54、ルカによる福音書19章1−10節
「救うために来た」
「徴税人ザアカイの話」は、このルカによる福音書にしか伝えられていま せん。 口語訳聖書では「取税人」となっていました。 ザアカイという名前が出てくるのも、ここだけです。 主イエスが徴税人と食事をしたり、交わったりしたという記事は、他にもい くつか記されていますが、徴税人の名前が記されているは、このザアカイと ルカによる福音書5章27節に出てくるレビだけです。 そしてレビは、イエスに従い、弟子になりました。 これが十二弟子のマタイです。 さて、ザアカイは、2節を見ますと、「徴税人の頭で、金持ちであった」 と記されています。 そして彼は、エリコの徴税人でした。 私達も先年イスラエルを旅行した時、このエリコにも行きました。 死海の西側に沿ってずっと北上したのですが、死海に沿った所は、全くの荒 野です。 いわゆるユダの荒野と言われている所です。 行けども行けども、砂と岩と石で、木や草は殆どありませんでした。 そこにマサダの要塞やクムランの洞窟などがありました。 しかし、そのような砂と岩の荒野を北上し、死海の北端に来ますと、やがて 緑の野が開け、急に生き生きした所に出ました。 そこがエリコです。 エリコは農作物もよく出来ました。 エリコには、世界最古の町の遺跡もあり、ここも見学しました。 エリコは、昔から交通の要路でもあったようです。 そこで、ローマの政府は、この町に税関を設け、この町を通る行商人から税 金を取り立てていたのです。 ザアカイは「金持ちであった」とありますが、恐らく彼は、そのような行商 人から不正な取り立てをして、私腹を肥やしていたのでしょう。 さて、3節を見ますと、彼は「イエスがどんな人か見ようとした」とあり ます。 ザアカイがイエスを見たいと思ったのは、どんな気持ちからかは分かりませ ん。 当時イエスは、その地方に相当評判であったようです。 イエスが町々村々で話された話は、多くの人を引き付けました。 また、彼が病気の人を癒したことも評判になっていたようです。 イエスの後からは、絶えず、多くの人が従ってきました。 このような評判の男を一目見たいという単なる好奇心からだったのでしょう か。 単なる好奇心からだけであったとは思われません。 徴税人の頭であるザアカイは、確かに金持ちでしたが、人々には嫌われ、 軽蔑されていました。 彼自身も人々から不正な取り立てをしていて、後ろめたい思いが多少はあっ たでしょう。 しかし、自分の仕事は徴税人だ、徴税人は多かれ少なかれ不正なことをして 身を立てているのだ、という居直りがあったでしょう。 しかし、それは強がりであって、本心は人々に愛されていないという淋しさ があったのではないでしょうか。 お金はあっても、常に孤独であったのではないでしょうか。 そのような淋しさ、孤独から、心の底に神を求める思いがあったのではない でしょうか。 つまり、ザアカイは愛に飢えていたのです。 よく、小学校や中学校で、いじめのことが問題になります。 いじめられた子が思い余って自殺をするなどといういたましい事件も起こっ たりします。 子供たちが何故こんなに陰湿で、同情とか思いやりというものに欠けるの か、と思います。 いじめる子が何故そんな行動に出るのだろうかと考える時、結局彼らは愛に 飢えているのではないでしょうか。 先生や友人からも本当に愛されているという経験が余りないのです。 また、親からも愛されているという思いがないのです。 自分自身本当に愛されて育ったなら、そんな陰湿ないじめはしないでありま しょう。 豊かになり、物には満たされましたが、精神的には満たされていないので す。 さて、ザアカイは単に好奇心からでなく、本当にイエスに会いたい、と思 いました。 これも何か愛に飢えている彼の思いがそうさせたのかも知れません。 自分でも気付かずに、イエスを一目見たいという強い思いになっていたので す。 それは、群衆に遮られながらも、そこであきらめるのでなく、木に登ったと いう行動からも分かります。 普段は神のことを考えるどころか、人々から不正な取り立てをし、しかもそれ を居直り、自分さえ豊かになればいいと考えていましたが、しかし心の奥底 には、そのような自分の姿は本当ではない、と神を求めていたのではないで しょうか。 現代の私達の社会においても、一方では豊かな社会であり、何不自由なく暮 らしているようですが、他方では競争社会にあって、人間関係に悩み、心身 共に疲れている人が多くあります。 働き盛りの人がストレスから癌などに犯されるケースも多いと言われていま す。 それが子供の社会にも反映して、陰湿な弱い者いじめなどが行われます。 そのような人は、宗教を求めたり、教会に来たりはしませんが、しかし心の 奥底では神や信仰を求めているのではないでしょうか。 ザアカイも、普段は神や信仰とは無関係の生活をしていましたが、本心は 神や信仰を求めていたのです。 このようなザアカイにイエスは言葉をかけられました。 5節。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急い で降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 イエスはここで「ザアカイ」と呼ばれました。 イエスは以前にザアカイに会った事はなかったでしょう。 これが初対面であったと思われます。 どうしてイエスは、ザアカイの名前をしっていたのかは分かりません。 ここでイエスが全く知らない人の名前を知っていたという何か不思議な力を 驚くことよりも、イエスがザアカイに名前で呼びかけた、ということの方が 大切です。 イエスは、木に登ってまでも自分を見ようとしているこのザアカイの心の底 の求めを見られたのです。 そしてこのザアカイと人格的な関係を結ばれようとしたのです。 名前で呼ぶというのは、そういう人格的な関係を意味しています。 そしてイエスの方から、「あなたの家に泊まりたい」と語りかけられまし た。 イエスの方からザアカイに出会ったのです。 これは神が人間に出会われる時の出会いを表しています。 神との出会いという場合、私達は私達の方から神を求めて出会いを体験する と理解しているかも知れませんが、決してそうではありません。 神があらかじめこの人物と決めて、神の方から接近して来られるのです。 そして神は、私達に名前で呼びかけます。 私達を一個の貴重な人格として扱って下さるのです。 神は私達を十把一からげで扱うのでなく、私達一人ひとりと人格的な関係を もとうとされるのです。 一人ひとりを掛け替えのない者として愛し、受け入れて下さるのです。 そこで私達は、この神の語りかけに答えるべきなのです。 ザアカイは、イエスが彼の家に泊まり、親しい交わりをなしてくれたこと にたいして、8節のように言っています。 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産 の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取ってい たら、それを4倍にして返します。」 ザアカイは、徴税人として、今までお金をためることしか考えてきませんで した。 人に嫌われようと、憎まれようと、ただひたすらお金をためてきました。 その大切な財産を半分「貧しい人に与える」と言うのです。 今までの生き方からはこのようなことは考えられないことでした。 ここにザアカイは、イエスに出会って変えられたのです。 人々はザアカイのことを徴税人だということで心の内で蔑んでいました。 しかしイエスは、このザアカイを普通の人として扱われたのです。 一個の貴重な人格をもった人間として扱われたのです。 私達の周りにもいろいろな差別があります。 部落差別、障害者差別、外国人差別、女性差別、能力差別、などなど。 しかし人間皆、貴い人格をもった同じ人間なのです。 ですから、普通に扱うということが大切なのです。 主イエスが私達を受け入れて下さったように、私達もお互い受け入れ合うと いうことが大切なのです。 ザアカイは、イエスの愛に触れて、自分も貧しい人々に愛を示そうとしたの です。 人を愛することなど考えもしなかった者が、人を愛するように変えられたの です。 キリストの愛に触れるならば、私達は変えられるのです。 イエスとの出会いは、このザアカイにとって、その後の人生に決定的な影響 を与えたことでしょう。 ここにおいて彼は、まず今までの自分の生き方を反省しました。 そして新しい生き方を始める決心をしたのです。 それが財産の半分を貧しい人々に与えることであり、だまし取っていたら4 倍にして返すことでした。 ザアカイは徴税人であったので、これまで税を不正に取り立てて、私腹を肥 やしていたでしょう。 そういう今までの生き方を反省しました。 しかし彼は、イエスの弟子のように、すべてを捨ててイエスに従った訳で はありません。 そして徴税人という職業をやめるとも言っていません。 またイエスもそれを求めてはいません。 恐らくザアカイには、この職業しかなかったでありましょう。 しかし、そのままでいいのです。 人からはたとえどんな汚れた職業と見なされていたとしても、イエスは徴税 人のザアカイをそのままで受け入れて下さったのです。 9−10節。 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハ ムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たの である。 救いの方がザアカイの家にやって来たのです。 「アブラハムの子」というのは、信仰を受け継ぐ敬虔なユダヤ人を指してい ます。 ファリサイ派の人にとっては、アブラハムの子は、律法を忠実に守るもので あり、徴税人という汚れた職業の人であれば、その職業をまず捨てる事が要 求されたでしょう。 すなわち、徴税人は、この救いの外にあったのです。 しかしイエスはそうではありません。 神はどんな人にも救いをもたらすのです。 たとえ、人から嫌われている人でも、たとえ不正なことをした人でも、神の 方から捜し、救うために来たのです。 否、そういう罪人にこそイエスは近づき、救いをもたらそうとされるので す。 その人の苦しみ、悩み、淋しさを共に担われるのです。 そして愛に飢えた人に、本当の救いを与えるのです。 それが神の恵みであり、救いです。 私達は皆、神の前に、正しい生き方をしているとは言えません。 この当時の徴税人ほどではないかも知れませんが、私達も多かれ少なかれ、 正しくない生き方をしています。 しかしイエスは、このような罪人の私達を救うために、イエスの方から私 達の所に来られたのです。 今までザアカイは、自分も救いに招かれているということを殆ど考えません でした。 しかしイエスとの出会いを通して、彼も神の恵みの中にあることを知ったの です。 私達も、ザアカイと変わらない罪人ですが、神は私達をも豊かに恵み、親し く呼びかけて下さっていることを思い、この恵みに答えて行く者でありたい と思います。 (1994年1月16日)