そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
私たちは確かに「安らぎ」や「休息する」ことを日々、必要としています。しかし、他方では、今の日本の豊かさが「休息」することを犠牲にして築かれてきたことも知っています。「過労死」という言葉は今や国際的に通じる日本語になってしまいました。一昔前なら、せいぜい、芸者や富士山ぐらいが外国人の知っている日本語だったのですが、今では日本人の特徴を表す言葉として「過労死」という言葉が翻訳されずにそのまま外国人の話題にのぼるようになっています。もちろん、問題はビジネスマンだけに限定されるものではありません。今の日本の教育の中で数多くの学生が学歴社会の縄目の中であえぎ苦しんでいる。しかし、それでも休むことなく、前へ前へと進むことを余儀なくされているのではないのでしょうか?私たちが持っているこのような現状の中で、聖書の言葉は私たちにどう休みなさい、安らぎなさいと言うのでしょうか?また、それが私たちの信仰とどのような関係を持つのでしょうか?そのことを今日は与えられたみ言葉から聞き取りたいと思うのです。
最初にごく簡単に言うと、安息日とはユダヤ教徒にとっての休みの日であり、その時にはほとんど一切の労働が禁止され、歩く距離さえも制限されるそのような日です。何も、意味なくそのような決まりができたのではなく、神の働きを思い起こし、感謝する日としてそのように定められたのでした。旧約聖書をお持ちの方は最初の1ページから2ページにわたる部分を見ていただきたいのですが、安息日の起源はこの天地創造の物語にあります。第一日目から順を追って神の創造の働きが記されています。そして、第七日目に神は創造の業を終えられて安息なされ、その日を聖別されたとあります。これが安息日の由来です。神が休まれた、だから、神に似せてつくられた人間も休むのだというわけです。忘れてはならないのは、安息日は六日間の労働の後の休日ではないということです。そうではなく、むしろ、創造の業全体が安息日のためになされたのです。神の創造の完成はどこにあるのか?神の安息の中にあるのです。神が安息されることによってはじめて、有限なこの世界が無限で永遠な神と共にあることになるのです。世界は神によって創造されるだけではなく、神の安息によって神の前に存在し、神とともに生きることができるのです。
聖書の中で求められてきた安息の場所は、神秘主義やギリシャ思想が常に主張してきたような彼岸とか天とか神そのものではありません。神の安息こそが、すべての安息とやすらぎの根拠となることを聖書は語ります。私たちを含む、この自然世界のすべてが神の安息の中に本当の支えを見出し、落ち着きを取り戻すことができるのです。世界は無から創造され、神の安息日のために、安息日に連なるように創造されたからです。もっとも、自然世界がいまだに真に安らぎの時を得ていないばかりか、かえって人間によって様々な滅亡の恐怖に脅かされていることは今日の環境破壊の例を引き合いに出すまでもありません。すでに、2千年もの昔にパウロはそのことをローマの信徒への手紙の中で語ろうとしています。被造物、神によってつくられたものが、いつか滅びへの隷属から解放されて、自由に満ちた安息の日が来ることを待ち望んでいると言うのです。
神による安息の必要性を聖書が繰り返し語っていることがわかったとしても、そもそも、その安息とは私たちにとって、どのような意味を持つものなのでしょうか?ゆったりとしたソファーに腰掛けて好みの音楽を聞くとか、都会の喧騒を離れてどこか山の中に引きこもるとか、あるいは、温泉にでも行ってのんびりするとか、そういうことを頭に思い浮かべることもできるでしょう。やっかりな責任や、わずらわしい人間関係から解き放たれて自由にのびのびしたいとは誰もが、ふと思うことではないでしょうか。もちろん、そのような願いも安息の一部であることには違いありません。ただ、聖書の伝統の中ではもう少し、積極的な意味合いがこめられています。安息日は、出エジプトと並べて理解されるべき神による解放の出来事なのです。エジプトで奴隷として苦役していたイスラエルの民がモーセの導きにより、そこから脱出していったというこの物語は、劇的な解放の出来事でありました。イスラエルの人たちが安息日を守るということはそのような出来事を単に忘れないように思い起こすということだけではなく、今なお、その同じ神が生きて働いていることを経験するという意味があったのです。日常の中にあって、日常を超越した神の介入をおぼえる日であると言うこともできるでしょう。いずれにしても、イスラエルの歴史は私たちに解放の二つの原型、つまり、出エジプトと安息日という二種類の解放のモデルを伝えています。そして、この二つを切り離して別々に考えることはできないのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエスは語ります。「だれでも」とは、一人残らず、例外なしに、ということです。イエスがくださるという「休み」をいただくのに、それにふさわしくないとか、十分な力がないとか言う必要は全くありません。都会の生活の中から「休み」を得ようと思うとお金が必要です。ホテルで休息し、温泉に行くのにはお金がかかるのです。現代人にとっては「休み」もお金で買わなければならないような一つの商品なのです。しかし、今、イエスが「休ませてあげよう」と言う休みは、誰も自分の手で、自分の力で手に入れる必要はありません。ここで、今まで話してきた神による休み、神による安息のことを思い起こして下さい。イエスが下さる休息は恵みであり、賜物です。天地創造の時に神が安息日を聖別されたように、イエスの下さる安息も神からの賜物なのです。この安息は人間の力によるものではありません。
しかし、そこにおいて、私たちがイエスのもとで取るべきものがあります。それは、イエスのくびきを負うことに他なりません。イエスが何をか引いて下さり、私たちがそれを横目に眺めているのではないのです。イエスの働きを客観的に観察し、それを頭の中に記憶することが信仰ではないのです。イエスと一緒にくびきを負い引いてゆくのです。イエスが私たちのすぐ隣にいてくださるから、私たちは第二のものとなって引いてゆけばよいわけです。一緒にくびきを負い、そして、「わたしに学びなさい」と言われます。何を学ぶのか?イエスの負っているそのくびきを、イエスの柔和な低さを学ぶのです。この柔和な低さは、いわゆる謙遜やへりくだりのポーズではありません。日本では社交儀礼として頭を下げることが多いのですが、形式的にへりくだり、自らを低くすることとは違うのです。機械的で杓子定規な、本音では何を考えているかわからないといった低さではない。この「柔和さ」ということを味わいたいのです。この柔和な低さはイエスの存在そのものです。そして、十字架の出来事こそ、最も愚かで、最も柔和で、最も低いのです。この低さこそ、真の神の姿であることを私たちは学ばなければなりません。今、このように低くなられた神と一緒にくびきを負うことが私たちの課題です。今、私たちが負っているものは、すでに神が私たちのとなりにあって負ってくださっているのです。そこに真の休みと安息があります。イエス・キリストによる安息です。
もし、私たちが信仰について何事か学ぼうとするならば、聞くだけでなく、知るだけでなく、隣にいて並んでくださるイエスを見て、そのくびきをともに負わなければなりません。主イエスが、聖霊がいつもともにいてくださるからといって、くびきが不要になるのではありません。私たちと主を結び、私たちが主の働きに連帯するために、ぜひ、必要なのです。イエスのくびきを負うことは難しいことではありません。また、そのくびきを負うことは荷を軽くします。荷を軽くするだけでなく、生ける神と私たちをしっかりとつなぎとめる働きをするのです。
(1992年6月14日、札幌北光教会、小原克博)