63、ルカによる福音書23章32−43節
「十字架上のイエス」
レントの時期にあって、主のみ苦しみを覚えながら日々を過ごしています が、今日のテキストは主イエスが十字架にかけられた時の記事です。 主イエスは、最後の晩餐の後、オリーブ山でイスカリオテのユダに先導さ れた祭司たちに捕らえられ、直ちにサンヘドリンというユダヤの最高法院に 引き出され、裁判を受けました。 そしてその後、ローマ総督ピラトの所に連れて行かれ、結局このピラトの判 決によって、十字架につけられることになりました。 しかしこのピラトはイエスを犯罪人とは認めていなかったのですが、民衆が 激しく「十字架につけろ」と叫んだので、その声に負けてしまったのでし た。 さて主イエスは、判決を受けた後、自分の十字架をかつがされて、ヴィア ・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれている道を歩くことになります。 私達も先年のイスラエル旅行において、ここを通りました。 約1キロほどの石畳の狭い緩やかな登坂の道で両側には、アラブ人の店が並 んでいました。 イエスさまがこの狭い道をご自分の十字架を背負って歩かれたのか、と思う と感慨深いものがありました。 ここには、聖書の記事に基づいて、14のステーションがありました。 26節の所にシモンというキレネ人が出てきますが、イエスさまが十字架を 背負うのに疲れて、倒れた所、ちょうどそこに居合わせたこのシモンに代わ りに担がせたというのです。 それは、ヴィア・ドロローサの5番目のステーションで、建物の壁にその彫 刻が施されていました。 33節。 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字 架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 ヴィア・ドロローサの終点は、「されこうべ」と呼ばれる所で、そこで主イ エスは十字架にかけられたのです。 これはアラム語では、「ゴルゴタ」と言われました。 そして、ラテン語では「カルバリ」と言います。 来週歌う讃美歌第二編の185番は「カルバリ山の」という題です。 この場所は、現在のヴィア・ドロローサの終点に聖墳墓教会が建っています が、その中だとされています。 どうしてこんな名がついていたのかは、いろいろな説があります。 一つは、その丘の形が人間の頭蓋骨に似ていたからである、というもので す。 もう一つは、そこは刑場で、多くの人の骨が埋められていたからだ、という ものです。 しかしはっきりしたことは分かりません。 この「されこうべ」が現在聖墳墓教会の建っている所であるということもは っきりしていません。 エルサレムの城壁の外側に、「園の墓」と呼ばれている所があります。 この「園の墓」が主イエスが十字架にかけられた「されこうべ」だと言う人 もいます。 私達も行きましたが、そこは人間の頭蓋骨のような形をしており、ちょうど この「されこうべ」にはふさわしいようにも思えました。 さて、十字架上の主イエスはどうされたでしょうか。 34節。 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が 何をしているのか知らないのです。」 主イエスは今、十字架上で非常なる苦痛の中にありました。 肉体的にも、精神的にも、非常なる苦痛でした。 手首に釘を打たれて吊される訳ですから、気の遠くなるような苦痛です。 そして、その苦しんでいる様子を、多くの人が見ている訳です。 そして多くの人は、あざ笑ったり侮辱したりしていたというのです。 私達ならそのようなことに決して耐えられないでしょう。 悪いことをした人ならそれもいたしかたないかも知れません。 しかし、主イエスは全くの無実でしたから、その苦痛は測り知ることができ ません。 普通の人なら、こんな仕打ちをした人を呪い、自分の運命を嘆くでありまし ょう。 そういう肉体的、精神的苦痛の中にあったイエスが吐いた言葉は、何と「彼 らをお赦しください」と言う言葉でした。 使徒言行録の7章の一番最後を見ますと、ステファノも殉教した時、「主 よ、この罪を彼らに負わせないでください」と言って死んだ、と記されてい ます。 今日のテキストの34節は、かっこに入れられています。 これは、この言葉がある写本に抜けているからです。 そこで、使徒言行録の言葉がここに入り込んだのだという意見もあります。 しかしそうではないと思います。 この言葉は、主イエスが実際に吐かれた言葉であることは間違いないでしょ う。 私達は、自分に向けられた他人のちょっとした言葉や行為に対しても、中々 赦すことができず、憎しみを抱いたり、ののしり返したりします。 この主イエスの十字架上の言葉は、人間には不可能な奇跡と言っていいと思 います。 35節に「民衆は立ってみつめていた。」とありますが、主イエスが十字 架にかけられた姿を多くの人が見ていました。 そしてその中には、主イエスは神の子だと信じて、最後には何か奇跡を起こ して助かるのでは、と期待して固唾の呑んで見ていた人もいたでしょう。 しかし主イエスは、ついに奇跡を起こさずに息を引き取りました。 それを見て、イエスに最後まで期待をかけていた人も、失望したでしょう。 しかし実は、奇跡が起こっていたのです。 この「彼らをお赦しください」という執り成しの祈りこそ、人間にはできな い奇跡としか言いようがありません。 十字架上の七言と言われているものがあります。 主イエスが十字架の上で発された7つの言葉です。 そして、この34節の言葉は、その最初のものです。 主イエスはここで、「彼らをお赦しください」と言われました。 この彼らとはだれのことでしょうか。 直接イエスを十字架にかけたローマの兵士たちのことでしょうか。 勿論、彼らは含まれているでしょう。 彼らは、イエスが十字架上で苦しんでいるその下で、戯れごとをするよう に、くじを引いて、イエスの服を分け合った、というのです。 また、イエスを捕らえた祭司や律法学者、死刑の判決を下した総督ピラト、 イエスを裏切ったイスカリオテのユダやイエスのことを「知らない」と三度 否んだペテロなども含まれているでしょう。 また、イエスを十字架につけよと叫んだ一般の民衆も含まれているでしょ う。 しかし、それだけではありません。 神のみ心が分からず、神に対して罪を犯している私達も含まれているので す。 主イエスは、「自分が何をしているのか知らないのです」と言われました が、私達もしばしば神のみ心が分からず、自分中心的なことをしています。 そして主イエスは、このような罪深い私達のために十字架にかかられたので す。 そして、十字架上でなされた「彼らをお赦しください」という執り成しの祈 りは、今も私達のために捧げられているのです。 さて、イエスと共に二人の犯罪人が十字架にかけられました。 39節。 十字架にかれられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前 はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」 この男は、恐らく熱心党と呼ばれていたグループの一員であったと思われま す。 このグループの人にとっては、キリスト(メシア)は、偉大な力によって、 イスラエルをローマの支配から解放する者でした。 したがって、十字架の上で何もすることのできない者は、キリストとは言え なかったのです。 この男の発言には、期待していたキリストとは違った姿のイエスに怒りを覚 え、すべてに絶望し、虚無的になった姿があります。 このグループの目的は、イスラエルのローマからの政治的独立であり、それ が達成されない場合は、絶望しかありませんでした。 しかし同じ十字架にかけられたもう一人の男は、やはり熱心党の一員であ ったと思われますが、この最後の時になって、自分の誤りを悟り、最後の時 に、イエスにすべての望みをかけたのです。 40−41節。 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同 じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けてい るのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 ここには悔い改めの心があります。 先の男には、自分の考えは間違っていない、間違っているのは相手だ、とい う思いが強くありました。 そこで、イエスは自分の考えていたキリスト像とは違うので、それをののし ったのです。 しかし二番目の男は、「神を恐れないのか」と言っています。 すなわち、自分を絶対視するのでなく、神を恐れているのです。 そしてイエスに対して、恐れの気持ちをもっています。 42節。 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを 思い出してください」と言った。 この「わたしを思い出してください」というのは、詩編などによくある祈り の言葉です。 これは、悔い改めの言葉であり、神の憐れみを求める言葉です。 すなわち、この男は、もう死ぬ寸前に心からの悔い改めをイエスに述べたの です。 そして、救いにとって、最も必要なのは、否ただこれだけが必要なのは、悔 い改めです。 イエスも宣教の始めに、「悔い改めて福音を信ぜよ」と述べました。 もし、本当に悔い改めるなら、その人が今までどのような行いをしたかは問 題ではありません。 もうすぐ死ぬという所で、彼はイエスへの信仰によって救いに入れられたの です。 43節。 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒 に楽園にいる」と言われた。 「はっきり」というのは、原文ではアーメンです。 ここにイエスは、厳粛にこの男が死ぬ最後の瞬間に救われ、神の国に入れら れるということを宣言されたのです。 最初の人間アダムとエバは、この楽園にいました。 ここは、人間の罪や悪の支配しない、神の支配する所です。 この犯罪人は、イエスと共に、この理想的な楽園に入るということを約束さ れたのです。 そして私達もまた、楽園に入れられることを約束されています。 ここに神の赦しということが言われています。 私達も、このキリストの十字架によって、救いの約束に入れられていること を覚える者でありたいと思います。 (1994年3月20日)