかし、神の国を食事と言っているのは、同じです。 神の国に招かれるのは、食事に招かれるようなものです。 私達の生活において、食事の時間というのは、最も楽しい時ではないでしょ うか。 神の国が食事の席に譬えられているということは、神の国に招かれること は、楽しいこと、嬉しいこと、喜ばしいこと、待ち遠しいこと、である、と いうことを意味しています。 イエスは、ここで、神の招きとは、ごちそうに招かれるように、非常に喜ば しいことなのだ、ということを言おうとしています。 ごちそうに招かれるのであって、何か厭な事、辛いこと、苦しいことに引き 込まれるのではありません。 しかも、この食事の用意はすべて神がして下さっているのです。 私達は、ただ出席し、そしてごちそうを食べればよいのです。 このごちそうの用意とは何でしょうか。 それは、神がイエス・キリストをこの世に送り、私達の罪を贖って下さっ た、ということです。 ここには、私達人間の行為に先立って、神の恵みの行為がありました。 私達は、この福音に招かれているだけです。 そして、もし私達がこの招きに答えて、その食事の席に行くならば、神は本 当に大きな喜びをもって、私達を迎えて下さるのです。 そのことを、イエスはこの譬で言おうとしているのです。 神の願いは、この喜ばしい招きに答えて大勢の人々が集まって来ることで す。 23節にあるように、「この家がいっぱいになる」というのが神の欲し給う ことです。 そころが、この譬えにおいて、この大いなる恵みに招かれた人が、次々と 断り出した、というのです。 彼らは、この神の招きよりももっと大切なものがある、と言って断っている のです。 ここには、神より与えられた大きな恵みに気付かずに、目先の事にのみ気を 取られている私達人間の姿があります。 当時のパレスチナにおいて、食事に招待する場合2度行うのが普通であっ た、ということです。 最初は、何日か前に招待する日を知らせるのです。 そしてその時点で断らなければ、招待を受けたと見なされたのです。 そこで招いた方は、当日になって、招待した人たちの分の食事を作り、用意 ができた時に再びしもべをやって招待者を呼んで来るのです。 そして、17節は、この時のことです。 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、 「さあ、おいでください。もう準備ができましたから」と言わせた。 ところが、ここで招待された人達が、いろいろな理由をつけて断り出し た、というこのです。 この2度目の招待の時に断るというのは、余程のことで、普通はありえない ことであったそうです。 ひとりの人は、 わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どう ぞ、おゆるしください。 と言って、断りました。 もう一人は、 わたしは5対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。 どうぞ、おゆるしください。 と言って断りました。 もう一人の人は、 わたしは妻をめとりましたので、参ることはできません。 と言って断りました。 いずれももっともらしい理由ですが、これは何日も前に既に招待状をもらっ ていることを考えれば、全くの言い訳に過ぎません。 彼らには、神の国での晩餐会の価値が分からなかったのです。 それよりも、この世の楽しみの方が魅力があったのです。 私達も、しばしば、この神より与えられた恵みに気付かずに、この世の楽し みを求めがちです。 21節。 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこっ て僕に言った、「いますぐに、町の大通りや小道へ行って貧しい人、体 の不自由な人、目の見えない人、足の悪い人などを、ここへ連れてきな さい」。 家の主人がおこった、とありますが当然でしょう。 主人は、僕を通りに遣わして、最初招かれていなかった人達を急遽呼びにや りました。 ここに挙げられている人達は、パリサイ人にとっては神の国に入ることはで きないと考えられていた人達です。 しかしイエスは、むしろこのような人達を呼んできなさい、と言います。 ここで注目したいのは、何とかして沢山の人がごちそうを食べに来てくれ るようにと、熱心になっている主人の態度です。 21節で、主人は「いますぐに・・・ここへ連れて来なさい」と言っていま す。 また23節には、「人々を無理やりにひっぱってきなさい」とあります。 ここに、この主人の何とかして一人でも多くの者を招こうとする非常なる熱 心な姿があります。 そうです。 神は、私達を一人でも多く、神の恵みに入れようと一生懸命なのです。 この神の熱心がなかったら、私達はだれ一人、神の救いに入れられていなか ったでしょう。 そして23節では、「この家が一杯になるように」と言っています。 私達は今、この狭い仮会堂で、比較的ここに一杯の人が満たされて礼拝を守 り、恵まれているように思います。 そして新会堂になっても、一杯の人が満たされればと夢見ます。 昨日も業者の方と、椅子の配置などを打ち合わせしましたが、旧会堂の椅子 をそのまま使いますが、4人がけの椅子が横に4つと縦に7列並べると、1 12人座ることができます。 これぐらい一杯に人が集まって礼拝できればなあ、という思いがしました。 やがてそのようになることを私達も祈りたいと思います。 神は、一人でも多くの者が、神の招きに与ることを望んでおられます。 神は、ちっぽけな食事の席を用意したのではなく、盛大な晩餐会を催した、 とあります。 しかし、人間はその価値、その恵みを悟らずに、せっかくの招きを断る人も 多いのではないでしょうか。 イエスはこの譬えで、神の招きは、盛大な晩餐会なのだ、と言っています が、私達人間にはそれはちっぽけなもの、つまらないものに写っているのが 現実なのではないでしょうか。 礼拝は、晩餐会に譬えられる神の大いなる恵みの場です。 私達は、礼拝において、神の恵みの場に招かれているのです。 これは決して義務的にお参りしている所、苦しいけれども仕方なく行く、と いった所ではありません。 くめど尽きない本当の命の水の与えられる所です。 イエスは、この真の命の水に私達を招いて下さっているのです。 マタイによる福音書11章28節は、そのイエスの招きの言葉です。 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あな たがたを休ませてあげよう。 これが主イエスの礼拝への招きの言葉です。 週に一度の礼拝において、み言葉の糧が与えられ、主イエスとの交わりを通 して、豊かな神の恵みを与えられるのです。 本当の安らぎが与えられるのです。 週に一度の礼拝を心から待つ、それが本当の信仰です。 私の昔からよく知っているおばあさんで、もう百歳を越えているのに、非 常に元気な方がいます。 この方は、礼拝に出るのを一番の楽しみにし、いつも日曜が早くこないかな と待っています、と言っています。 あたかも私達が毎日、夕食を楽しみに待つように。 毎週の礼拝を食事のごとくに楽しみに待つというふうになれば、私達の信仰 も本物ではないでしょうか。 神の招きが晩餐会に譬えらていますが、これは私達の与る聖餐式と関係が あります。 聖餐式も、私達が神の国において与る祝宴の先取りなのです。 これは、お腹一杯食べたり飲んだりする訳ではありませんが、あのパンとぶ どう酒は、神の国で喜びをもって与る祝宴の先取りなのです。 聖餐式において私達は、今既に神の国の祝宴に預かっているのです。 神は、私達すべてを、神の大いなる恵みへと招いて下さっています。 それも、熱心に、一生懸命、招いて下さっているのです。 私達を熱心に招いて下さっている神の姿に、私達は目を留める必要がありま す。 一生懸命私達を招いて下さる神の恵みに私達は気付かなければなりません。 そして私達が、この招きに答えて行くならば、神様は大きな喜びをもって、 私達を心から迎えて下さるのです。 私達は、この神の熱心な招きに答えて行くものでありたいと思います。 (1993年5月16日)