67、ルカによる福音書24章44ー53節
「み言葉の成就」
教会の暦によると、復活日から40日目が昇天日である。 今年は、12日(木)が「昇天日」に当たっていた。 この昇天日から10日目が、すなわち来週になるが、聖霊降臨日(ペンテコス テ)である。 さて、今日は昇天日について、ルカの記事を学ぼう。 50ー51節。「・・・」 ベタニヤは、エルサレム郊外のオリーブ山のふもとにある小さな村である。 この村には、マルタとマリヤとラザロの兄弟の家があり、イエスもしばしば行 かれた。 このベタニヤの近くでイエスは、天にあげられた、とある。 []に入れられているのは、有力な写本にこの言葉がないのがあるからである。 マルコによる福音書では、「天にあげられ、神の右にすわられた」という言葉 がある。 使徒信条においても、「天に昇り、全能の神の右に座したまえり」とある。 この場合、右というのは、場所的な右というのでなく、右は聖書において権力 を表す。 従って、イエスは、天に上げられて、真の権力の座につかれた、ということで ある。 私達を真に支配されるのは、この世の権力者ではなく、真の権力者である主イ エスである。 以前に使徒行伝において、ステパノの殉教のことを学んだが、ステパノは迫害 されて皆から石を投げられていた時、イエスが神の右に立っておられるのを見 た、とあった。 すなわち、ステパノは、自分を処刑しているユダヤ教の指導者が本当の権力者 ではなく、真の権力者は主イエスであることを確信したのである。 それゆえ、迫害者の迫害を恐れず、かえって彼らのために執り成しの祈りをした。 天に昇られたイエスは、今も真の権力の座に座して、私達を支配したもうので ある。 私達は、この世の権力者に目を向けるのでなく、神の右に座したもうこの真の 権力者に目を向けるべきである。 さて、イエスは、天に上げられるに先立って、弟子たちに重要なことを述べ られた。 44節。「・・・」 律法と預言書と詩篇とで、旧約聖書の全体を表している。 この当時、まだ、旧約聖書という一巻の書物にはなっていなかった。ヘブル語 の旧約聖書は、3部からなっている。 この時代、第一部の律法(トーラー)と第二部の預言書(メビイーム)は、既 に成立していたが、第3部の諸書(ケスビーム)は、まだ成立していなかった。 第三部は、詩篇の外、ヨブ記、箴言、伝道の書、雅歌からなっている。 しかし、イエスがここで、三つのものを挙げているのは、すなわち聖書全体と いうことを言っているのである。 すなわち、聖書全体が証しているのは、イエス・キリストについてである、と いうのである。 イエスは、27節でもそれを言っている。 イエスは、復活した後、弟子たちに現れて、しばしば彼らに話をされたが、そ れはすべて聖書の説き明かしであった。 生前、イエスは、聖書のことを弟子たちに常に説き明かされたであろう。 しかし、弟子たちは、その説き明かしが十分には、分かっていなかったのである。 使徒行伝の記事を見れば、イエスは復活されてから、昇天されるまで、40日 の間、弟子たちに聖書を教えられた、とある。 この40というのは、聖書においては、漠然とした無意味な数ではなく、完全 を意味するものである。 従って、40日に亙って、イエスが弟子たちに聖書の説き明かしをされた、と いうことは、その説き明かしが完全なものであった、ということを意味している。 その十分な説き明かしを受けた弟子たちは、初代の教会の使徒となって、今度 は自分たちが大勢の人々に聖書を説き明かしたのである。そして、私達の教会 もそうであるが、世々の教会は、ずっとこの聖書の説き明かしをなし続けてい るのである。 そして、今日のところで、イエスは、ご自分についての聖書の証言は、必ず 成就する、と言っている。 「必ず」とある。 非常にきつい言葉である。 また、非常に重い言葉である。 しかし、聖書は、いい加減な人間の頭で考えた言葉ではない。 聖書の言葉は、真実であって、それは必ず成就するのである。 ヘブル語で、言葉は、ダーバールというが、これはまた出来事という意味にも なる。 すなわち、神の言葉は、そく出来事なのである。 創造物語りで、神は「光りあれ」という言葉を発せられたが、「すると光があ った」とそれが出来事になっている。 そこで、神の言葉は必ず成就するのである。 この聖書のみ言葉への確信が私達には必要なのである。 キリスト者は、この信仰に生きる者である。 そこで、引き合いに出されるのは、アブラハムの信仰である。 ヘブル人への手紙11:8。「・・・」(P.355) アブラハムは、元々メソポタミア地方に住んでいた。 その住み慣れた所から、聖書の舞台であるパレスチナに召し出された。 「受け継ぐべき地」というのは、パレスチナ(カナン)のことである。 しかし、このカナンの地を与えるという約束をされたが、アブラハムが生きて いる間には、それは実現しなかった。 そして、彼の息子のイサクの時代にも、さらにその子のヤコブの時代にもアブ ラハムに与えられたのと同じ約束はされるが、それは実現しなかった。 それでは、神の言葉は成就しなかったのだろうか。 神の約束は、言葉だけの空しいものであったのであろうか。 決してそうではない。 アブラハムの子孫がエジプトで大きな民になった時、神はモーセによって、エ ジプトからイスラエルの民を導き出し、そしてその途中シナイ山で正式に神の 民とし、ヨシュアによって導かれて、約束の地カナンに侵入したのであった。 アブラハムからは、実に何百年も後のことである。 しかし、神の言葉は空しいものでなく、そういう形で成就されたのである。 そして、そこで、ダビデ、ソロモンが強大な国を作った。 確かに、アブラハムに約束されたことが、そくアブラハムに実現しなかった が、その子孫において、全く成就したのである。 救い主キリストの到来のことについてもそうである。 預言者イザヤは、紀元前8世紀に、救い主の誕生を予言した。 すなわち、「見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと となえられる」という有名な預言である。 確かに、この予言は、すぐには成就しなかったが、それから七百年の後にイエ スの誕生において成就したのである。 今日のところで、イエスは、「聖書に書いてあることは、必ず成就する」と力 を込めて言っている。 この「必ず」という所に強調があるのである。 イエスが「必ず」と言っているのは、私達が短気で浅はかであるからである。 私達は、ちょっとのことで、すぐあきらめたり、失望したりする。現実の状況 が余りにも悪い場合、聖書のみ言葉を信じることが出来ずに、この世の言葉に 左右されてしまう。 このように私達は、常に、浅はかで短気である。 そのような私達の心をキリストご自身が開いて下さる。 45節。「・・・」 私達は、主によって心を開いてもらわないと、聖書のみ言葉を悟らないのである。 そこで、私達は、聖書を読む場合、主によって、私達の心を開いてもらう必要 がある。 これは、聖霊に導かれて聖書を読む、と言ってもよい。 聖書は、だれでも気軽に読むことが出来る書物である。 これは、聖書のいい点であろう。 しかし、聖書の言わんとしている所を、正しく聞き取るというのは、そんなに 易しいものではない。 私達の理性的な判断とは、全く違うという場合もある。 そこで、キリストによって、私達の心を開いてもらわなければならない。 そこで、聖日の礼拝の中で聖書を読むのが、最も正しい読み方であろう。 礼拝においては、聖霊の働きを祈りつつ、キリストによって私達の心が開かれ るように祈りつつ、み言葉を聞くのである。 さて、イエスは、聖書のみ言葉が必ず成就する、ということを弟子たちに教 えられた後、天に上げられた。 そして、残された弟子たちは、非常な喜びに満たされた、とある。 52ー53節。「・・・」 昇天というのは、イエスと弟子たちとの別離である。 人と別れる場合、そこには悲しみと寂しさがある。 まして、弟子たちにとって、イエスは絶対的なお方であった。 そのイエスとの別離は、弟子たちにとっては、果てしなく不安で、この上なく 悲しいことのはずである。 使徒行伝の記事では、弟子たちは、イエスが雲に隠れてからも、じっと空を見 上げていた、とある。 これは、イエスへの強い思慕の感情である。 しかし、ここでは喜びに満たされた、とある。 それは、ここでは、聖霊の降臨が先取りされている、と思われる。 49節に「・・・」とある。 この「約束されたもの」は、聖霊のことである。 そして、イエスはその前で、神の言葉は「必ず成就する」と言われた。 従って、聖霊が彼らに与えられるという約束は、間もなく成就する、否もう与 えられている、という確信から、彼らは喜びに満たされたのであろう。 しかし、実際にはまだ、約束のものは与えられていなかったのである。 現実の状況がいかようであろうとも、み言葉を堅く信じる場合、そこには喜び が支配する。 例え、現実の状況は、喜ばしいものでなくても、み言葉への信頼があるなら ば、そこには喜びが支配するのである。 アブラハムの生涯は試練の連続であった。 しかし、彼は神の約束を心から信じていたので、いついかなる時でも、喜びを もって神を賛美していた。 私達も、いかなる時においても、常にみ言葉を信頼し、希望を持ち、常に神 を賛美する者でありたい。 (1988年5月15日)