そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
その意味では、現在の日本は一昔前と比べると、随分、様変わりしました。平和な民主主義社会であると言えますし、ものもあふれています。色刷りのカードやクッキーも、みんな簡単に手に入れることができます。そのようなものを求めて教会に来る人もいません。教会の運営も実に民主的になされています。教会は社会的な奉仕に関心を持ち、社会問題に積極的に取り組んでいます。そういう意味でも、教会は民主主義社会の良き一員であり、模範的な生徒であるかもしれません。民主主義的なルールは教会にとっても必要な条件です。しかし、教会が教会であるための十分な条件ではありません。教会とこの世を区別しているものは一体、何でしょうか?その区別を知らなければ、「社会に開かれている教会」という言葉も、単なる言葉遊びに過ぎなくなるのです。
今日、読んだエフェソの信徒への手紙は異邦人の中にあるクリスチャンの生活について語っています。ここで、パウロは、異邦人の生活とクリスチャンの生活は根本的に違うのだということを強調します。異邦人の生活を言い表すのに、パウロは様々に手厳しい言葉を繰り出します。無知、心のかたくなさ、無感覚、ふしだらな行い。エフェソの信徒たちはこのような異邦人の生活からの誘惑を少なからず、受けていたのです。それに対して、パウロは、あなたたちは神によって新しく創り直されたことを忘れてしまったのかと言うのです。古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着けなさいと言うのです。
「社会復帰」という言葉があります。何らかの理由で障害を持った人たちがいます。その人たちが生きる上での目標の一つが社会復帰だと言うのです。もちろん、この社会復帰の基準とされているのは健丈者、つまり、普通と呼ばれる人の生活です。障害者はいわゆる「普通の人」になるべく近い生活ができるようにと叱咤激励されます。しかし、時として、「普通」になることが障害を持っている人にとって大きな重荷となることがあります。
パウロが語る「新しさ」やイエスが語る「命」、「よみがえり」は、あるべき基準や規格があって、それに合った生活をしなさいというのでは決してありません。そのままでいいのです。あるがままの姿でいいのです。障害を持ったままでいいのです。そこから、新しくされるのです。そのことが一人一人に働かれる神の新しい創造の業です。そのことをキリストにおいて結ばれ、キリストにおいて学んだはずなのに、それを忘れた生活をしているので、パウロは異邦人的な生活を区別し、戒めるのです。 私たちは自分自身が絶えず新しくされていなければ、人を本当にあるまがままに受け入れ、理解することはできません。自分の理想や、これが普通だ常識だというイメージを押し付けてしまうからです。親が子供に対する時、また、学校の先生が生徒に対する時、しばしば、このイメージの押し付けによって、規格にはめ込もうとすることによって、その関係は歪みを生じたものになりやすいのです。キリストによって新しい人となるとは、それら全てのことに対する挑戦の言葉です。
キリストによって新しくされる時、私たちは「夢」を見ることができます。ぺテロは使徒言行録2章17節以下で、預言者ヨエルの言葉を引用して次のように語ります。「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」。「若者は幻を見、老人は夢を見る」。神の霊によって新しくされることの喜びと約束がここでは語られています。私たちは自分の頭をひねって、新しくなることを考え出すのではありません。キリストが私たちに先立ち歩まれているということこそが、私たちの「新しさ」の唯一の根拠です。キリストが私たちの前におられないならば、私たちはただ衰え、朽ち果てていくばかりです。しかし、キリストが先立ち歩まれているならば、私たちはその後に従うようにと命じられているだけでなく、キリストによって新しく生きよと命じられているのです。私たちが体に障害を持ったり、あるいは、年をとって様々な機能が十分な働きをしなくなったとしても、主がみもとに引き上げてくださる、その日まで私たちはキリストによって新しくされつづけることができるのです。したがって、いついかなる時にも、私たちが夢を見、幻を見ることを奪い去られることはないのです。
(1992年7月19日、札幌北光教会、小原克博)