49、ルカによる福音書17章1−10節
「赦し、信仰、奉仕」
今日のところには、イエスが弟子たちに教えられた三つの教えがありま す。 しかしながら、いずれも極端な話であって、私達には少し理解しにくいので はないでしょうか。 この話自体に引きづられて、余りこれを文字通りに捉えずに、その意味する 所を捉えることが大切です。 1−4節では、兄弟を赦しなさい、ということが勧められているのです。 ところが、2節などは、極端な例であって、ややもすると私達はこの話自体に 引きづられ、少し恐ろしい思いを抱くのではないでしょうか。 これらの小さい者のひとりを罪に誘惑するよりは、むしろ、ひきうすを 首にかけられて海に投げ入れられた方が、ましである。 「ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられる」ということに捕らわれ て、聖書は何だかとても恐ろしいという印象をもつとするならば、それは余 りいい傾向ではありません。 「罪に誘惑する」というのは具体的に何をすることなのかよく分かりません が、だれにでもあることのようにも思えます。 「ひきうすを首にかけられて海に投げ入れられる」というのは、当時のロー マの極刑だったようです。 これは二度と再び体が浮いてこない、ということで、永遠の滅亡です。 昨年、私達は、ガリラヤの教会の庭で、このひきうすというのを実際に見ま した。 想像していたものより遥かに大きなもので、直径2メートルくらいありまし た。 当時これは、ろばやらばに引かせたそうです。 こんなものを首にかけられたなら、二度と再び水面に浮かぶことはないでし ょう。 これを文字通り読むなら、とても恐ろしい思いがします。 しかし、イエスの教えのポイントはそこにあるのではなく、兄弟の罪を赦し てあげなさい、ということです。 3節。 あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯す なら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。 イエスは、しばしば赦しなさい、ということを言われました。 これは、他人をゆるすということが、いかに難しいかということを言い表し ています。 イエスの教えられた「主の祈」においても、「我らが罪をゆるすごとく、我 らの罪をもゆるし給え」と祈ります。 私達は、神から大いなるものをゆるされているのです。 それゆえに私達も他人をゆるすべきなのです。 しかしこれは、なかなか難しいものです。 それは、私達がいかに大きな赦しを受けているかが分からないからです。 イエスは、そのことを教えるために、マタイによる福音書18章21節以下 のところで一つの譬話をされました。 すなわち、ある人が王様に1万タラントの負債がありました。 これは一生かかっても返せないような何億という膨大な借金です。 そのような大金をこの僕には返せなかったので、王から自分自身と妻子と持 物を全部売って返すように命じられました。 しかしその僕は、必死に哀願したので、王はあわれに思ってその負債を免じ た、というのです。 ところが、その帰りにこの人が百デナリを貸している他の仲間に会い、金を 貸していることを思い出し、貸した金を返せと言い、その人がどんなに謝っ ても決して許さなかった、というのです。 この譬えを読む者は、だれでも、この僕の態度が非常に不寛容であることを 思います。 すなわち、自分はそれよりも何万倍ものの借金を許してもらったのだから、 自分なら百デナリくらいのものは許してやるだろう、と。 しかし、現実には、1万タラントもの借金を、一生かかっても到底払い切れ ないものを神から許されているということを、分かっていないのです。 それを許すことができるとしたなら、それは信仰以外にないでしょう。 さて、今日のテキストにおいて、イエスの2番目の教えは、その「信仰」 についてです。 そして、これも非常に極端な例を出しています。 6節。 そこで主が言われた、「もし、からし種1粒ほどの信仰があるなら、こ の桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉ど おりになるであろう。 マタイのテキストでは、山に向かって「ここからあそこに移れ」と言えば、 移るであろう、とあります。 桑の木が移るとか山が移るとかは、普通私達には考えられないことです。 しかし、イエスは、信仰があれば、しかもからし種1粒ほどの信仰があれ ば、それは可能だ、と言うのです。 からし種というのは、非常に小さいもので、小さいものを表す時によく使わ れます。 5節のところで、使徒たちは、イエスに、 私達の信仰を増してください。 と言っていますが、彼らは自分達にはからし種どころか大木くらいの信仰が あると思っていたのです。 そしてそれをもっと増して下さい、と言っています。 一見非常に信仰的に見えます。 しかしそこには、自分達の信仰は大きいのだ、という自負めいた気持ちがあ ります。 そのような彼らにイエスは、皮肉たっぷりに「からし種1粒ほどの信仰があ るなら」と言っています。 これは、弟子たちには、本当の信仰はない、ということを言っているのかも 知れません。 イエスにとって信仰というのは、大きい小さいというのでなく、信仰がある というのは神の力にすべてを信頼することなのです。 弟子たちは、神の力にすべてを信頼するのでなく、神の力に信頼すると同時 にまた自分の力にも相当部分信頼していたのです。 もし神の力にすべてを信頼することができるならば、受胎告知のときに、天使 ガブリエルがマリアに言ったように、 神には、なんでもできないことはありません。 という信仰を素直に受け入れることができるのです。 処女の体に子を宿すことも、山に生えている桑の木が海に移ることも、山が 移ることも、神に力においてはすべて可能なのです。 そのような、神の力にすべてを信頼することが、信仰なのです。 そういう意味では、私達は、神の力にすべてを、というほどの信仰はないの ではないでしょうか。 そこで、私達も、弟子たちと同じようように、「わたしたちの信仰を増して ください」としか言えないように思えます。 「からし種1粒の信仰」とイエスは、言われましたが、このからし種は、最 初は非常に小さいのですが、それが成長すれば、かなり大きな木になるので す。 そこでこのからし種のような信仰というのは、信仰もはなはだ成長する、と いうことも表しているように思えます。 ルカによる福音書13章18−19節。(P.112) そこで言われた、「神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえよ うか。1粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭に まくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる」。 最初は、目に見えるか見えないかぐらいの本当に小さなからし種も、成長す れば空の鳥もその枝に巣を作るほど大きくなるのです。 私達の信仰もあるかないか分からないくらい小さなものであっても、主がそ れを成長させて下さるのです。 さて、今日のテキストの第3の教えは、奉仕についてです。 これも私達にとっては、適切な例か疑問に思うかもしれません。 9節。 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。 僕というのは、奴隷のことです。 奴隷は、主人に命じられたことをして当たり前であって、ことさら感謝され ない、というのです。 私達の感覚からすると、この主人は非常に横暴のような気がしますし、また 封建的な気がして、余り共感を呼ばないのではないでしょうか。 しかしここで言われているのは、何も封建的な奴隷制度のことではありませ ん。 私達が神に仕える時の心掛けを言っているのです。 神に仕える場合、私達は何らかの報酬を期待するのではないのです。 ただ、純粋に神に仕えるのです。 これが奉仕ということです。 何かの報酬を期待するのは、奉仕ということはできません。 私達が神に仕える奉仕の代表は礼拝です。 この礼拝において、私達は何らかの見返りを期待するのではありません。 ただ純粋に神をほめたたえるために私達は礼拝に集まるのです。 日本に多くある御利益宗教では、見返りということを主張します。 すなわち、この神に頼れば、何か具体的なものが与えられる、ということを 言います。 例えば、この神に頼れば、病気が治るとか、この神に頼れば交通事故から守 られるとか、この神に頼れば商売が繁盛するとか、ということです。 その神自体を人格的に信頼するというのではありません。 何らかの報酬が与えられなければ、すぐ次の神の所へ行くのです。 しかし聖書の神は、人格的な神です。 何かが与えられようが、与えられなかろうが、全く信頼し、従って行くので す。 ですから、仕えることによって何かを期待する、何かが与えられなかったら もう見捨てるというのでなく、その神に仕えること自体が喜びであり、希望 であり、感謝なのです。 私達が信じる聖書の神は、そのような人格的な神なのです。 パウロは、神に一生懸命仕えた代表的な人物でしょう。 彼は神に仕えた見返りに何かを求めた訳ではありませんでした。 ある時、少しそのような気になり、肉体のとげである自分の持病が治ること を期待しました。 しかしその時、神によって知らされたことは、パウロに対する神の愛は十分 である、ということでした。 肉体のとげが与えられていることも、実は恵みであったのです。 そのような理解は、御利益宗教からは出てこないでしょう。 聖書の神は、私達を愛し、また大きな罪を赦して下さっているのです。 私達は、この神を心から信じ、また純粋な気持ちをもって仕えて行く者であ りたいと思います。 (1993年9月12日)