47、ルカによる福音書16章1−10節

  「小事に忠実な者」



 今日のイエスのされた譬話は「不正な家令の話」と言われているもので
す。
新共同訳聖書には「不正な管理人のたとえ」という題がつけられています。
この譬話は、福音書の中でも最も解釈の難しいもののひとつです。
長年聖書に親しんできた者でも、この話には余り納得しないのではないでし
ょうか。
前の15章の三つの譬話は、比較的分かり易く、また感動的でした。
すなわち、いなくなった一匹の羊を一生懸命捜す羊飼の話し、また放蕩ざん
まいしてきた息子を優しく迎え入れる父親の話し、これを通して、神の私達
に対する愛というものはこんなものか、と感動させられます。
その感動的な話のすぐ次に、この話がきているのです。
はなはだ効果的でない並べ方だ、という思いをもちます。
そもそも題からして「不正な」という言葉がつけられています。
「不正な」というのは、言うまでもなく悪いことです。
最近でも、政治家と建設業者との不正が明るみに出されましたが、このこと
を歓迎している人はいないでしょう。
皆、何とかしてこのような不正がなくならないかな、と思っています。
今日の譬話で、不正なことをした家令が非難されているというのならよく分
かります。
しかし、その逆に誉められている、というのですから、どうなっているの
か、と思うでしょう。
 聖書の他の話においても、悪いことをした人が祝福を受けたという話があ
ります。
例えば、創世記に出てくる、ヤコブとエサウの物語りです。
弟のヤコブは、兄のエサウを騙して、長子の特権を奪ったり、父がエサウに
与えようとした祝福をヤコブが騙し取ったりする話がありますが、聖書の記
事では、ヤコブが誉められているのです。
この話などもいろんな理由づけがありますが、なお疑問が残ります。
今日の譬も、やはり疑問が残るような話しです。
8節。

  ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子
  らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。

この「主人」は、一般にこの財産の所有者である金持ちであると考えられて
いますが、本文のギリシア語ではκυριοsであって、主イエスの場合の
「主」とも訳せる言葉です。
従って、ここの「主人」は、イエスであるとも解せます。
主人が自分の部下の不正、しかも自分の財産に莫大な損害をもたらすような
不正をした部下をほめるということは考えにくいので、ここでは主イエスと
解するほうがいいでしょう。
 しかし、ほめたのが主イエスだとしても、不正な家令のやり方をほめたと
いうことは中々分かりにくいのではないでしょうか。
 そこで、この譬を、もう一度見てみましょう。
1節。

  イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持ちのところにひとりの
  家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があ
  った。

「ある金持ち」というのは、田舎に沢山の土地をもっている大地主です。
このような大地主は、大都会に住み、自分の所有地は、信頼できる管理人に
任せるのです。
ここで家令というのは、その大地主に土地の管理を任されていた管理人で
す。
この管理人は、任された土地を小作人に貸して、地代としてその産物を収め
させていたのです。
しかし、この管理人は、ずさんな管理をし、無駄遣いが多かったのです。
非常にだらしのない人でした。
あるいは、主人がそばにいないのをいいことに、任された仕事に不忠実でし
た。
そしてそのことが主人である金持ちの大地主の耳に入ったのです。
 2節。

  そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあ
  るが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令を
  させて置くわけにはいかないから』。

そこで主人は、帳簿を見せよ、と言います。
そしてもう管理を任せておくことはできない、と言います。
帳簿を見れば、管理のずさんさが分かり、無駄遣いの多いことが発覚しま
す。
するとすぐに首になって職を失ってしまいます。
そこで、この家令は、職を失ったら、どうして生きていったらいいかを考え
ました。
3節。

  この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り
  上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずか
  しい。

管理人といっても主人の土地を管理しているのであって、自分には、少しの
所有地も財産もありません。
従って、職を取り上げられると、明日からどう生きていったらいいか分かり
ません。
恐らく彼には、妻や子供たちもいたでしょう。
そうすると家族全員が路頭に迷わなければならなくなります。
この時に、この家令は、一生懸命生きることを考えました。
恐らく今まで、主人の土地を任されて、明日どう生きるというようなことも
余り考えず、安穏と暮らしていたのでしょう。
大きな土地を任されているということにあぐらをかいていたのでしょう。
しかし、首になるという段になって、明日どう生きるかを真剣に考えまし
た。
「窮すれば通ず」という諺がありますが、人間本当に困った時、何かいい知
恵がわいてくるものです。
この家令は、この窮地において一つのことを考えつきました。
5−7節。

  それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、
  『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
  『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書
  がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。次に、もう
  ひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石で
  す』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十
  石と書き変えなさい』と言った。

ここの負債というのは、いろいろな名目の税金や地代等が滞り、累積されて
大きな額になったものだと思われます。
小作人の生活は苦しく、しばしば地主に大きな借金をするものです。
「油百樽」とは、オリーブ油2300リットル、「麦百石」とは、小麦約3
0トンというから、大変な負債です。
ここで家令は、その負債者に証書を書き換えさせます。
これは、この家令が首になる前にまだ自分の権限でできる最後のことでし
た。
この家令は、急いでいます。
6節では、「すぐ書き換えなさい」と急かせています。
これだけ一生懸命立ち働いたのは、この家令にとって初めてのことではない
でしょうか。
そしてこれは、首になった後のことを考えてです。
今まで、漫然と生きてきたが、今度は精一杯生きようとしたためです。
 この譬は、本来7節で終わっていました。
そのあとの言葉は、イエスのいろいろな言葉をルカがここに並べたもので、
必ずしも一貫性はありません。
「譬え」というのは、もっと大切な何かを言うために、卑近な例を引き合い
に出しているのです。
従ってここでも、家令のしたような負債の証書を偽造するということを薦め
ているのではありません。
イエスも8節において、この家令の不正をほめているのでなく、利口なやり
方をほめたのです。
すなわち、首にされるという危機に直面して、この家令が素早く取った行動
が誉められているのです。
首にされるのは、自分の今までの在り方がだらしなかったから仕方がないと
して、今までのことを悔やんでももう取り返しがつきません。
しかし、過去のことを色々悔やんでいる余裕はありません。
家族を抱えて、明日をどう生きるかを緊急に考えなければならなかったので
す。
すぐになにかを判断し、決断しなければならなかったのです。
 私達は、この世で生きて行く場合、特に窮地に陥ったとき、誰にも何ら迷
惑をかけず、清く正しく生きるということは殆ど不可能です。
多少誰かに迷惑をかけつつ、精一杯生きている、というのが現実ではないで
しょうか。
この家令の場合、証書を偽造したのだから、最上の道ではなかったでしょ
う。
これは悪いことであり、不正は不正として残り、当然の結果として首にされ
たでしょう。
しかし、こういう処置を取ったお陰で、家族が路頭に迷うということだけは
避けられたでしょう。
また、ここで迷惑をかけたのは、大金持の地主に対してであり、大きな負債
をかかえて苦しんでいた小作人にとっては、むしろ有り難いことでした。
この話で、もし、貧乏な小作人を犠牲にして生きる道を考えたとしたら、ほ
められることはなかったでしょう。
 この譬を用いてルカが言いたいのは、10節です。

  小事に忠実な人は、大事にも忠実である。

「小事」というのは、この世でいかに生きているか、ということです。
どのように生活を成り立たせていくか、ということです。
日常の生活をどうやっていくか、ということです。
これは、どうでもいい事ではありません。
私達は、永遠のことのみを考えて、日常のことはどうでもいい、という訳に
はいきません。
明日を精一杯生きるために、私達は真剣に考えなければなりません。
これは人間に与えられた一つの課題です。
労働とか、お金儲けのことも、大切なことです。
パウロは、テサロニケ人への第二の手紙3章10節で、

  働かない者は食べてはならない。

と言っています。
 イエスはしかし、この世の生活を精一杯生きる、ということだけを言って
いるのではありません。
否、もっと大切なのは、「大事に忠実」ということです。
これは、単にこの世の生活でなく、本当の命、永遠の生命のことです。
イエスは、明日を精一杯生きることに一生懸命になるなら、もっと大切な永
遠の生命を得るためにさらに一生懸命になるべきだ、と言っているのです。
そして、この両者、すなわち小事と大事は無関係ではありません。
否、むしろ、明日を精一杯生きるということを真剣に考える者は、もっと大
切な永遠の生命を得るためにも真剣に考える、ということです。
私達は、小事に忠実に、そして更に大事に忠実な者となりたいと思います。

(1993年7月11日)