66、ルカによる福音書24章33ー43節

  「復活の喜び」



 今日は主の復活を記念するイースターの礼拝である。
共に主の復活を喜びたい。
41節。「・・・」
「彼らは喜びのあまり」とあるように、この主の復活は、弟子たちにとって、
大きな喜びであった。
そして、この喜びは、イエスの弟子たちだけでなく、世々の教会の喜びでもあ
ったし、また、私達の喜びでもある。
 33節。「・・・」
「エルサレムに帰って見ると」とあるのは、二人の弟子がエマオに行く途中で
復活のイエスに出会い、その後エルサレムに帰って来た、ということである。
この二人は、復活のイエスに出会うのであるが、最初はそれがイエスとは分か
らなかったのである。
そして一軒の家で共に食卓についた時に、それがイエスであるということが分
かったのである。
30ー31節。「・・・」
このような形で、イエスはしばしば弟子たちに現れたようである。その期間が
40日であった、と言われている。
使徒行伝1:3。「・・・」(180ページ)
そして、弟子たちに会って何をしたかと言うと、聖書がキリストのことを証し
ている、ということを教えたのである。
27節。「・・・」
イエスは、まさに聖書の説きあかしをされたのである。
キリスト教の礼拝は(特にプロテスタント教会)、その中心が聖書の説きあか
しであるが、その伝統はさかのぼれば、イエスご自身にある。
そして、弟子たちは、イエスに教えられたように、今度は人々に聖書を説き明
かしていったのである。
聖霊降臨の後、最初の教会が出来たが、そのとき、最初に行われたのがペテロ
による説教であった。
 さて、イエスは、復活して、40日の間に色々な仕方で弟子たちに出会った
ようである。
34節。「・・・」
シモンというのは、ペテロのことである。
復活のキリストは、一番最初に12弟子の筆頭であったペテロに出会ったとい
うのは、最も古い伝承であった。
その最も古い伝承は、コリント人への第一の手紙15章に記されている。
3ー6節。「・・・」(P.274)
このケパというのがペテロである。
そして、ここでは、「現れた」という言葉が繰り返されている。
それゆえに、復活というのは、復活そのものの記事ではなく、弟子たちに出会
った、顕現した、という記事である。
これは、弟子たちの復活体験、と言っていい。
弟子たちは、自分の復活体験を語り伝えたのである。
そこで、聞く人の中には、当然のことながら、疑う人もいたのである。
ある者は、それは実際のイエスではなく、幻覚を見たのだ、と言った。
幻影のような者を見たのだ、と言った。
あるいは、霊(幽霊)を見たのだ、と言った。
そのようなことが当時色々言われていたようである。
37節に「・・・」とあるが、これは、むしろ弟子たちの復活体験の話を聞い
た当時の人の反応であった。
それに対して、福音書の記者は、それは、幻影でも幽霊でも幻覚でもなく、正
真正銘のイエスであった、ということを主張しているのである。
ここでルカの強調しているのは、イエスの復活が実際に起こった、ということ
である。
弟子たちに現れたイエスは、幻影でもなければ、幽霊でもない、ということで
ある。
死んだイエスは、真実よみがえったのである、ということを主張しているので
ある。
38ー39節。「・・・」
「どうして心に疑いを起こすのか」とあるが、これはむしろ当時の復活を信じ
ない人々に対する言葉である。
そしてイエスは、そのように不信の者に対して、ご自分の体を見せられるので
ある。
それはきっと、十字架にかけられた時の傷があったであろう。
ヨハネによる福音書では、弟子のトマスが、他の弟子から復活のイエスに出会
った話を聞いた時、決して信じなかった。
そして、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入
れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」
と言った。
これに対してイエスは、「見ないで信ずる者は、わいわいである」と言われた。
 聖書において、復活という場合、霊が不滅である、というのではない。
体は死んでも、魂は生き続ける、というのではない。
体がよみがえるのである。
使徒信条においても、「体のよみがえりを信ず」とある。
キリスト教の復活は、ギリシア的な霊魂の不滅というのではない。しかし、そ
れは、地上の体そのままではない。
パウロはコリント人への第一の手紙15章で、「肉のからだでまかれ、霊のか
らだによみがえる」と言っている。
弟子たちが、復活のイエスに出会った時、最初は分からなかった、と言われて
いるが、それはそのようなことであったのであろう。
しかし、復活の姿については、色々詮索しない方がいい。
大事なのは、キリストが現実に体をもって、復活したということを信じること
である。
イエスは疑うトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と
言われたが、これはまた私達に言われている言葉でもある。
しかし、疑い深い私達にイエスは、ご自身の体をお見せになるのである。
40節。「・・・」
さらにイエスは、畳み掛けるように、食事をすることによって、ご自分が肉体
的に生きていることを示されたのである。
41ー43節。「・・・」
これでイエスは、霊や幻影ではない、ということがはっきりしたのである。
41節に「彼らは喜びのあまり」とある。
イエスの復活によって、弟子たちに齎されたのは、喜びであった。福音書は
、「喜びのおとずれ」という意味である。
福音書を書いた記者は、キリストの復活を知っている。
否、むしろ復活の喜びのことから、さかのぼってイエスの生涯の記事を書いた
のである。
もし、キリストの復活がなかったなら、恐らく福音書という作品は書かれなか
ったであろう。
喜びのおとずれである福音書は、イエスが死に勝利された復活に向かうが故に
福音なのである。
いくら力ある言葉を語られても、いくら勇気づけられても、いくら慰めを受け
ても、私達の最後は死で終わるなら、真の喜びは出て来ないであろう。
イエスが死に勝利し、そして私達もこのキリストの復活に与ることが出来ると
いう希望に生きてこそ喜びである。
そういう意味で、キリストの復活は、私達の喜びなのである。
共に主の復活を喜びたい。

(1990年4月15日)