64、ルカによる福音書23章44−49

  「正しい人の死」



 今週は主が苦しみにあわれた受難週です。
主イエスの苦難を覚えて過ごしたいと思います。
主イエスは、木曜日の夜、弟子たちと最後の晩餐を取られ、その後オリーブ
山で一生懸命祈られました。
その後、イスカリオテのユダに先導された祭司長たちに捕らえられ、直ちに
大祭司の官邸に連れて行かれて裁判を受け、それから総督ピラトの所に連れ
て行かれて、そこで十字架刑の判決が下されました。
そして金曜の朝ゴルゴタ(ラテン語でカルヴァリ)まで十字架を背負って、
ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を歩かれ、9時頃に十字架にかけられま
した。
先週は、その十字架上での出来事を学びました。
 今日のテキストは、それから3時間ほど経ったものです。
44節。

  既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続い
  た。

福音書では、主イエスが十字架にかかった時の真昼に暗くなった、と伝えら
れています。
何故暗くなったのかは、分かりません。
45節を見ますと、「太陽は光を失っていた」とあり、ルカはこれが日食で
あったと理解しているようです。
しかし、他の福音書では、そのような言及はありません。
学者は、この時期には日食はなかったと言います。
これは、自然現象で説明するよりは、一つの象徴であったと思われます。
すなわち、暗黒というのは、神の裁きの象徴なのです。
主イエスは、神の裁きによって死なれたということを言い表しています。
しかしながら、この裁きは、本来、私達罪人が受けるべきものだったので
す。
主イエスは、神に対して何ら罪を犯さず、正しいお方でした。
最後まで神に忠実に従われました。
しかし神は、私達罪人を救うために、正しいお方である主イエスを私達の
代わりに裁かれたのです。
そのことを、「全地は暗くなった」ということで言い表しているのです。
 45節には、もう一つ象徴的なことが言われています。

  神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

これも、地震によってこうなったのだという説明もありますが、そうではな
くやはり象徴的なことだと思います。
この「神殿の垂れ幕」というのは、エルサレム神殿の一番奥の至聖所の入り
口の幕のことです。
この至聖所にはだれも入ることができず、年一回だけ大贖罪日の日に、大祭
司が犠牲の血を携えて、執り成しの祈りをするために入るだけでした。
しかし、その垂れ幕が裂けたということは、そのような犠牲の血も、大祭司
の執り成しも必要でなくなった、ということが意図されています。
すなわち、主イエスの犠牲の血が捧げられた今、そのようなユダヤ教の犠牲
は必要でなくなった、ということです。
ユダヤ教の大祭司の執り成しの祈りも必要でなくなった、ということです。
私達は、主イエスの執り成しにあずかっているのです。
 そして午後の3時ころに、主イエスはついに息を引き取られたのです。
 46節。

  イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」
  こう言って息を引き取られた。

十字架につけられたのが、朝の9時ごろで、息を引き取られたのが午後の3
時ごろですから、主イエスは十字架上で6時間ほど苦しまれたことになりま
す。
この6時間の苦しみは、私達の想像を絶するものです。
この主イエスの苦しみを思えば、私達はすべての苦しみに耐えることができ
るのではないでしょうか。
先年亡くなられた石井完一郎兄が、ある時、病院の廊下ですべって腰の骨を
骨折されたことがありました。
その時、お見舞いに言ったのですが、腰が非常に痛かったそうですが、主イ
エスの十字架の苦しみを思えば、その痛みに耐えられる、とおっしゃってい
ました。
 さて、主イエスの最後の言葉は、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねま
す」というものでした。
これは、神に対する全くの信頼の言葉です。
主イエスは、私達の身代わりに神の裁きを受けて死なれたのですが、最後ま
で神に信頼されたのです。
ここに信仰者の最も大いなる手本があります。
詩篇の記者も「神により頼む者は幸いである」と言いましたが、神に全く信
頼して死ぬことができれば、最も幸いなのではないでしょうか。
いつ死ぬとも分からない病気の人が、「すべて神にお任せします」という気
持ちになった時、本当に平安な表情になります。
私達は、普段、「自分、自分」ということが強いと思います。
そういう中で、色々な思い煩いや、不安、恐れ、いらいらなどを経験しま
す。
そういう時、「自分」ではなく、すべてを神様に委ねることができれば、本
当に平安な気持ちになれるのではないでしょうか。
しかしながら、すべてを神に委ねるということは、中々難しいものです。
そういう意味では、この主イエスの最後の言葉「父よ、わたしの霊を御手に
ゆだねます」は、私達信仰者の手本だと思います。
 47節。

  百人隊長はこの出来事を見て「本当に、この人は正しい人だった」と言
  って、神を賛美した。

さて、ついにイエスは息を引き取りました。
この光景を多くの人が見ていました。
彼らはどのような思いで十字架につけられたイエスを見守っていたのでしょ
うか。
ルカはここで3種類の人を挙げています。
すなわち、47節で百人隊長、48節で群衆、49節でイエスに従って来た
婦人たちです。
最後の婦人たちは、49節に「遠くに立って、これらのことを見ていた」と
あるように、比較的冷静な態度です。
彼らの中には、最後の最後まで、イエスは十字架の上から何か奇跡を起こす
のではないか、と期待して固唾を呑んで見ていた人もいたでしょう。
しかし何も起こりませんでした。
そこで彼女たちは、失望し、何の感動も起こらなかったようです。
しかしイエスとは関係のない一般の見物人は、48節に「胸を打ちながらか
えって行った」とあるように、一種の感動を抱いたようです。
どのような感動であったかは分かりませんが、やはりイエスはただ者ではな
かった、というような思いではなかったでしょうか。
そして、一番大きな変化のあったのが、百人隊長でした。
百人隊長というのは、ローマ軍の文字通り百人から成る軍の隊長です。
ローマ帝国は、非常に整備された軍隊の組織を形成しており、25の軍団
(レギオン)があったと言われています。
そして1軍団は百人隊が60、すなわち六千人で形成されていました。
当時25の軍団のうち4個がシリアに配備されていたということです。
そのうちのいくつかの百人隊がシリアからさらにエルサレムに送られていた
のでしょう。
百人隊長は、ローマ軍の厳しい訓練を受けた者で、占領地の治安のために遣
わされていたのです。
主にローマに反乱を起こす者を取り締まり、反逆者は処刑していたでしょ
う。
従って、十字架の光景はよく見ていたものと思われます。
しかし、このイエスの死の光景を見て、「この人は正しい人だった」と言っ
た、というのです。
恐らくこの人は、今までイエスに会ったことも、話を聞いたこともなかった
でしょう。
そして総督ピラトによって十字架刑の判決が下されたということは、イエス
はローマに対する反逆者とされたということで、それを取り締まる百人隊長
にとっては当然いい感情はもっていなかったでしょう。
しかし、約6時間、十字架上のイエスを見守っている間に、この人は正しい
人だったと思うようになったのです。
それだけでなく、神を賛美したとあります。
イエスに従ってガリラヤから来た婦人たちとは対照的な態度です。
彼は勿論ユダヤ教ではなかったでしょうし、聖書の神も知らなかったでしょ
う。
ローマ人だったでしょうから、ローマの神々を崇拝していたと思われます。
かれは、なぜ十字架上で死んだイエスが正しい人だったと思ったのでしょう
か。
はっきりしたことは分かりません。
何か直感的にそう感じたのかも知れません。
あるいは、34節にある「父よ、彼らをお赦しください」という祈りに驚い
たのかも知れません。
 同じ光景に接しても、信仰に至る者もいれば、そうでない者もいます。
信仰とは、理屈ではありません。
一種の直感のようなものかも知れません。
聖書を何年勉強しても信仰に至らない人もいれば、一回説教を聞いてすぐ信
仰をもつ人もいます。
この百人隊長は、この後者に属する人であったようです。
元々信仰を持つ素質のあった人かも知れません。
この人がその後どうなったかは分かりませんが、一説によると、その後キリ
スト教の信仰を持ち、ローマに帰ってローマで伝道したとも言われていま
す。
イエスの死と復活の後、キリスト教はローマ世界に広く伝えられました。
これは十二弟子やパウロの伝道によるところも大きいのですが、それだけで
はなく、いろいろな形で主イエスに出会った人が、それぞれの所でキリスト
を伝えたのです。
この百人隊長も、ローマで伝道したというのはありそうなことです。
 さて、この百人隊長がイエスが死んだ時、「この人は正しい人だった」と
思わず言ったのは、直感のようなものであったかも知れませんが、その直感
は非常に当たっていたのです。
この「正しい」というのは、旧約聖書の伝統からすれば、神との関係におい
て正しい、ということです。
パウロの言葉で言うと、「義」ということです。
パウロがローマの信徒への手紙3章10節で引用している詩編の記者の言葉
では次のように言われています。

  正しい者はいない。一人もいない。

すなわち、人間はすべて神との関係においては、正しい人はいないのです。
すべて罪を犯しているのです。
そして、ただ一人、主イエスだけが神の前に全く正しいお方であったので
す。
それをこの異邦人の百人隊長は言い当てたのです。
これはただの直感というよりは、聖霊の働きでしょう。
信仰をもつというのは、単なる人間の直感というのでなく、聖霊の働きなの
です。
この唯一正しいお方が死んだというのがキリスト教の福音です。
それは、神の前に正しいお方が死ぬことによって、私達の罪が贖われたから
です。
私達は、このことによって、罪より贖われ、救いに入れられ、永遠の生命に
与る者とされていることを信じ、感謝したいと思います。

(1994年3月27日)