57、ルカによる福音書20章20−26節

  「皇帝のもの、神のもの」



 前の所(19章の終わり)では、イエスが神殿から商人を追い出した、と
いう話でした。
そして、この事件の後ユダヤ教の指導者たちはイエスを殺そうとしました。
47節を見ますと、

  祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、ど
  うすることもできなかった。

とありました。
イエスは当時のユダヤの指導者たちにとっては、憎むべき存在となっていた
のです。
祭司長、律法学者、民の指導者たちという三つのグループは、普段は決して
仲のいい関係にはなかったのです。
むしろ対立的な関係にありました。
しかしイエスを憎むという点では一致していたのです。
彼らはイエスを殺したかったのですが、民衆が支持していたので、それがで
きなかったのです。
そこで彼らは、策略を巡らして、イエスを捕らえる機会を狙っていたので
す。
20節。

  そこで、機会を狙っていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イ
  エスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。

彼らは綿密な計画を立て、回し者をイエスの所に遣わしたのでした。
それは、「言葉じりをとらえ」とあるように、イエスからある種の失言を引
き出して、それを口実に逮捕しようとしたのです。
この質問は、非常に巧みなものでした。
21−22節。

  回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃ
  ることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真
  理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。ところで、
  わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、
  適っていないでしょうか。」

この回し者らは非常に巧みに、まずイエスを誉めます。
イエスのことを、非常に尊敬しているような言いぶりです。
しかし甘言には気をつけなければなりません。
霊感商法で問題になっている統一協会の勧誘の仕方もそうです。
最近は家庭の主婦が誘い込まれるケースが多くなっています。
彼らは家庭を訪ね、まずとにかく相手を非常に誉めるのです。
そして、気持ちがよくなっている所へ、色々な物を巧みに売り付けるので
す。
それが非常に巧妙で、気がついてみれば、宝石だの絵画だの、着物だの印鑑
だのと高額な物を次々買わされてしまっているのです。
そして困り果てた夫から相談を受けるというケースがよくあります。
夫の貯金通帳から400万円も500万円も引き出していた、というので
す。
甘い言葉には気をつけなければなりません。
 さて、ここでの回し者の質問は、非常に巧妙です。
ここで彼らが問題にしたのは、皇帝に納める税金のことです。
いつの時代でも、税金の問題はすべての人の関心の的です。
私達の国でも、この税金のことは常に大きな問題となります。
先年、消費税が導入された時は、国民がこぞって反対し、そのため自民党も
選挙で大敗を喫しました。
そして、今回「国民福祉税」なるものが突如として出てきて、国会において
も大混乱しました。
また最近、宗教法人への課税が強化されるということも言われており、私達
も関心をもたざるを得ません。
 当時のユダヤは、ローマ総督の管轄下にあり、皇帝への税金を徴収されて
いました。
しかしこれは、ユダヤ人にとっては、経済的に苦しいというだけでなく、異
教の神々を礼拝する者への税ということで、宗教的にも屈辱感を味わわされ
ていたのです。
 ところでこの質問は、巧みな罠でした。
律法学者たちがイエスを抹殺するのに、この巧みな罠を考えたのです。
彼らは、イエスから失言を引き出して、ローマ総督によって処刑されること
をたくらんだのです。
これには、当時よくあったローマに対する反乱の指導者としたてあげる事で
した。
しかし、この場合、ユダヤの民衆は、ローマの圧政に苦しんでいたので、イ
エスを歓迎します。
事実、民衆の多くは、イエスの奇跡などを聞いて、そういう反ローマの指導
者となる人ではないかとの期待がありました。
イエスを抹殺するもう一つの方法は、民衆をイエスから引き離すことです。
民衆がイエスに失望するようにもっていく事です。
民衆の支持さえなければ、イエスを簡単に捕らえることができたのです。
 そして、この「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」
という質問は、実はどちらの答えをしてもイエスを捕らえる事のできる非常
に巧妙な質問だったのです。
すなわち、もし税金を納めるべきだといういうことになると、民衆はローマ
への重税に苦しんでいた訳ですから、ローマに協力的な者との印象を与え、
人々がイエスに失望をします。
しかしもし、税金を納めなくてもいいと言えば、彼は反ローマの指導者とい
うことで総督に訴えることができました。
すなわち、支配国への納税拒否を煽った者として、ローマに対して反乱を起こ
した者として、訴えられるのです。
そこで、ここに遣わされた回し者は、いかにも真理問題を尋ねているような
ふりをして、実はイエスを捉える罠を作っていたのです。
ところが23節を見ますと、

  イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。

とあります。
イエスはそれが罠だと見破っておられたのです。
いくら真剣さを装っていても、イエスにはその人の真意が分かります。
イエスは、口先の言葉だけでは決して判断されません。
どういう意図をもってその言葉を発しているかを見極めるのです。
 こういう場合、イエスは決してその質問に対してまともには答えません。
別の角度から答えられるのです。
24−25節。

  「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘がある
  か。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「そ
  れならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

昔から支配者は、自分の肖像の入った貨幣を発行してきました。
それは、自分の支配を誇示する効果がありました。
ここでのデナリオン銀貨は、当時の皇帝ティベリウスの発行したものと思わ
れます。
この硬貨の表には「皇帝ティベリウス・神の子アウグストウス」という文字
が刻まれていました。
そしてその裏には、平和の女神の化身としての皇帝の母リヴィアの肖像とそ
のわきに「大祭司」という銘が打ってありました。
これはユダヤ人にとっては、屈辱的な貨幣でした。
 ここでイエスは、皇帝が発行した硬貨なら、皇帝に返しなさい、と言いま
す。
ただしこれは、積極的に皇帝への納税を勧めているのではありません。
かと言ってそれを否定している訳でもありません。
イエスの主張は、税金の問題の可否ではなく、「神のものは神に返しなさ
い」ということです。
その意図が分かったので、律法学者たちは、イエスの言葉じりをとらえるこ
とができなかったのです。
 当時のローマ皇帝は、地中海世界全体を支配していた絶対権力者です。
しかしその権威は、神から来ている、とイエスは言うのです。
イエスは、当時のユダヤでの最高権力者である総督に次のように言っていま
す。
ヨハネによる福音書19章10−11節。

  そこで、ピラトは言った。「わたしに答えないのか。お前を釈放する権
  限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないの
  か。」イエスは答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに
  対して何の権限もないはずだ。

また、ローマの信徒への手紙13章1節には、

  人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今
  ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

権力者が、本来神から与えられた権威を、あたかも自分本来の権威として勝
手に用いていく所に問題があります。
神こそが本当の権威者であり、私達を造り、私達を守り、この世界を支配
し、私達に永遠の生命を約束し給うのです。
この神の権威を離れて、この世の権威はありません。
 イエスは、何度かこの世の権威とぶつかりました。
それは、神のものを神に返そうとして、この世の権力とぶつかったと言って
いいと思います。
真の権威である神に忠実に従おうとして、この世の権力とぶつかったので
す。
使徒信条には、3人の固有名詞が出ます。
一人は勿論、イエス・キリストであり、一人はこのイエスを生んだ母マリア
です。
そして後の一人は、「ポンテオ・ピラト」です。
「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあります。
このポンテオ・ピラトは、当時のユダヤの総督であり、ユダヤでは一番の権
威者でした。
イエスは、結局、最後はこのユダヤの最高権威者の下した判決によって十字
架刑に処せられたのです。
それで使徒信条には、「ポンテオ・ピラト」という名が言われているので
す。
 イエスはここで、ユダヤの指導者たちに、「皇帝のものは皇帝に」と言っ
ていますが、より重要なのは、神のものを神に返すということです。
私達にとって、本当の権威者は、神のみです。
イエスは、マタイによる福音書10章28節において、

  体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂
  も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

と言っています。
その神に私達は返すべきものを返しているでしょうか。
神のものを神に返すというのが、私達の日々の生活になっているでしょう
か。
イエス・キリストをこの世に送り、私達の罪を贖い、永遠の生命の約束を与
え給うた、この神にのみ栄光を帰する生活、これが神のものを神に返す生活
ではないでしょうか。

(1994年2月27日)