46、ルカによる福音書15章11−24節
「帰ってきた息子」
今日のテキストは、有名な「放蕩息子」の譬話です。 これは、「世界で最も偉大な短編」とも言われています。 この話は、昔から多くの人に感動を与えてきましたし、伝道集会などのテキ ストにもよくなります。 しかしこの話は、「放蕩息子の物語」と呼ぶのは、ふさわしくありません。 なぜなら、この話の主人公は、息子ではなく、父親であるからです。 この物語では、父親の「喜び」ということが言われています。 この父親は何故喜んだのでしょうか。 24節。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかっ たのだから。 死んでいたのに生き返るということは現実にはないでしょうが、もしいなく なった我が子が見つかったとしたら、その喜びは何にもまさるものではない でしょうか。 先日も、生まれたばかりの赤ちゃんが病院から誘拐され、約1か月後に無事 見つかって両親の所に戻されたという事件がありました。 この時の、両親の喜びは、察するに余りあるものだったでしょう。 この「放蕩息子」が帰って来た時の父親の喜びは、そのような、否それ以上 の喜びだった、というのです。 ルカによる福音書15章には、三つの譬話が記されていますが、それらは 同じテーマのものです。 第一の話は、先日学びましたが、群れからいなくなった一匹の羊を見付けた 時の羊飼の喜びが言われていました。 第二の話では、なくした一枚の銀貨が見つかった時の、女の喜びが言われて います。 今日の所でも、いなくなった息子が帰って来た時の父親の喜びということが 言われています。 さて、この物語の父親には二人の息子がいました。 兄と弟です。 聖書には、しばしば、全然性格の異なった兄弟が登場します。 そのために、時々、心理学の研究材料にされたりもします。 例えば、聖書の最初の方にカインとアベルの兄弟が登場します。 昔『エデンの東』という映画がありましたが、これは、旧約聖書のこの物語 を題材にしたものです。 また、創世記には、エサウとヤコブという双子の兄弟の話も出てきます。 これも、全然性格の違う兄弟として描かれています。 そして、今日のテキストにおいても、全く対照的な人物のようです。 兄は、どちらかと言うと、真面目で、親孝行で、働き者のようですし、弟は 逆に遊び好きで、怠け者で、親不孝者でした。 そして恐らく、優等生の兄にいつも劣等感をもっていたのではないでしょう か。 一方真面目な兄は、ぐうたらな弟を軽蔑していたでしょう。 さて、この弟は、親に自分の財産を要求しました。 12節。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしが いただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやっ た。 これは、遺産の先取りです。 ユダヤの法律では、こんな場合、父の遺産は、兄には3分の2、弟には3分 の1が与えられることになっていました。 しかしそれは、父が死んだ時であって、父親が生きている間は、その財産は 父が管理することになっていました。 弟は何故、父の遺産を先取りしようとしたのでしょうか。 それは、父の家を離れて、自由に行動したかったからでしょう。 父の家では、何不自由ない生活であったと思われますが、そこに魅力を感じ ず、もっと面白い世界がある、何でも自分の好き勝手にできる所がある、と 思ったのでしょう。 自由ということは、非常に大切なことです。 しかし、何でも自分のしたいようにする、ということは、本当の自由ではあ りません。 パウロは、ガラテヤ人への手紙において、真の自由ということを述べていま す。 ガラテヤ人への手紙5章1節。(P.298) 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったので ある。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならな い。 パウロは、ここでまず、キリストは私達を自由にした、ということを言いま す。 しかしこれは、自分の好き勝手に何でもしてもいい、というのではありませ ん。 13節には、次のようにあります。 兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためであ る。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕 えなさい。 この放蕩息子は、自由というものを、まさに肉の働く機会としてしまったの です。 このような自由の結果は、決していいものとはなりません。 13節。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠 い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果たした。 この弟は、お金があれば何でも自由に出来ると考えたのでしょう。 しかし、お金の力なんていうのは、実にはかないものです。 特に自分の楽しみのために使う場合は、あっと言う間です。 数年前のバブル経済から、その崩壊を見ますと、実によく分かります。 お金というのは、神様のために、有効に使ってこそ意味があります。 「遠い所へ行った」とありますが、これは場所的に遠い所というだけでな く、心も父から遠く離れた、ということです。 しかし、神から離れるなら、それは一時的に栄えても、結局は滅びに通じま す。 そして、人間は、常に神から離れようとしてきたのです。 神に依存せず、自分の思いで自由に生きたいと思ってきたのです。 科学の発達した現代においても、神に寄り頼むのは、弱い人間だという風潮 が一般にあるのではないでしょうか。 「私は無神論者だ」と言うと、何かしっかりした人のようにも思えます。 しかし、そうではありません。 聖書においては、神から離れるのは、本来の自己を見失うことだ、と言いま す。 そして、これを罪と言います。 罪という言葉は、元々は、「的をはずす」という意味です。 神から離れて、自分の力で、自分の思いで生きていくのは、強いように見え ますが、しかしその生き方は本来の自己を見失っているのです。 的をはずしているのです。 そしてそれは、結局、滅びへと通じるのです。 この弟は、どうでしょうか。 自分の力で、自分の好き勝手に、自由に生きようとしましたが、父からもら った財産も瞬く間に使い果たし、食べるものもなくなり、とうとう豚飼いを させられたのです。 ユダヤ人の社会では、豚は汚れた動物とされていました。 しかし、彼には、その汚れた動物である豚の世話をする仕事しか残されてい なかったのです。 しかも16節を見ますと、彼はその豚のえさであるいなご豆で腹を満たした いと思った、とあります。 ちなみに、このいなご豆は、豆とあるので、地面にはえている草になるもの かと思っていましたが、昨年のイスラエル旅行の時実際に見たのでは、比較 的大きな木の上のほうになっていました。 さて、この息子は、この惨めな状態の時に、父のことを思い起こしたので す。 17節。 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余 っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしてい る。 ここに「本心に立ちかえった」とあります。 これは、本来の自己にかえる、ということです。 父の財産を持ち出して、父から遠く離れて遊び歩いていたのは、本来の自己 ではなかった、ということです。 そして息子は、今本来の場所である父の所へ帰ろう、と思います。 これが、悔い改めです。 前の二つの譬話、すなわち「迷い出た羊」の話と「無くした銀貨の話」にお いても、「罪人がひとりでも悔い改めるなら、天の父が非常に喜ぶ、という ことが言われていました。 今日の所では、本心に立ち帰った息子を、父親は非常に喜んだのです。 神から遠く離れて、自分の力で、自分の思いにしたがって、自由勝手に生き るのが本来の人間の在り方ではなくて、この私達をこよなく愛して下さる神 との関係において、神の御心に従い、神に寄り頼んで生きるのが、本来の人 間の在り方なのです。 人間は、神と無関係にも十分生きることができます。 そして、むしろ神と無関係に生きるほうが、強くしっかりしている、と思 い、またその方が自由で楽しいと思っています。 しかしそれは、先程のパウロの言葉を借りれば、「肉の働く機会」なので す。 「肉の働く機会」というのは、自己中心ということです。 しかし私達のもっている賜物は、実はすべて神から与えられたものなので す。 そしてそのことを忘れて、私達はそれを自分勝手に、自由に使っています。 現在、世界的に環境破壊が問題になっています。 神が私達人間に与えて下さった美しい、素晴らしい自然を、人間は自己の利 益追求のために使い、そのために、自然が大きく破壊され、取り返しのつか ない所まで来てしまっています。 この息子は、多くの財産で遊び暮らしていましたが、その財産は、元々は 父のものです。 それを忘れて、自分勝手に使っていた結果は、破滅でした。 私達の自然も、また私達の知恵も、神から与えられたものです。 これを忘れて、自分勝手に使うなら、やはり破滅へと向かうのではないでし ょうか。 そろそろ人間も自己中心的な考えをやめ、心を神に向けなければ、地球全体 が人間の住めない環境になってしまいます。 そうではなく、私達は、本心に立ちかえる必要があります。 この本心に立ちかえるのを、神は忍耐強く待ち続けているのです。 父は、放蕩息子の帰って来るのをいつも待っていました。 ここには、常に私達を待ち続けている神の姿があります。 神は、私達が、帰るのを忍耐強く待ち続けているのです。 そして、帰って来た息子に対して、非難や小言や怒りといったものは、一 切ありません。 ただ、喜びだけです。 そして「雇人」として下さいという子に対して、再び息子として扱います。 22節。 しかし父は僕たちに言い付けた、『さあ、早く、最上の着物を出してき てこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 ここには、ただ無邪気に喜んでいる父の姿があります。 この息子は、既に息子としての権利を失っていたのです。 ただ、父の恵みによって、再び子と認められたのです。 これは、神の私達に対する大いなる恩寵が言われています。 私達の本来の所である神のみもとに帰る、これが何にもまして神の喜び給う ものです。 私達は、普段、余り神中心的な歩みをしていません。 しかし、少しでも神の方に目を向け、神の御言に耳を傾けるなら、神はそれ こそ最上の喜びを私達に示して下さるのです。 私達も、神の喜び給う者になりたいと思います。 (1993年6月27日)