65、ルカによる福音書24章22−35節
「イエスは生きておられる」
今日は、主イエスの復活されたイースターの礼拝です。 共に、主のご復活をお祝いしたいと思います。 キリストの復活は、十字架と共に、私達の信仰にとって、最も基本的なもの です。 聖書の記者たちは、ただ漠然と書物を書いたのではなく、鮮明な意図があっ たのです。 その意図とは何でしょうか。 それは、自分たちは主イエスの復活の証人である、ということです。 ペテロが聖霊降臨日の説教において、そのことを言っています。 使徒言行録2章32節。(P.216) 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの 証人です。 彼らはある出来事に遭遇した証人なのです。 彼らはどうして、自分たちの体験した復活の出来事を書き残そうとしたので しょうか。 それは、彼らの体験が、彼らに新しい命をもたらしただけでなく、すべての 人々を生かし、多くの人に救いをもたらすと信じたからです。 どんな書物でも、その書を著すには、その意図があります。 そして読者は、著者の意図に沿って読むのが、正しい読み方でしょう。 そこで私達は聖書を読むとき、これを復活を体験した人達の証言の書だとし て読むべきでしょう。 聖書を記した記者たちは、そういう意図をもって書いたのです。 さて、復活というのは、誰でもが認めるというものではなく、イエスに出 会ったという信仰の体験なのです。 従って、客観的な出来事ではありません。 イエスが十字架にかけられて死んだことは、誰しも認める客観的な出来事で す。 しかし、復活はそうではありません。 あくまでも信仰の問題であって、信仰のない人にとっては馬鹿げたことで す。 しかし、信仰のある者にとっては、非常に重要な体験です。 今日のテキストは、そのことを語っています。 ここに二人の弟子が登場します。 この二人は、いわゆる十二弟子ではありません。 18節を見ますと、クレオパという名が記されています。 このクレオパという人物は、聖書の他の所には出てきません。 彼がどういう人物で、いつイエスの弟子になり、その後どうなったのかも分 かりません。 しかし、ルカがここに名を記しているということは、あるいはルカがこのク レオパから復活体験を直接聞いたのかも知れません。 29節を見ますと、イエスがこの人の家に泊まって食事をしたとありますか ら、この人はエマオの人であったのかも知れません。 エマオというのは、13節を見ますと、エルサレムから60スタディオンと あります。 1スタディオンは、約185メートルですから、大体エルサレムから11キ ロぐらいの所にある村ということになります。 イエスの12弟子は、皆ガリラヤ地方の人達でしたが、このクレオパは、エル サレムに比較的近いので、イエスがエルサレムにやって来る途中に弟子にな ったのかも知れません。 とにかく、このクレオパともう一人の弟子が復活のイエスに出会うという 体験をします。 しかし彼らは、最初からイエスの復活を信じていたのではありません。 エルサレムでは、イエスが復活したということが一つのうわさになっていた ようです。 18節。 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していなが ら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったので すか。」 しかし、復活は単なるうわさとして聞くならば、信じられない、馬鹿げたこ とと思われるでしょう。 復活のことを最初に知ったのは、女性たちでした。 そして、男の弟子たちは、彼女たちからそれを聞いたのですが、やはり最初 は信じませんでした。 さてここで、この二人の弟子たちは、実際にイエスに出会っても、それが イエスだとは分からなかったというのです。 16節。 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 これは、信仰の目が開かれていなかった、ということです。 ここからも分かるように、復活のイエスは誰にでも認められる、というので はありません。 復活とは、信仰の目をもってしなければ分からないものなのです。 目では見ていても、それをイエスだと認めたのは、ごく少数の人でした。 イエスは、復活の後昇天されるまで40日の間エルサレムの近くにいたはず ですが、復活のイエスに出会ったのは、ごく少数でした。 それは、多くの人は、目が遮られていたから、すなわち、信仰の目が開かれ ていなかったからです。 それはどういうことでしょうか。 それはこの弟子の言葉の中に現れています。 19−21節。 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザ レのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉に も力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員 たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです 。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをか けていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目にな ります。 ここで、弟子たちは、「イエスに望みをかけていた」と言っています。 すなわち、自分達の願いや思いをイエスに託していたのです。 「行いにも言葉にも力のある預言者でした」とか「イスラエルを解放してく ださると望みをかけていました」という言葉から、彼らの期待が想像できま す。 しかし、彼らの期待も空しく、十字架につけられて殺されてしまったので す。 残念だ、自分たちの期待がはずれた、という思いがあります。 そして、イエスが復活したといううわさも聞いているが、それには半信半疑 なのです。 彼らの思いとしては、復活ということ自体が考えられないのです。 愚かな話しなのです。 そして、もし復活したのなら、今こそ不思議な業を行ってイスラエルを救う はずだ、このような思いがあって復活ということを信じなかったのでしょ う。 いずれにしても、彼らは自分たちの思い、考え、期待、願望といったものを 優先させていたのです。 さて、イエスは、そのように弟子たちに、聖書にはどう書いているかを語 られました。 27節。 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自 分について書かれていることを説明された。 エルサレムからエマオに通じる道を3人が並んで、聖書に書かれていることを 話しながら歩いて行きました。 教会の階段の所に「エマオにて」という絵がかかっていますが、これは今日 のテキストを題材にしたものです。 恐らくイエスさまが一生懸命聖書の話をしている光景だと思います。 そして、このイエスさまの聖書の説き明かしを聞いているとき、彼らの心の 内に信仰の炎が燃え上がったのです。 32節。 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったと き、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 復活とは、このように信仰が燃え上がらないと分かりません。 そして次に、自分の家にイエスを引き留めて食事をしたとき、彼らの目が 開かれた、とあります。 30−31節。 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱 え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだ と分かったが、その姿は見えなくなった。 ここにおいて彼らは、復活の体験をしたのです。 今まで半信半疑で聞いていた「イエスは生きておられる」ということを、は っきりと確信したのです。 さて、この二人の弟子は最初イエスを目の前に見ていながら、それがイエ スだと分からなかったのが、それが「イエスは生きておられる」という確信 に至ったのには、二つの事柄があります。 すなわち、イエスが聖書全体にわたって説き明かされた、ということと、パ ンを取って祝福して裂いた、ということです。 すなわちこれは、礼拝における説教と聖餐式を意味しています。 ここには、礼拝の場において復活のキリストと出会うことができる、という ことが意味されています。 私達も、礼拝の場において、すなわち、説教と聖餐式とを通して、復活の主 との出会いを体験することができるのです。 私達の思いや願望を優先させている時は、私達の信仰の目は閉じられ、復活 は信じられません。 そうではなく、聖書はイエスについて何と言っているか、イエスが私達にと ってどういうお方かを聖書が何と言っているか、また、復活の出来事を体験 した証言者がどう言っているか、ということに耳を傾けるとき、私達にも復 活の主が出会われるのです。 私達も「イエスは生きておられる」という確信をもつことができるのです。 また、もうひとつ重要なことは、聖餐式を通して復活の主との交わりをもつこ とができるということです。 ここでクレオパたちは、イエスがパンを取って祝福したときに目が開かれ た、と言っています。 すなわち、聖書の説き明かしだけでは不十分だ、ということです。 教会では、聖餐式が重んじられてきました。 私達は、目でもってイエスを見ることはできません。 しかし、聖餐式において、パンを食し、ぶどう酒を飲むことによって、キリ ストを味わうことができるのです。 礼拝は、復活の主との出会いの場であり、交わりの場です。 私達も、礼拝を通して「イエスは生きておられる」という信仰を常にもつも のでありたいと思います。 (1994年4月3日)