53、ルカによる福音書18章18−27節

  「神にはできる」



 今日のテキストは、新共同訳の見出しでは、「金持ちの議員」というタイ
トルがついています。
ある議員がイエスの所にやってきます。
同じ記事を伝えるマタイによる福音書においては、この議員は青年であっ
た、と記されています。
そこで、この物語りは一般に「富める青年」と言われています。
18節。

  ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐこと
  ができるでしょうか」と尋ねた。

このある議員は、恐らくパリサイ人であったと思われます。
彼は、イエスに対して「善い先生」と言っています。
これは、非常なる尊敬の念を表すものです。
パリサイ人と言えば、イエスと対立した人と思いがちですが、中にはイエス
のことを非常に尊敬していた人もいたのです。
この人はイエスに質問にやって来ました。
これはこの青年にとって非常に大きな問題であったのでしょう。
それは永遠の命の問題でした。
「どうすれば、永遠の命を受けることができるか」という質問でした。
この永遠の命は、福音書の別の言葉で言えば、「神の国」とも言えます。
17節のところを見ますと、イエスは子供を祝福して、

  はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、
  決してそこに入ることはできない。

と言われました。
永遠の命はまた、「救い」と言ってもいいかもしれません。
永遠の命を求めるというのは、人生いかに生きるべきか、という問題です。
この当時の真面目なユダヤ人は、常にこのことを真剣に考えたのです。
この議員は青年であったと思われますが、いつの時代でも青年は純粋であ
り、人生について真面目に考えます。
現在は余りはやらなくなりましたが、学生は人生とか哲学といったことをよく
論じたものです。
そのあげくの果てに「人生不可解なり」と言って、滝に飛び込んで自殺をし
たという学生もいました。
最近の若い人が、人生のことを余り考えなくなったのは、余りいい傾向では
ないと思います。
 さて、当時のユダヤ人の間では、この人生問題については、一応の答えが
ありました。
それは、モーセの与えた律法を忠実に守る、というものでした。
そしてイエスも、この議員にそのことを言っています。
20節。

  「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟
  をあなたは知っているはずだ。」

これの前にイエスは、19節において、

  なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだ
  れもいない。

と言われました。
この議員が、せっかく尊敬の念を込めてイエスに、「善い先生」と呼んだの
に、それにいちゃもんをつけているようにも思えます。
しかしイエスは決して、話をはぐらかそうとされたのでも、いちゃもんをつ
けいてるのでもありません。
この青年は、イエスに「善い先生」と呼びかけました。
そしてこれに対してイエスは、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいな
い」と答えられました。
すなわちこれは、神の方に目を向けなさい、と言っているように思われま
す。
「善い先生」と言う場合、この議員の目は人間に向けられているのです。
ここでこの議員は、当時有名であったイエスに評価されたかったのかも知れ
ません。
だれでも、尊敬をもった呼び方をされたら、厭な気はしません。
これは、この人の、自然と身についた世事であったかも知れません。
しかしイエスは、そのような態度に対して、人間にではなく、神に目を向け
るように、神に評価されるように、と言っているのかも知れません。
 さて、20節でイエスが挙げておられるのは、十戒の後半の第5戒から9
戒までです。
出エジプト記20章に記されているのとは、少し順序が異なっています。
こういう順序で伝えられていた伝承もあったようです。
これは当時のユダヤ人からすれば、ごくありふれた戒めです。
恐らくこれを聞いた議員も少し期待が外れたでしょう。
偉大な先生だと思っていた人だから、きっと何かもっと別の答えをもらえる
のではないかと期待してやって来たのではないでしょうか。
ところが答えは、ごくありふれたものでした。
そこで、少し失望の調子で、

  そういうことはみな、子供の時から守ってきました。

と答えました。
事実彼は真面目な青年であり、その通り、このような律法には、非常に忠実
に守ってきたのだと思います。
そして、この律法を忠実に守ってきたということには、誇りもあったのでし
ょう。
こういう人は、当時のユダヤ人の社会においては、非常に評価されました。
そして彼は、律法を守るという点に関しては、落ち度がない、と自負していた
のです。
パウロも、キリストに出会う前は、そのような自負心がありました。
そのようなことを自慢している箇所があります。
フィリピの信徒への手紙3章5−6節。(P.364)

  わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤ
  ミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはフ
  ァリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については
  非のうちどころのない者でした。

彼はここで誇らしげに、「律法については落ち度のない者」と言っていま
す。
今日の所の金持ちの議員の「そういうことはみな、子供の時から守ってきま
した」と言う言葉と同じです。
しかしパウロの場合、キリストに出会ってからは、そのような誇りは「塵あ
くた」と見なした、というのです。
それは、律法というのは、結局人間の力に頼るということであるからです。
真の救い、ここで言う永遠の生命は、人間の力によっては得ることができな
いのです。
パウロは、キリストとの出会いを通して、そのことを悟らしめられ、キリス
トを信じる信仰を強調したのです。
この金持ちの議員は、自分の力で永遠の生命を得ることが出来る、と考えて
いました。
そして、それをもうほとんど手に入れている、という自信がありました。
そして、あと一歩、何かをプラスすれば、それで完全だと思っていたので
す。
しかしイエスは言われました。
22節。

  あなに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払
  い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことに
  なる。それから、わたしに従いなさい。

イエスは、律法の根本精神を問題にされました。
それは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛す」とい
うことです。
律法の本来の精神は、心を尽くして神を愛すということであるのに、律法を
忠実に守ることによって、自分の誇りにしていたのです。
そして自分を誇るということは、神に従うことを妨げるのです。
自分の誇りにする物によって、捕らわれ、神に真心から従えないのです。
イエスは、この金持ちの議員がそのお金に捕らわれ、神に真心から従えない
のを見られました。
 私達は皆、自分の誇りとするものがあります。
それがお金であったり、地位であったり、名誉であったり、あるいは何かの
特技であったり、自分の考え方であったり、自分流の生活であったりしま
す。
そして、そのような自慢のものが、神に真心から従うことを妨げる場合があ
ります。
世間一般においても、自分の自慢のものによって、かえって足をすくわれ
る、ということがあります。
頭のいい人が、自分の頭脳に過信して、失敗するということもあります。
お金のある人が、お金に過信して、失敗するということがあります。
地位のある人が、その地位によって、かえって失敗することがあります。
最近の汚職の事件も、県知事とか市長とか、その地位を利用して、かえって
失敗しています。
神に真心から従うという場合、自分の誇りとすることが、かえって妨げにな
ることがあります。
イエスは、この金持ちの議員に対して、彼にとって自慢の財産が、神に従う
ことを妨げていることを見られました。
私達は、何かを手に入れる場合、既に手に何かをもっている場合、それを捨
てなければ取ることができません。
永遠の生命を手に入れる場合も同じです。
 しかし私達にとって、捨てるということは、中々難しいことです。
それが、私達の自慢のものであればなおさらです。
それは、殆ど不可能なことではないでしょうか。
そこでイエスは、25節で、

  金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

と言われました。
これは、殆ど不可能だということです。
不可能だということになると、26節にあるように、

  それでは、だれが救われるのだろうか。

という疑問が起こります。
実は、永遠の生命を得るというのは、私達人間がどんなに努力しても、それ
でもって得られるというのではないのです。
むしろ、私達にはできない、という認識が必要です。
しかしイエスは、言います。
27節。

  人間にはできないことも、神にはできる。

実は、この信仰が大切なのです。
イエスの言いたいのは、結局このことなのです。
私達は、この世で生きて行く限りにおいては、多少なりとも、この世の物に
捕らわれて生きているのです。
この世の物を全く捨てて生きるということは、できません。
片手に何かを大切に持ちがら、なお永遠の命を持とうとしているのです。
そんな中途半端な生き方しか出来ないのです。
私達は決して完全ではないのです。
そういう欠けあるものだ、と認め、悔い改めることが必要なのです。
イエスは、私達にできなくても、神にはできると言われました。
そうです。
私達ができないことを、神が既になして下さったのです。
イエスは、すべてを完全に捨て、全く神に従ったのでした。
しかもこれは、不完全で、中途半端な生き方しか出来ない、私達のためにし
て下さったのです。
私達にとって大切なのは、この「神にはできる」という信仰です。
この信仰を常に堅くもつものでありたいと思います。

(1993年11月28日)