62、ルカによる福音書23章13−26節
「十字架につけよ」
今週は、受難週です。 主イエスのご受難を覚えつつ、礼拝を守りたいと思います。 さて、先週はゲッセマネの園で主イエスが一生懸命祈られたことを学びまし た。 そしてそれは、神のみ心が成るようにという祈りでした。 そのゲッセマネにおいて、祈りの直後にイスカリオテのユダの先導する神殿 警備隊によって、イエスは簡単に捕らえられました。 そして、直ちに大祭司の邸宅に連れて行かれて、尋問されました。 しかし、彼らはそのところでイエスに対して刑の執行をしませんでした。 何故、祭司長たちは、自分達で刑の執行をしなかったのでしょうか。 それは、イエスに決定的な罪を認めることが出来ず、刑の執行をするには後 ろめたかったからでしょう。 あるいは、この時期はちょうどエルサレムには過越の祭で地方から多くの人 々がやってきていて、その中にはイエスの信奉者が多くい、自分達の手でイ エスを死刑にすると、民衆の反発を招き、自分達が不利になると思ったから かも知れません。 とにかく彼らは、イエスを総督ピラトの所に連れて行ったのです。 自分達の手ではなく、当時最も権力のあったローマ総督に刑の執行をしても らおうと思ったのです。 当時ローマ総督の居住地は地中海岸のカイザリヤにあったのですが、ユダヤ 人の祭りがある時は、エルサレムに行っていたようです。 それは、祭りの時に、しばしば群衆が不穏な行動に出ることがあったので、 それを監視するためでした。 そして、その時はエルサレムの城壁内にあった総督官邸に留まっていまし た。 先日の旅行においても、私達は、その総督官邸の跡、すなわちイエスが裁判 を受けたとされている所もみました。 ちょうどヴィア・ドロローサ(悲しみの道)の始まる所で、今はアラブ人の 小学校になっています。 13−14節。 ピラトは、祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、「お まえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところへ連れて きたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴えているような罪は、こ の人に少しも認められなかった。 祭司長たちが、イエスをピラトに訴えたのは、律法を犯したという理由では ないのです。 そんな理由で総督に訴えても取り上げてもらえないのは、分かっていたから です。 そこで彼らは、「民衆を惑わした」という理由で訴えたのです。 これは、民衆を扇動して、ローマに謀反を起こすことを意味しています。 こういうことにはローマ総督は最も敏感に対処したのです。 ところが総督は、イエスにそのような罪は見いだせない、と言っています。 総督などという地位にある人は、自分の地位を狙っている人が周りにいるの で、うたぐり深いものです。 そういうピラトでさえ、イエスを一目見ただけで、イエスが民衆を扇動する ような人とは思えず、何らイエスに疑いを持っていません。 3節では、 ピラトは、イエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエ スは「そのとおりである」とお答えになった。 とあります。 にもかかわらず、ピラトはイエスを危険人物だとは認めていません。 4節で、 「わたしはこの人になんの罪もみとめない」 と言っています。 たとえイエスが、ユダヤ人の王と自称していても、そんな勇士には見えない し、19節に出てくるバラバのように具体的に暴動を起こした訳でもない し、ローマの兵隊を殺した訳でもないし、そもそも武器を携えた部下がいる 訳でもないということで、ピラトにとっては、イエスという人物は何ら危険 人物ではなかったのです。 ピラトには、祭司長たちが、何とかしてイエスを処刑したい、そのためにあ りもしない理由をつけて訴えている、ということは分かっていたのです。 そして彼は、何故彼らがそんなに必死になってイエスを殺したいのかは分か らなかったでしょう。 ですから、何とかしてイエスを助けようと、いろいろ提案します。 16節では、 だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう。 と言っています。 しかし彼らは、一人を許してもらえるのだったら、暴動と殺人の罪で獄に投 ぜられていたバラバというお男をを許してもらい、イエスはあくまで殺せ、 と叫ぶのでした。 ピラトは、イエスを許してやろうという提案を三度しています。 22節。 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いった い、どんな悪事をしたのか。彼には死に当たる罪は全くみとめられなか った。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。 しかしこの最後のピラトの提案も彼らは拒絶するのです。 23節。 ところが、彼らは大声をあげて詰め寄り、イエスを十字架につけるよう に要求した。そして、その声が勝った。 祭司長たちは、何としてでもイエスを殺したかったのです。 それは何故だったのでしょうか。 ピラトには、その理由は、最後まで分からなかったでしょう。 しかし、人々の余りにも強い要求を拒絶すると、暴動でも起こりかねない、 と思い、最後は、自分の身の保身のためにイエスを十字架刑にすることに同 意したのです。 当時の総督にとって一番の課題は、自分の任されている地方が平穏に支配さ れているということでした。 その地方に暴動が起き、それをうまく収めることが出来ないとなれば、総督 としての責任を取られ、ローマ皇帝によって、左遷させられたり、免職させ られたり、ある時は処刑されることもあったのです。 民衆が大声で「イエスを十字架につけよ」と叫んだ時、ピラトは自分がその ような失政から皇帝に裁きを受けることを恐れたのでした。 しかし、最終的にイエスの十字架刑を決定したのは、ピラトであり、その責 任はいかんともしがたく、使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみ を受け」という一項が記されることになる訳です。 それにしても、祭司長たちは、何故そのように何としてでもイエスを殺し たかったのでしょうか。 13節には、そのような要求をした人々に「民衆」が言われていますが、民 衆はむしろ最初はイエスを支持していたのです。 そして、イエスがエルサレムに入城した時は、熱狂的に歓迎したのです。 しかし彼らは、どういう訳か、この最後の段になって、「イエスを十字架に つけよ」と叫び出すのです。 ここには何があったのでしょうか。 はっきりしたことは分かりません。 ここに権力者による世論の操作、悪宣伝、間違った情報、ということが考え られます。 私達民主主義の世界にあって、民衆の声というのは、非常に大切です。 しかし、この民衆の声というのも、一歩間違えば、恐ろしいものになりま す。 それは、権力者などによって、恣意的に歪められた場合です。 ここでは、「イエスを十字架につけよ」という民衆の声が勝った、とありま す。 この民衆は、恐らく最初はイエスを支持していた訳ですから、祭司長や律法 学者たちの悪宣伝によって操作されたのでしょう。 ここで、正義がかったのではありません。 また、真理が勝ったのでもありません。 ルカは、声が勝ったと言っています。 私達の社会においても、正しいか間違っているかではなく、声が大きいか小 さいかで物事が決められていくということがあります。 黒であっても、声を大きくすることによって、いつの間にか白になってい る、ということもあります。 ここでピラトは、自分の正しいと思っていたことが、民衆の声の大きさによ って負けてしまったのです。 ここでピラトが最終的に考えたのは、自分の地位の安泰ということでした。 すなわち、自分の身の保身とガリラヤの一青年の命を天秤にかけたのです。 そして、自分の身の保身を選んだのです。 政治家にとって、一人の人を犠牲にすることは何でもなかったでしょう。 さて、それでは民衆はどうだったでしょうか。 21節を見ますと、「十字架につけよ、十字架ににつけよ」と叫び続けた、 とあります。 これはもう常軌を逸した態度です。 彼らはそれほどまでにイエスを憎んでいたのでしょうか。 否、イエスは常に民衆の友であり、民衆を愛されました。 彼らもイエスをしたって、彼の話を聞き、エルサレムに入城した時は、「ホ サナ、ホサナ」と言って大歓迎しました。 彼らは、ユダヤ教の指導者たちに扇動された、と思われます。 彼らはイエスの悪宣伝をしたのです。 そして、民衆はそれを信じ、イエスを憎むようになったのです。 どのような悪宣伝をしたのかは分かりません。 人間は悪宣伝やデマなどに意外と弱いものです。 そしてそれが、群衆心理となると、常軌を逸したものになってしまう場合が あります。 ここで、祭司長たちが、民衆にどういう悪宣伝をしたのかは分かりません が、民衆の心理をうまくついたデマを飛ばしたのだと思います。 そして彼らは、実にうまく、民衆を操作した、と思われます。 いつの時代にも、指導者は、うまく民衆を操作するものです。 そして、結果的に、この民衆の声が、ピラトにイエスの十字架刑を決断させ たのです。 さて、今日のテキストには、イエスを十字架に追いやった三つのグループが 出てきました。 すなわち、祭司長などのユダヤ教の宗教指導者とローマ総督ピラトと民衆で す。 そしてこれらの人々は、また私達とは無縁ではありません。 第一のユダヤ教の指導者たちは、イエスを妬みましたが、この妬み心は私達 にもあります。 第二のこの世の権力者ピラトは、自分の保身のために、罪のないイエスを十 字架刑に処する決定をしましたが、私達も自分の保身ということを常に考え ます。 まだ、第三の民衆は、よく考えもせず、人の悪宣伝を信じてしまいました が、このような傾向は私達のもあります。 私達はイエスを十字架につけたのは、ピラトだとか、祭司長たちだとか、 民衆だと思うかも知れませんが、私達も彼らと同じような弱さと罪をもっい るのではないでしょうか。 そして、このような私達人間の罪がイエスを十字架につけたのかも知れませ ん。 しかし、このような弱い罪の私達のためにイエスは十字架にかかって下さっ たのです。 イエスは、イエスを十字架につけよと叫んだ者のために、十字架上で執り成 しの祈りをされました。 「父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか、わからずにいるので す」と。 これはまた、私達のための執り成しの祈りでもあります。 イエスは、今も私達のために「彼らをお赦し下さい」と執り成しの祈りをし て下さっているのです。 私達は、このイエスによって、許されていることを覚えるものでありたいと 思います。 イエスの受難は、まさに私達の罪が赦されるためのものであったことを覚え たいと思います。 (1992年4月12日)