兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、「霊」に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです。御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
この傾向は、特に若い世代に見られるかもしれません。人に干渉されない自分だけの世界に閉じこもりたいと願うのです。これをカプセル化現象と言うそうです。電車の中でウォークマンで音楽を聞いている人はその典型的な例と考えられます。自分だけのカプセルの中に入ってしまっているわけですから、目の前に足の弱いお年寄りが現れようと、我関せずという一種、悟りの境地に達していることが多いようです。
もちろん、このような傾向は若者だけに限られるものではありません。また、そのような世の中と全く違う世界に教会があるのでもありません。教会に連なる私たちにも自分の殻の中だけで、み言葉を受け取ってしまうという危険性があります。信仰は個人的な問題だから、私なりに信じていればいいのであって、人からとやかく言われる筋合いのものではないと考えます。信仰は私個人の問題だから、よけいなおせっかいはやめてくれと言いたくなるのです。
その意味では、このガラテヤのへの手紙を書いたパウロという人は随分、おせっかいな人でした。彼は自分が何か言えば、いやがられるということがわかっているにもかかわらず多くのことを語るのです。そのパウロの手紙の一部に今日は耳を傾けたいと思います。
今、読んだ聖書の箇所の1節から6節までで、パウロは二種類の命令を語っています。一つは、万一だれかが何らかの罪に陥ったなら正しい道に立ち帰らせなさいと命じます。2節にある「互いに重荷を担いなさい」ということです。もう一つは「自分に気を付けなさい」、「自分の行いを吟味しなさい」ということです。それは、5節にある「めいめいが、自分の重荷を担うべきだ」という言葉に要約されます。互いに重荷を担うということと、自分の重荷を担うということ、この二つを合わせて、「キリストの律法を全うする」ということを語るのです。人のことに口出しばかりして自分のことを忘れるのでもないし、自分のことにのみ関心を持ち、人が何をしようとかまわないというのでもありません。そうではなく、この二つのこと、つまり、個人的な責任と共同体的な責任の二つが同時に成立するところに「キリストの律法」という形式が整えられます。隣人に対する配慮や援助は、助ける人が自分自身の欠点と弱さに気付いて、自分自身への責任を忘れないところでのみ成立します。その時にはじめて、1節にある「柔和な心で」という意味を知ることができます。この柔和さとキリストの律法という言葉は強く結び付いています。パウロが激しく批判するところの、いわゆる律法は厳格であること、杓子定規にでも筋を通すことを要求します。しかし、キリストの律法は柔和さを要求します。
6月14日の説教で「キリストによる安息」という題でイエスのくびきの話しをしました。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。その時に話したのは、私たちにはキリストのくびきが必要である、それによって私たちが神と結ばれているからだということでした。しかも、私たち一人一人が別々にキリストに結ばれているのではなく一つのくびきに結ばれているのです。「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」というイエスの呼びかけの中でも、私たちは、あのイエスの柔和さを学ぶことを求められていたのでした。イエスのくびきは、ここでは「キリストの律法」という言葉に確かに対応しています。
パウロは異邦人に割礼を受けさせることに徹底して反対しました。割礼という律法的しるしを受けることによって神の前で義とされようとするならば、キリストとは何の関係もない者となってしまうと批判しました。ルターが宗教改革の発端をつくったのは、カトリック教会が発行する免罪符に対する批判でした。免罪符を買えば罪が免ぜられ、天国行きに近くなると当時のカトリック教会は言うのでした。天国に行くか地獄に行くかを人間が取り仕切り、罪の割引を人間がするようになったそのことにルターは律法主義の危険な働きを見たのでした。
何かに熱心に励むことによって、時にはお金をささげ、時には身を粉にして働くことによって、人は安心を得ようとするのです。それは、いつの時代もあります。せっせと人殺しに励むことで、あるいはそのことのために祈ることで、そこに神の栄光があらわれているのだと、その信仰に酔いしれた瞬間が人類の歴史の中で一体、何度、あったことでしょうか。イスラム教徒撲滅のために駆り出された十字軍はその典型的な一例です。また、宗教改革者ルターを生み出したドイツにおいても、同じ様な熱心さが繰り返されました。第一次世界大戦に破れ、疲労困憊していたドイツに救世主のごとく現れた一人の人は、国民に大いなる救いの希望を与えました。その人の言うことを聞いて一生懸命働けば、国はやがて世界を支配する神の国にもなるだろうと人々は信じたのです。ナチスによるユダヤ人殺害も神の栄光を身近に感じながらなされたのです。すべての殺戮と破壊は異常なまでの熱心さの内に遂行されました。なぜか?それは、一人の人、アドルフ・ヒトラーが神のごとき存在とされ、彼は神の国をもたらすと信じられたからです。
8月15日の翌日の今日、私たちは今、ここで礼拝を持っています。かつての日本はどうでしたか?その時、教会はどのような祈りを捧げましたか?国の勝利を願わなかったですか?敵国の人々を打ち滅ぼして、自分達の国に神の栄光があらわれるようにとは祈らなかったですか?一人の人が神とされたことはなかったですか?今、神とされていることはないですか?死んだ人々が神々とされることはないですか? これらすべてが律法主義的熱心と関係があるのです。人が神となり、人が人以下の者にされてしまう律法主義的危機は、過去の時代に閉じこめられるものでも、教会の中だけで語られてそれで終わるもので決してありません。
それと同時に、人間とは徹底して律法主義的人間であることを知らねばなりません。誰もが何にも拘束されず、自由奔放に生きたいと願います。しかし、そうすれば、皮肉なことに、必然的に、私たちの生き方は律法主義的なものになるのです。自分を神とするか、あるいは、人やもの、自然や運命を神とするか。それによって安心を得ようとするのです。しかし、そこでは決して、互いに重荷を担うということはできず、また、自分の重荷を担うことすらできないのです。
私たちが律法主義的な生き方にころがり落ちていかないために、私たちをつなぎとめ、結び付けてくれる何ものかが必要なのです。その何ものかがない私たちを一体、何にたとえることができるでしょうか?私たちは、糸の切れた凧です。自由だ自由だと叫びながら、行き先も知らずに風に流され、そして、最後には地上に打ちつけられる凧です。しかし、もし、私たちをしっかりとつなぎ留めるものがあるとしたら、風を一杯に受けて空高く舞い上がることができるでしょう。私たちの人生が張りのあるものとなるために結び付けてくれるもの、それがキリストの律法であり、キリストのくびきです。それは、行いか信仰かという不毛な二者択一を越えています。なぜならば、キリストへの信仰の内に、私たちはそれに応えることの誠実さと、その信仰をどのように表現しているかということを絶えず問われているからです。それは、また、当然、時代の持つ律法主義的危機を鋭く見抜くことを要求します。
キリストの律法を全うするということ。それは、人が神となることを拒絶し、人が人以下のものになることを拒絶します。人が真に人となることがそこでは求められているのです。それら一切のために、神が人となったのです。神がその独り子をお与えになったのです。それこそが、私たちの信仰の出発点です。その出来事を受けた私たちは、キリストの律法を全うすることによって神を真に神とし、また、まことの人となるようにと命じられているのです。
(1992年8月16日、札幌北光教会、小原克博)