45、ルカによる福音書15章1−7節

  「いなくなった羊」



 ルカによる福音書15章には、イエスのされた三つの譬話が記されていま
す。
第一は、今日のテキストである「いなくなった羊」の譬話です。
そして第2は、8−10節に記されている「なくした銀貨」の譬話です。
そして第3は、11−32節の「放蕩息子」の譬話です。
そしてこの三つは、どれも同じテーマの話なのです。
即ち、神のみもとから離れてしまった者が、神の所に立ち帰るということ
が、神のとって最も喜びだ、ということです。
この神の所に立ち帰るということが、「悔い改め」ということです。
7節と10節では、「悔い改め」と言われていますし、17節の所では、
「本心に立ちかえって」と言われています。
恐らくルカは、伝えられていたイエスの譬話の中から、この三つをテーマが
同じだとして、同じ所に集めたものと思われます。
というのは、マタイによる福音書の方では、18章の所で「いなくなった
羊」の譬話だけが記されているからです。
 さて、イエスが譬話をされる時、常にその動機なり意図なりがあります。
前の14章15節以下の所の「盛大な晩餐会」の譬話の所では、次のように
ありました。15−16節。

  列席者のひとりがこれを聞いてイエスに「神の国で食事をする人は、さ
  いわいです」と言った。そこでイエスが言われた、

「そこで」と記されています。
この譬話をなぜしたか、ということです。
その意図は何かということです。
即ち、この譬話は、パリサイ人が自分たちだけが神の国で食事をすることが
できると思い上がっていたことに対して、イエスは「そうではないのだ。神
はむしろすべての人を招いて下さっているのだ」と言おうとされたのです。
今日の所では、1−3節にそのような動機が記されています。

  さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってき
  た。するとパリサイ人や律法学者たちがつぶやいて、「この人は罪人た
  ちを迎えて一緒に食事をしている」と言った。そこでイエスは彼らに、
  この譬をお話しになった。

ここでも「そこで」と言われています。
パリサイ人や律法学者たちが、イエスが取税人や罪人と一緒に食事をしてい
るのを非難したことに対して、この譬が語られたのです。
「そこで」というのは、私達の考えに対して、神の思いはそうではない、と
いうことです。
聖書のメッセージはしばしば、私達が普段考えていることに対して、「そこ
で」と言って、クレームをかけます。
その時に、なおかつ自分の考えが正しいとするか、それを反省して神の思い
に耳を傾けるか、ですが、神の思いに耳を傾けるのが、悔い改め、というこ
とです。
そして神は、私達がその神の思いに耳を傾けるならば、非常に喜んで下さる
のです。
 「取税人」というのは、当時のユダヤの社会において、非常に悪いイメー
ジがありました。
それは彼らは、ユダヤ人でありながら、同胞のユダヤ人から税を取り立て
て、それを支配国のローマに収めていたからです。
ユダヤは当時、ローマ帝国の占領下にあり、多額の税金を収めなければなら
なかったのです。
これは単に経済的な負担だけでなく、精神的な屈辱でもありました。
そして取税人は、その手先になっていたということで、人々から嫌われてい
たのです。
特にパリサイ人たちは、彼らを汚れた者だ、というレッテルを貼っていたの
です。
また、「罪人」というのは、神から与えられたとする律法の規定を実際に破
った者です。
盗みをしたとか、姦淫を犯したとか、特に宗教的な定めを破った人たちで
す。
このような人たちは、パリサイ人たちからは、軽蔑され、彼らの社会からは
はじかれていたのです。
パリサイ人たちは、このような取税人や罪人を汚れた者として一切交際しな
かっただけでなく、彼らと交際する人をも非難したのです。
 ところがイエスは、これらの人たちに偏見を持たなかっただけでなく、こ
れらの人と交際したのです。
しかもだれからも分からないように隠れてというのでなく、白昼堂々と交際
したのです。
特に、食事を共にするということは、最も親密な関係を表しました。
伝統的な考えに支配されていたパリサイ人や律法学者にとって、このイエス
の行動はひんしゅくものでした。
彼らは、このような神の律法を無視する罪人が救われるということは考えも
しなかったのです。
むしろ、このような罪人は、滅ぼされて当然だ、と考えていました。
2節の

  この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている

というのは、パリサイ人たちのイエスに対する激しい非難の言葉なのです。
 このようなパリサイ人たちの非難に対して、イエスはこれにまた激しい論
争をしかけるというのでなく、子供に話すような譬話をされたのです。
このイエスの態度は、普通の人間の非難されたらやり返す、ののしられたら
ののしり返す、という態度ではなく、何とかしてパリサイ人たちにも神の思
いを分かってもらいたい、という優しさが溢れています。
イエスは、私達にも、何とかして神の思いを分かってもらいたいと思ってい
るのです。
15章に記されている三つの譬話で重要な言葉は、「喜び」ということで
す。
5節、「そして見付けたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、」
6節、「わたしと一緒に喜んでください。」
7節、「大きいよろこびが、天にあるであろう。」
10節、「神の御使たちの前でよろこびがあるであろう」。
32節、「喜び祝うのはあたりまえである」。
これは羊飼の喜びであり、女の喜びであり、父親の喜びですが、実は神の喜
びです。
神は何をこんなに喜んでおられるのでしょうか。
いなくなった一匹の羊が見つかったからであり、なくなった一枚の銀貨がみ
つかったからであり、いなくなった息子が帰って来たからです。
これは譬です。
譬は、それを用いて何かを言おうとしているのです。
これは一体何を意味しているのでしょうか。
 イエスは取税人や罪人の生き方を是認されたのではありません。
貧しい者を騙して沢山の税金を取り立て私服を肥やしていた取税人の生き方
を認めていたのではありません。
神の戒めを無視して放縦な生き方をしていた罪人をそのまま認めていたので
はありません。
これらの人は、神を忘れ、自分勝手に生きていたのです。
今日の譬は、「いなくなった羊」ですが、いなくなった羊そのものが良い、
というのではありません。
あくまでも本来の道をはずしたので、羊飼がそれを連れ戻しに行くのです。
そしたら何を喜んだのでしょうか。
1節。

  さて、取税人や罪人たちが皆、イエスの話を聞こうとして近寄ってき
  た。

神から遠ざかっていた人々が、神の話を聞こうとイエスの所に近寄ってきた
のです。
今まで、神とは無関係に、自分がもうけるためには貧しい者を虐げて重い税
を取り立ててきたような生き方、神から与えられた法を無視して、罪を犯し
他人に大きな迷惑をかけてきたような生き方をしてきた者が、神の話を聞こ
うとしているのです。
これをイエスは喜んでいるのです。
そして、6節に「わたしと一緒に喜んでください」とあるように、イエスは
神のことをよく知っているはずのパリサイ人や律法学者にも、共に喜んでほ
しいと思っていたのです。
 今日の譬で最も印象的なのは、羊飼の態度です。
彼は、いなくなった一匹の羊を一生懸命、見つかるまで捜すのです。
群れから離れてしまう羊は、弱い羊です。
健康でしっかりした羊なら、そういうことはありません。
群れから離れてしまう羊は、不健康とか羊なりに劣ったものです。
そういう弱い羊を一匹なくしたからと言って、残りの99匹を野原に残して
おいてまで、捜しに行くでしょうか。
普通は、弱い厄介ものの一匹より、しっかりした99匹を守ろうとするので
はないでしょうか。
しかし、この羊飼は、迷い出た、弱い一匹の羊をあくまで捜します。
この羊飼にとっては、この迷い出た羊が、かけがえのない羊なのです。
4節に「見付けるまで」とありますが、ここにこの羊飼のこの一匹の羊に対
する執着があります。
熱心さがあります。
預言者イザヤは、救い主として「ひとりのみどりご」が与えられるという預
言をしますが、その時、

  万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

と言っています。
そうです。
主は、私達を一人でも救いから漏れることのないように、非常に熱心なので
す。
 今日の譬で言われているのは、いなくなった羊は、この羊飼にとってかけ
がえのないもので、他のもので代わりにする訳にはいかない、ということで
す。
そして見付けるまで捜すという熱心さです。
さらに、見つかった時の喜びの大きさです。
これはとりもなおさず、神が私達人間を捜し求めている態度です。
 機械文明は、同じ部品をいくらでも作ります。
そして、この部品がだめなら別の部品と簡単に代えてしまいます。
そしてこういう考えが人間にまで及び、この人間がだめなら他の人間が代わ
りになる、ということがよく行われているのではないでしょうか。
社会に余り役に立たないとか、迷惑をかける者は、簡単に見捨てられてしま
うのではないでしょうか。
しかし、神様は、私達一人ひとりが掛け替えがないのです。
掛け替えがないというのは、「たのもので代用できない」ということです。
この羊飼にとっては、この迷い出た弱い羊に代えるものはいなかったので
す。
あくまで、うしなわれたその羊が必要であり、そのために「見つかるまで」
捜したのです。
また、私達も、神にとって、かけがえのない存在なのです。
神は、私達一人ひとりをかけがえのないものとして、大切に扱って下さるの
です。
 7節で「悔い改め」ということが言われていますが、この羊は果たして悔
い改めをしたのでしょうか。
否、何もしていません。
群れから迷い出たことを反省した、というようなことは言われていません。
ただ、羊飼に見付けられ、肩に乗せられた、とあるだけです。
すなわち、羊の方は全く受け身なのです。
しかしこの受け身の態度、神のみ手にただ己を委ねていく、それが実は悔い
改めなのです。
今までは、自分中心に、自分勝手に生きて来た者が、神の愛に気づかされ、
それに己を委ねていく、それが悔い改めなのです。
今まで神と無関係に生きてきた取税人や罪人がイエスの所に近付いて、神の
話を聞こうとした、イエスはこれを悔い改めと言っているのです。
そして、神にとってはこれが最も大きな喜びなのです。
この譬には、喜びしかありません。
迷い出て、迷惑をかけた羊に対する非難や愚痴や叱責といったものはありま
せん。
ただ見つかった時の喜びだけがあります。
 私達も、私達を見付けるために一生懸命になっている神の姿に気付き、こ
の神の愛に己を委ねて行く者でありたいと思います。

(1993年6月6日)