イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
しかし、神と出会い、神が運命の根幹となってしまった人間に対して、また、次のような問いが投げかけられます。それは、あのヨブの嘆きに似ているかもしれません。「何故に神は?」、「何故に神はそういうことをなされるのか?」という問いであります。ヨブは彼の体験と苦悩のすべてを神に結び付けざるを得なかったので、彼の悩みはいっそう深遠なものとなったのでした。たとえば、病気そのものは悪しきものであります。しかし、なぜ神はそれを許したのかという問題を片づけなければならない人は、もっと重い重荷を担わなければならないのです。また、愛するものが苦しむ姿を前にして、人は神へと切実な祈りを捧げます。しかし、なおも沈黙のみが重くのしかかるとき、我々はいったい神とどのように渡り合っていけば良いのでしょうか。私たちが今読んだ聖書のテキストの中にも、悪霊にとりつかれて苦しんでいる娘とともに苦しむ母親の姿を見ることが出来ます。
この名もない婦人の上に、突然とイエス様の目が注がれます。イエス様は彼女に驚くべき言葉を告げます。「あなたの信仰は見上げたものである」と。彼女が一体何をしたというのでしょうか。彼女はイエス様に出会い、その手を差し伸ばしたに過ぎません。しかし、私たちはイエス様とこの名もなき女性との間で交わされたやりとりの中に、神の沈黙とその克服に関する重要な手がかりを見ることが出来ます。
そもそも、この女の人はどのようにしてイエス様のみもとにやってきたのでしょうか。聖書には単に「その地方出のカナンの女が出てきて」としか記されてはいませんが、彼女の仲間達が抱いているナザレ人に対する偏見を考えに入れるならば、彼女がイエス様のみもとに来るまでには越えなければならなかった数々の障害が予想されるのです。おそらく、彼女はイエス様のことを人づてに知っていたに過ぎないでしょう。そういった人の噂というものは当てにならないことを我々も知っています。もしかしたら、彼女の苦労はまったくの失望に終わるかもしれない。にもかかわらず、彼女はあえてその冒険を試みたのです。もし彼女が家に娘と共にとどまり、ただイエス様の噂を垣根越しに聞くようなことをしていたならば、イエス様は決して彼女の救い主とはならなかったでしょう。彼女はイエス様の恵みの中にはいることなく、押し迫る静寂と沈黙の中で、希望のないままに終わってしまったことでしょう。
同じことが、我々にも言えます。私たちがこのナザレ人のもとに行くためには二千年という月日を乗り越えて行かなければなりません。聖書が伝えようとするイエス様の姿に近づくために、私たちの前には気の遠くなるほどの距離と、気の遠くなる時間とが横たわっているのです。
私たちは、このカナンの女と同じくらいの切実さを持って天に慰めの言葉を求めることがあります。打ちひしがれた絶望の中で、大切なものが無に帰するような危機の中で、神の御心を知ろうと欲するのです。どうして私をお見捨てになるのですか。私たちは、生き、悩み、苦しみ、無に帰していきます。これらすべては、沈黙した天の下で行われ、天はそれについて何も語りません。現代において、私たちは出きる限り沈黙の恐怖から逃れようとします。都会の喧噪の中に身をさらすことによって沈黙の意味を避け続けようとするのです。あるいは人生の無情にさいなまされる時、その沈黙の隙間を埋め合わせてくれるような様々な考え方に我々は頼ろうとするかもしれません。占い、姓名判断などから、はたまた、先祖の因縁にいたるまで、実に様々な種類のこの世の知恵が私たちの苦痛を癒そうと待ちかまえているのです。神の沈黙に耐えるとはなんと難しいことでしょうか。
神の沈黙は人の沈黙とは異なります。イエス様が船の中で眠り、沈黙を保っている時も、イエス様の思いは嵐の激しさに信仰を忘れてしまったような弟子達に深く及び、その救いの御手は弟子達が考える以上に彼らの近くにあり、そしてその一人一人を捉えていたのでした。イエス様は嵐にたいしてただ超然としておられたから沈黙されていたのではありません。我々の理解が及ばないところでなされる沈黙。しかし、それは決して運命的な沈黙ではないのです。その事を、このカナンの女の人は知っていました。それ故に、彼女はイエス様の前に差し伸ばした彼女の手をイエス様の沈黙にも関わらず、引くことをしなかったのです。
「主よ、お言葉どおりです」。あなたが沈黙され、私を拒絶し、私を見過ごしにされるのはもっともなことです。あなたは私の傍らを過ぎ去る当然の理由をお持ちです。私はあなたに対していかなる要求もすることは出来ないのです。
彼女のこの言葉には、私たちが聞かなければならない大きな意義が隠されています。神に救われるのは決して当たり前のことではないということであります。私たちはいつのまにか、神の恵みは当然のものとして私たちに投げ与えられていると思いこんでしまってはいないでしょうか。神の恵みは何物によっても要求することは出来ません。イエス様には私たちを救わなければならないいかなる義務も負い目もありません。教会に日曜ごとに神様を賛美しに集う私たちは、このように問うかもしれません。私たちは救いへと約束されているはずではないか。もし、私たちが神に向かって私たちの救いを当然の権利として要求し、教会に集う私たちこそがその救いにふさわしいと考えるならば、まだ、私たちは神の沈黙の奥深さにふれていないのかもしれません。
カナンの婦人はさらに言葉を続けます。「でも、子犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。この「でも」という言葉は、明らかにその前にある「主よ、お言葉どおりです」という言葉に矛盾します。たとえ愛がその沈黙の背後に隠されようとも、このカナンの女性は通り過ぎようとするイエス様に必死に追いすがろうとします。彼女は自分がイエス様の恵みに値しないことを十分に承知しています。しかし、なおも彼女はイエス様に問い続けるのです。あなたは、すべてを断念した人を前にして本当に平気でいられるのですか。あなたのあふれるばかりの恵みのほんの一部にでもあずかりたいと願う人を置き去りにして、そんなにも簡単に通り過ぎていくことができるのですか。イエス様はそうはなさいませんでした。かえって祝福を彼女に与えたのでした。
(1992年8月30日、北海道盲人キリスト信仰会修養会、小原克博)