56、ルカによる福音書19章45−48節

  「祈りの家」



 今日の箇所は、いわゆる「宮清め」と言われているテキストです。
この「宮清め」の記事は、四つの福音書すべてに記されています。
しかしルカの記事が一番簡潔に書かれています。
イエスが乱暴をされたということを、強調したくない意図がルカにはあるよ
うに思われます。
マルコとマタイでは、次のように言われています。
マルコによる福音書11章15節。(P.84)

  イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始
  め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。

ここでは、腰掛けをひっくり返された、とイエスがいささか乱暴なことをさ
れたような印象を受けます。
また、ヨハネによる福音書では、もっと暴力的であり、ヨハネによる福音書
2章15節では(P.166)

  イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金
  をまき散らし、その台を倒した、

と言われています。
その点ルカでは、それほど乱暴なことをされたという印象は受けません。
どの記事が本当であったかは分かりません。
当時大勢の人が集まる神殿には、警備の兵がいて厳重な警戒がなされてい
ましたから、もしイエスが鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したり、両替人
の金をまき散らしたりしたなら、すぐに逮捕されたと思われます。
ですから、イエスが実際に乱暴なことをされたとは余り思われません。
後の伝承でそのように伝えられていったのではないかと思われます。
ここでイエスがどのような行動をとったかということが問題なのではなく、
ここでイエスが何を言わんとしているかが重要なのです。
45−46節。

  それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追
  い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。
  『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』
  ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

前の所ではイエスは、子ろばに乗ってエルサレムに入られたという記事でし
た。
そしてイエスは、エルサレムに入られて、まず神殿に行かれたのです。
神殿は神を礼拝する場です。
イエスがまず最初に神殿に入られたということは、彼の生活の一番基本が神
礼拝である、ということでしょう。
主イエスは、この礼拝ということを非常に重んじました。
私達は、週の始めをまず礼拝から始めていますが、これは重要なことだと思
います。
アブラハムは、神の命令に従って、メソポタミアからカナンへの長い旅を
し、生涯旅をし続けましたが、彼は行く先々で、まず新しい場所に落ち着く
時は、そこに祭壇を建て、神を礼拝しました。
アメリカに渡ったピューリタンたちは、新しい町を作る時、まずその町の中
央に教会を建てたということです。
これは、私達の生活の土台が礼拝にある、ということを表していると思いま
す。
 さて、イエスは、エルサレム神殿の境内に入って行かれたのですが、そこ
で「商売をしていた人々」を見たのです。
彼らは何を商売していたのでしょうか。
日本ののお祭りなどで、沿道にお菓子やおもちゃなど色々な店がでます
が、あのような光景を連想するかも知れません。
お祭りは人が大勢集まるので、それを利用して、商売をし、儲けているので
しょう。
しかし、ここでの商売は、そのようなものではありません。
マルコによる福音書では、両替人や鳩を売る者、とありました。
またヨハネによる福音書では「牛や羊や鳩を売っている者」とありました。
すなわち、ここの商売人というのは、神殿に献げる犠牲の動物を売っていた
人々であったのです。
そしてこのような人は、神殿には必ず必要だったのです。
当時の神殿礼拝では、参拝者は犠牲の動物を捧げなければならなかったので
す。
イエスが誕生した時も、しばらくして両親がエルサレム神殿に上って、鳩を
捧げたということが記されています。
こういう動物は、勿論自分の家から持って来てもよかったのですが、遠くから
来る人は自分で持って来ることは難しかったでしょうし、また動物も清い動
物でなければなりませんでした。
そして、その動物が清いかそうでないかは、祭司が判断したのです。
そこで、神殿の庭で売られている動物は間違いないということになり、多く
の場合は、家から持って来るのでなく、神殿の庭で買ったのです。
参拝者は、それを買って、祭司の所に持って行ったのです。
 また、ユダヤ人は、神殿に税を納めなければなりませんでした。
神殿に納める税は、どんなお金でもいいというのでなく、神殿用に特別の貨
幣があったのです。
それを持っていない人は、両替をしてもらわねばなりませんでした。
そのために、神殿の庭には、両替をする人がいたのです。
ですから、ここに出てくる商売人は、あくどい商売をしてお金儲けをしてい
たというよりも、神殿礼拝者のために必要なことをしていたのです。
逆に、当時の神殿礼拝には、このような人がいなければ非常に不便だったの
です。
 しかしイエスは、そのような商売人を神殿から追い出した、というので
す。
しかしこれは、先程も言いましたように、暴力的に彼らを排除したというの
ではないと思います。
そもそもイエス一人と大勢の商売人とでは、イエスの方が不利であったでし
ょう。
また、神殿には神殿警備隊がいましたので、そんな乱暴なことをすればすぐ
に逮捕されたでしょう。
そうではなくて、「わたしの家は祈りの家でなければならない」と言われた
だけだったのでしょう。
少なくとも、この宮清めの出来事の中心はここにあります。
神殿とは祈りの家であります。
このエルサレム神殿を最初に建築したのは、紀元前10世紀のソロモン王で
した。
彼は父ダビデの豊かな遺産を受け、また当時近隣には強い国がなかったた
め、脅かされることなく、繁栄を享受したのでした。
ソロモンの栄華として後々までも語り継がれました。
そのソロモンが贅が限りを尽くして建築したのが、エルサレム神殿でした。
そしてソロモンは、これを祈りの家としたのです。
エルサレム神殿が完成した時の献堂の記事が列王記上8章に記されていま
す。
列王記上8章27−28節。(P.542)

  神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなた
  をお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふ
  さわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今
  日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。

ここにはソロモンの真心からの祈りがあります。
真心から祈りをささげるのが、真実の礼拝です。
ところが、神殿ではその後犠牲を献げる儀式が中心になってしまいました。
旧約の預言者たちは、真心の備わらない、儀式中心の礼拝を非難しました。
ホセアは、当時の上層階級が贅沢な犠牲を献げるが、神を真心から礼拝しな
いのを非難しまして、次のようい言いました。

  わたしが喜ぶのは
  愛であっていけにえではなく
  神を知ることであって
  焼き尽くす献げ物ではない。

イエスがここで、そういう犠牲の動物を売っていた商売人を追い出されたと
いうのは、そのような犠牲の礼拝を否定され、新しい礼拝を創造したという
ことです。
ヨハネによる福音書4章24節でイエスは、

  神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しな
  ければならない。

と言っています。
そもそも犠牲の動物を献げるというのは、神への献身を表しました。
本当なら自分自身を献げるのです。
しかし、それでは生きて行くことができないので、その代わりに動物を捧げ
てすべてを献げる思いを表したのです。
しかしそれはいつしか形式的になり、真実がなくなってしまったのです。
そして高価な犠牲を献げる人が神に尊ばれるというような俗信が出てきまし
た。
鳩よりは羊を献げる人のほうが、羊を献げるよりも牛を献げる人の方が、神
に尊ばれる、と。
預言者アモスは、貧しい者から搾取して高価な犠牲を献げる貴族階級を激し
く非難しました。
そしてイエスは、何よりも最も高価な犠牲を自らの身で捧げられたのです。
これによって、もやは動物の犠牲は必要でなくなったのです。
この宮清めの記事は、イエスの犠牲によってもやは動物犠牲は必要でなくな
った、ということを言おうとしているのです。
犠牲の動物を売る人々を追い出されたというのは、もやは神礼拝に動物犠牲
は必要でなくなった、ということを表しています。
そうではなく、「祈りの家」でなければなりません。
 祈りというのは、神を中心とすることです。
神に自分を明け渡す態度です。
最も大切な祈りは、神のみ旨を求めるものです。
イエスは、ゲッセマネの園で、

  父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わ
  たしの願いではなく、御心のままに行って下さい。

と祈られました。
この「御心のままに」というのが、祈りの根本です。
日本の神社などで祈る祈りは、大体は自分の願いを祈ります。
自分がこうありたい、自分がこうしてほしい、自分にこれが与えられたい、
と祈るのです。
非常に自己中心的な祈りです。
しかしキリスト教の祈りは、自分の願いよりも、神のみ旨を求める祈りなの
です。
神を自分に従わせるのでなく、神に自分が従うのです。
主の祈においても私達は、「み心が天になるごとく地にもなさせたまえ」と
祈ります。
教会もまた「祈りの家」です。
ですから私達も、何よりもまず神のみ旨を求めなければなりません。
自分の思いを優先させるのでなく、神が何を私達に求めておられるかを祈り
求め、それに従う者でありたいと思います。

(1994年2月13日)