60、ルカによる福音書22章39−46節

  「みこころが成るように」



 受難週を前にして、今日は、イエスがオリブ山で祈られた記事を学びたい
と思います。
39−40節。

  イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従っ
  て行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥ら
  ないように祈りなさい」。

ここでイエスは、「いつものようにオリブ山に行った」とありますが、イエ
スはエルサレムにおいてはしばしばオリブ山に行かれたようです。
オリブ山は、エルサレムの東にある小高い山で、そこからはエルサレムの町
が一望のもとに見ることが出来ます。
先日の旅行で私達もこの山に登りましたが(と言ってもバスでですが)、そこ
からはエルサレムの城壁や黄金のドームなどが一望できました。
イエスは、このオリブ山からエルサレムをご覧になって、その罪を思い、し
ばしば涙を流された、と言われます。
イエスが涙を流されたということから、オリブ山には、主の涙の教会という
のが建っています。
 さてイエスは、しばしばオリブ山に行かれたとありますが、何をしに行か
れたのでしょうか。
それは祈るためでした。
40節に「いつもの場所」とありますが、イエスはオリブ山に一つの祈りの
場所を決めておられたようです。
イエスは、昼間エルサレムでユダヤ教の指導者たちと論争されましたが、夜
になるとこのオリブ山に退かれて、静かに祈られたのです。
マルコによる福音書によりますと、そこはゲッセマネの園と言われていま
す。
オリブ山には、その名のようにオリブの木が沢山生えていました。
現在でもそうでして、私達も、古い大きなオリブの木を何本か見ました。
そしてゲッセマネというのは、原語で「油しぼり」という意味です。
ですからそこは、オリブの木から油を搾っていた場所なのです。
そこは夜は人がいませんので、きっとイエスは恰好の祈りの場所とされてい
たのでしょう。
 さてここでイエスは、弟子たちにも祈るように言われました。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われています。
悪魔の誘惑には、私達は自分の知恵や力によっては太刀打ちすることは出来
ません。
神の助けがなければ、私達は悪魔の誘惑には決して勝つことはできないでし
ょう。
主イエスも、宣教の始めに悪魔の誘惑を受けましたが、その時も必ず、聖書
のみ言葉でもって対処しています。
 さて、主イエスが弟子たちに最後に教えられたことは祈ることでした。
それ以前にもイエスは、祈ることを弟子たちに教えました。
その最も代表的なのは、主の祈でしょう。
私達は時々、祈るということはそれほど重要なことではないのではないか、
と思わないでしょうか。
祈ったからといって、その願いが必ずしも聞かれる訳ではないし、祈っても
祈らなくても同じだ、というふうに思わないでしょうか。
しかし最後に私達を力づけるのは、祈りです。
それは、祈りは、自分の力やこの世の力に頼るのではなく、自分を神に明け
渡すということだからです。
私達にはどうしようもない時、人間の思いを越えて神の思いがなされるので
す。
 イエスは、この苦しみの中で、ただ祈ることしかなかったのです。
この時のイエスの苦しみについては、44節に記されています。

  イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血
  のしたたりのように地に落ちた。

ここでイエスは、「苦しみもだえた」とあります。
相当うろたえている様子がうかがえます。
こんな弱々しい姿を私達はイエスに期待しないのではないでしょうか。
イエスは神の御子であって、神の子であるなら、どんな試練にあっても超然
としている、勇敢な姿を期待するのではないでしょうか。
宗教の指導者たる者は、少々のことばあっても、たじろがず泰然としてい
る、という思いがないでしょうか。
しかし私達の期待に反して、ここでイエスは「苦しみもだえた」とありま
す。
多少意外なことかも知れません。
しかしここでイエスが、「もだえ苦しんだ」というのは、イエスが決して超
人的な方ではなく、私達と変わらない人間である、ということを表していま
す。
ピリピ人への手紙には、「キリストは、神の御子であられたが、おのれをむ
なしうして人間の姿になられた」と言われています。
しかし私達と同じ人間であるからこそ、私達の弱さを知り給うのです。
ヘブル人への手紙2章18節。(P.345)

  主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを
  助けることができるのである。

そうです。
主イエスは、私達と変わらない弱さをもって、この世に来られたのです。
それは、私達の弱さを理解し、私達の病を負うためです。
イエスは、この苦しみの中で、「ますます切に祈られた」とあります。
死ぬほどの苦しみにたいして何も役に立ちませんが、ただ一つ助けになるの
は、神への祈りです。
イエスは、余りに一生懸命祈られたため、「その汗が血のしたたりのように
地に落ちた」とあります。
私達はこれほど熱心に祈ったことがあるでしょうか。
 さて、イエスは、このようにして、一体何を祈ったのでしょうか。
42節。

  父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてくださ
  い。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてくださ
  い」。

イエスはまず、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りました。
これは試練を過ぎ去らせて下さい、ということです。
今のこの苦しみを取り除いて下さい、ということです。
私達も、何か辛い出来事に出会った時、それを早く取り除いて下さい、と祈
るのではないでしょうか。
苦しい時は、早く過ぎ去ってほしいものです。
これはイエスもはやり私達と同じなのです。
そういう意味では、何かちょっとホッとするような気がします。
 しかし、その次に「私の思いではなく、みこころが成るようにしてくださ
い」と祈っています。
イエスは、弟子たちに教えた「主の祈」においても、「みこころの天になる
ごとく、地にもなさせたまえ」と祈られました。
また、私達もしばしばこの祈りを祈っています。
「みこころ」というのは、神の思い、神の意志です。
イエスは、ここで、「私の思い」ではなく、「神の思い、神の意志」を求め
ているのです。
この神のみこころとは一体何でしょうか。
ここでイエスは、恐らくイザヤ書の預言を思ったのではないでしょうか。
イザヤ書53章の10節には、(P.1022)

  しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、
  主は彼を悩まされた。

とあります。
さらにその前の7−8節には、

  彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
  口を開かなかった。
  ほふり場にひかれて行く小羊のように、
  また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
  口を開かなかった。
  彼は暴虐なさばきによって取り去られた。
  その代の人のうち、だれが思ったであろうか、
  彼はわが民のとがのために打たれて、
  生けるものの地から断たれたのだと。

イエスは、ゲッセマネの園での血の出るような祈りの中で、このイザヤの預
言を思ったのではないでしょうか。
彼は、「みこころが成るようにしてください」と祈りましたが、そのみここ
ろとは、自分がこのイザヤ書に言われている小羊になることだ、と思ったの
ではないでしょうか。
それゆえに彼は、ピラトの前での裁判において、少しも自己を主張したり、
自己弁護をしたりしなかったのです。
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を十字架を背負って歩かれたのですが、
イエスは、どのような思いをもって歩かれたのでしょうか。
おそらく、神のみこころが成るようにと、ご自分の苦難によって人類の罪が
贖われるように、と祈っておられたと思います。
 さて、イエスがこのように血の汗を流して祈っておられた時、弟子たちは
寝ていた、とあります。
45節。

  祈りを終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲し
  みのはて寝入っているのをごらんになった。

弟子たちには、イエスのこのような真剣さ、苦しさが十分には分からなかっ
たのです。
特にペテロは、前の33節を見ると、

  「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行
  く覚悟です」

と非常に勇ましいことを言っています。
しかし、イエスの苦しみと思いを十分には分からずに、眠ってしまっていた
のです。
人間というのは、本当に弱いものです。
いくら口で勇ましい事を言っても、いざとなると、その言ったことの10分
の1のことも出来ないのです。
しかしこれは、ペテロが特別弱かったというのではありません。
私達も同じく実に弱い存在です。
また、自己中心的です。
このような弱い存在であるからこそ、イエスは「誘惑に陥らないように祈り
なさい」とおっしゃるのです。
そして主イエスは、このような弱い私達のために、十字架を担い、ゴルゴタ
への道を歩まれたのです。
これが神のみこころである、と思いつつ。
私達は、この主イエスがわたしたちのために、神のみこころに従順に従って
苦しみを担われたことを今一度覚えたいと思います。

(1992年4月5日)