59、ルカによる福音書22章14ー23節
「新しい契約」
今日は「世界聖餐日」である。 そこで、私達の教会でも聖餐式を行う。 この聖餐式の起源は、イエスと弟子たちとの最後の晩餐である、と言われている。 そこで今日は、その最後の晩餐を伝えているテキストを学ぶ。 この最後の晩餐については、4つの福音書にすべて記されている。そして、福 音書だけでなく、パウロの手紙にも記されている。 これらのことから、主の晩餐は、古代の教会において非常に重要なものであっ たことが分かる。 さらに、世々の教会において、この聖餐式は最も重要なものとして、守られ続 けている。 今日は、ルカのテキストにおいて学ぶ。 14節。「・・・」 まず、「時間になった」ということが言われている。 この時間とは何であろうか。 それは、日没をさしている。 ユダヤの一日は夕刻から始まる。 この日没から過越の祭の日になった、ということである。 そしてそれだけでなく、神の用意した時をも指しているであろう。神が私達人 間を救うために用意した時、歴史においても最も重要な時、時の中心とも言う べき時が来た、というのである。 さて、過越の祭は、ユダヤ人にとっては、最も重要な祭りであった。 これは、各家庭で行われた。 その時、各家庭では、羊をほふり、家長が、過越の食事の意味を教えるのである。 ここでは、イエスが食卓につかれ、使徒たちも共に席について、とあるから、 イエスが家長の役目を果たされたのである。 ここで、12弟子は、使徒と言われている。 この使徒というのは、初代教会の指導者であるから、ここでは、既に教会で行 われていた、聖餐式が反映されている。 そして、普通の過越の祭の時は、家長は、出エジプトの出来事を教えるのであ った。 今ほふっている羊、それは、エジプト脱出の夜、その羊の血をイスラエルの民 の家の柱に塗ったので、滅びをもたらす天使がそこを通り越して、イスラエル の民は助かった、というものである。 しかし、それを塗っていなかった、エジプト人の所では、長子がことごとく死 んだのである。 このことを恐れて、今まで頑なであったパロも、イスラエルの人がエジプトか ら出ることを許したのである。 この出来事を記念して、イスラエル人は、過越の祭を守っているのである。 しかし、イエスは、ここで、そのユダヤ人の過越の意味を教えたのでなく、 新しい意味を教えたのである。 15節。「・・・」 ここに、イエスの切なる思いが込められている。 イエスは、弟子たちと過越の食事をしたいと、切に望んでいた、というのである。 それは何故であろうか。 それは、十字架の死を前にして、その十字架の死がどういう意味があるかを、 この過越の食事の席で弟子たちにしっかり理解してもらいたい、ということで ある。 ユダヤ人たちは、過越の祭を通して、何百年、否何千年もの間、出エジプトと いう神の救済の業を覚えているのである。 ユダヤ人は、今でも延々とこの過越の祭を行っている。 しかし、イエスはここで弟子たちに、過越の意味を教えたのではなく、聖餐の 意味を教えたのである。 そしてこれは、世々の教会において、聖餐式が行われる度に、イエスの贖いの 業を思い起こすことをも望んでいるのである。 イエスは、この食事を通して、イエスが誰であるかを、弟子たちに示そうとさ れたのである。 弟子たちは、今まで、イエスと寝食を共にしてきた。 イエスの教えを毎日のように聞いてきたし、イエスの行いを間近で見て来た。 しかし、なお、イエスの本質、イエスとは一体誰か、ということは、分かって いなかった。 あるいは弟子たちは、自分たちの期待をイエスに押し付けていたかも知れない。 21節で、イエスを裏切る者のことが言われている。 これは、名前は言われていないが、イスカリオテのユダである。 彼は、どうしてイエスを裏切ったのであろうか。 これは恐らく、自分の期待していたものとイエスの本質が違ったからであろう。 私達人間は、自己中心的であり、その人物が自分の期待したような者でない場 合、往々にして、失望し、また憎しみを抱くのである。イエスを裏切ったの は、イスカリオテのユダだけであったが、他の弟子たちも多かれ少なかれイエ スにたいしては正しい理解をもっていなかった。 24節以下の所では、他の弟子たちが、だれが一番偉いかと言い争った、とい うことが言われている。 このような言い争いがなされるという所にも、弟子たちはイエスのことを正し くは理解していなかった、と言える。 そこで、イエスは、聖餐の食事を通して、自分の本質を示されたのである。 そして、これは聖餐式を通して世々の教会がこれを確認しているのである。 19節、20節は、聖餐の制定語と言われている。 これは、初代教会の中で、聖餐式の時に読まれていた式文である。私達の教会 でも、これをそのまま使っている。 19節。「・・・」 聖餐式で食するパンは、主イエスのからだである、というのである。カトリッ ク教会では、このパンは、本当にキリストの体とする。 聖体と言う。 しかし、私達プロテスタントでは、(ルター派と改革派では少し理解が違う が)、パンは、キリストの体そのものではなく、一種の象徴である。 カルヴァンは、これに信仰をもって与る時にのみ意味がある、と言う。 それでは、どういう意味があるのであろうか。 「あなたがたのために与える」とある。 キリストの体は、私達に与えられるのだ、というのである。 それでは、何が与えられるのであろうか。 ヨハネによる福音書6:51。「・・・」(P.147) 即ち、イエスの体であるパンを食することによって、命が与えられるというの である。 この命は、私達が生まれながらにもっているこの世を生きる命ではない。 この世の死すべき命ではなく、神の国を受け継ぐ命である。 本当の生命、あるいは永遠の生命と言うことが出来る。 ヨハネによる福音書6:54。「・・・」(P.147) イエスは、最後の晩餐において、パンを取って、弟子たちに与えた訳である が、その時「これは、あなたがたのために与える」と言われたのである。 そして、そのすぐ後に、十字架にかかって、死なれたのである。 即ち、イエスの十字架の死は、弟子たちのため、即ち、弟子たちに新しい命を 与えるためであったのである。 そして、この弟子たちは、イエスを信じるキリスト者すべてである。即ち、イ エスは、私達のために、私達に新しい命を与えるために十字架にかかられたの である。 私達が聖餐式において、パンを食するのは、この記念のためである。 記念と いうのは、元々の意味は(ヘブル語でもギリシア語でも)、「思い起こす、想 起する」という意味である。 過越の祭も、記念する祭りであった。 即ち、過去に神がイスラエルを救うために行われた出エジプトという業を、現 在思い起こすためのものであった。 そして、その過越の食事が、今度は、イエスの死の意味を思い起こす聖餐にな ったのである。 過越は、ユダヤ人だけの救いであったが(今でもユダヤ人はこの過越の祭を最 も重要な祭りとして行っている)、聖餐はすべての人間に別け隔てなく与えら れている。 20節。「・・・」 ここでイエスは、この晩餐の杯は「新しい契約」である、と言う。この新しい 契約は、古い契約に対して用いられている。 古い契約は、モーセを通してシナイ山で神がイスラエルと結んだ契約である。 旧約聖書は、その古い契約に基づいたもの、ということである。 そして新約聖書は、主イエスの新しい契約に基づいたもの、ということである。 この古い契約に代わって、新しい契約が与えられる、ということは預言者エレ ミヤが預言した。 エレミヤ書31:31ー33。「・・・」(P.1100) 契約というのは、二者の間の約束である。 今のエレミヤ書の32節で、「私は彼らの夫であったのだが」とある。 ここでは、神が夫、イスラエルが妻として、比喩的に言われている。神とイス ラエルとの契約を、夫と妻との約束に譬えているのである。しかし、イスラエ ルは、神の契約を破った、というのである。 即ち、イスラエルは、神の戒めに従わなかった。 それゆえ、契約はイスラエルの側から破棄されたのである。 しかし、神はこれによって、人間を見捨てたのでなく、イスラエルだけではな く、全人類を救うために、貴き御子イエス・キリストをこの世に送り、このイ エス・キリストの十字架を通して、新しい契約を立てられたのである。 契約というのは、先程も言ったように、二者の間の約束である。古い契約で は、神とイスラエルの民との約束であった。 そして新しい契約は、神とキリスト者との間のものである。 しかし、私達キリスト者は、神に対してどんな義務を果たしているのであろう か。 何もしていない。 すべては、キリストが私達に代わってなして下さったのである。 従って、この新しい契約は、二者の間の相互の約束というよりは、神の側の一 方的な約束である。 私達は、ただこのキリストを信じるだけで、神との契約の相手とされるのである。 聖餐は、私達に与えられた恵みである。 パンを十字架でさかれたキリストの体、ぶどう酒をキリストの流された血と信 じるだけで、新しい命に入れられる。 ここで、私達に重要なのは、ただ信仰である。 カルヴァンは、聖餐は信仰をもって与る時のみ、意味を持つ、と言った。 私達は、心からの信仰を持って、この聖餐に与りたい。 (1989年10月1日)