メシアの苦しみと私たちの慰め


使徒言行録 3:17―26

 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています。あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」


十字架につけられた神

 この使徒言行録という書物は最も初期のキリスト教の伝道活動の様子を書き記したものです。「ところで、兄弟たち」と呼び掛け、説教しているのはペトロです。エルサレムの神殿でユダヤ人に向かって説教しています。一七節で「あなたがたがあんなことをしてしまったのは」と語っている「あんなこと」とは、少し前を読めば分かる通り、イエスを十字架につけて殺してしまったということです。使徒言行録に限らずパウロの手紙なども含めて、聖書の中で一貫して主張されているのはイエスの十字架です。そのイエスこそが救い主である、メシアであると聖書は語っています。

 救い主について語る宗教は、現代と同じ様にその当時もたくさんありました。しかし、当時、ナザレのイエスが救い主であると説く宗教は当然のことですがキリスト教だけでした。しかも、その救い主が十字架につけられた人物であるというのは当時の人々にとっては全く理解し難いことでした。そのことをコリントの信徒への手紙一の一章二三節においてパウロが次のように表現しています。「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが」。十字架につけられた救い主を宣べ伝えることは全く、つまずかせるものであり、愚かなものだったのです。

 それは何も二千年も前の、あの地域に限ったことではありません。キリスト教がアジアに伝えられた時もやはり、同じ様なつまずきや驚きがありました。日本にはフランシスコ・ザビエルなどが最初にキリスト教を伝えたのですが、彼は日本に来る前にインドにしばらく滞在しており、そこでの宣教師たちの記録を今でも読むことができます。インドはヒンズー教が支配的でたくさんの神々が信じられていました。そのような環境では他の神様を知らされるというのにはあまり抵抗はなく、むしろ、より立派な神様がいればいつでも乗り換えたいと思っているのです。そこで宣教師たちがインドの王様に、唯一の絶対的な神様を教えますと言えば、王様は目の色を変えるわけです。しかし、どうも言葉で聞いてもよくわからないから、キリスト教の神様を見せてくれとなります。そこでカトリックの宣教師たちが見せたのは十字架につけられたキリストの像です。インドの王様はびっくり仰天してしまいます。世界で一番立派な神様が十字架につけられているとは何事か。インドで立派な神様というと、その様々な力を表すために手がたくさんあるとか、顔がたくさんあるとか、そういった神様なのに。まさか神様が十字架につけられているとは!

 このような話はインドに限らず、他のアジアの国々でも聞くことができるでしょう。十字架はユダヤ人とギリシャ人にとってつまずきであるばかりではなく、アジアの人間にとっても同様につまづきを与えるものです。アジアの文化に生きる私たちにとっても十字架につけられた神というのは全く異質なものですし、それは驚きです。それは場合によっては愚かなものと映ったかもしれません。それにもかかわらず、教会はアジアでも十字架をかかげています。この北光教会も建物の一番てっぺんに十字架を立て、正面の壁にも十字架が掛かっています。この十字架はこの建物が消防署でもなく警察署でもなく、教会であるということを示すための単なる目印でしょうか。もちろん、それ以上の意味があります。この説教台のすぐ後ろにも大きな十字架が掛かっています。これを見ないで礼拝堂にいることはできません。また、ここで説教する者は自分の後ろに十字架があることを意識しないで語ることはできないのです。

預言の成就

 ペトロもここで自分の人生の中で決定的な意味を持ったイエスの十字架の出来事を語っています。しかし、ペトロが語るのはそのメシア・イエスの苦しみが何か突然の出来事として起こったのではなく、それは神があらかじめ預言者を通じて知らせていたことだというのです。二四節では「預言者は皆、今の時について告げています」と言っています。旧約聖書にはモーセをはじめとして多くの預言者の言葉が記されています。大胆に神の義を説いたイザヤ、苦難の預言者と言われるエレミヤ、黙示的表現の中に神の超越的働きを語ったエゼキエル、愛の預言者アモス。預言者の一人一人がそれぞれの立場から神の働きについて語ります。いろいろな角度から、神の働きについて光を当てています。そしてペトロがそれらすべての預言者が今この時のことを語っていたのだと言う時に、イエスこそがそれら預言者たちを集大成した人物であるとも言えるわけです。イエスにおいて様々な預言者たちの思想が一つに結実した、受肉したとも言えます。その意味では、旧約聖書を読まないとイエスという人物を立体的にとらえることは難しいでしょう。もし、預言者的伝統を無視すれば、イエスを歴史の中で忽然と現れた孤立した人物として見てしまう危険性があります。

 ペトロは彼が説教しているユダヤ人と同じ立場にありました。彼もイエスを裏切り、十字架へと追いやった一人だからです。ペトロはたとえ死ななくてはならなくてもイエスを知らないとは絶対に言いませんと約束しました。しかし、彼はイエスが予告したように三度、知らないと言って裏切りました。イエスが十字架を背負ってゴルゴタの丘へと登ってゆく時にペトロにはイエスの苦しみの意味は全く理解できませんでした。しかし、今、ペトロが一八節で「メシアの苦しみ」について語る時に、彼はおそらくイザヤ書五三章の苦難の僕の姿を思い浮かべ、その神の僕の徹底した低さの中にこそ神の本当の働きが隠されていたことを知るのです。イエスの苦しみが神から見捨てられた結果としてではなく、まさにそこに神がともなわれていたことをペトロは伝えようとするのです。ペトロはパウロのようにそのことを神学的に体系立てて説明することはできませんが、その時にはただ泣き叫ぶことしかできなかった十字架が、今は彼に大きな慰めとなっている、そのことを同じユダヤ人にも伝えようとします。

慰めとしての悔い改め

 ペトロがエルサレムの神殿でユダヤ人に求めているのは、悔い改めて神に立ち帰れということでした。「悔い改め」という言葉は聖書にはよく出てきます。イエスの伝道の最初の言葉も「悔い改めよ。天国は近づけり」という内容のものでした。しかし、「悔い改め」というのはわかるようで、わからない言葉です。よく日本の政治家が使う「深く反省する」という言葉や、天皇が使う「遺憾に思う」といった表現ともかなり意味合いが異なります。これらの日本語は発言された後で、一体、本当に反省しているのだろうか、謝罪の気持ちがこめられているのだろうかとジャーナリズムの解釈に委ねられたりするわけです。意味がどうもはっきりしない、緊張感のない言葉として受け取られがちです。ペトロがここで語り、聖書が求める悔い改めとは、はっきりと神に向き合うことを要求します。今までは無知の故に気付かなかったが、人々の拒絶の中にあっても貫かれている神の支配にはっきりと目を向けるようにと求めているのです。

 もちろん、悔い改めたからといって、イエスを殺したという事実がかき消されるわけでもありませんし、罪が免じられるわけでもありません。罪をゆるしてもらうために悔い改めるという取り引きは成立しません。悔い改めるごとに徐々に罪が減っていくというのなら話しは簡単です。一度悔い改めて罪が九十パーセントになり、二度目には八十パーセントになるという具合に、やった分だけ変化があれば帳尻が合い、納得がいくのですが、どうも聖書は帳尻あわせがきらいです。いかに反省し、考え直したところで人間はまるごと百パーセント罪人のままです。宗教改革者ルターは「人は義人にして同時に罪人である」と言いました。この「同時に」というのが大切です。どうあがこうと百パーセントの罪人が、同時に百パーセントの義人ともされるのです。イエスが「あなたの罪はゆるされた」と言われた時、罪の半分くらいをゆるし、残りの半分はまた次回にでもと考えられたのではありません。そこでは確かに百パーセントゆるされているのです。悔い改めるとは何の値引きもなしに百パーセント罪人である自分を認めることです。しかし、それは百パーセント神の前に義とされる希望を持ってなされるのです。

 イエス・キリストの父なる神は天上に座して、地上にある人間の運命の糸をあやつって高見の見物を楽しんでいる神ではありません。人間の罪を割り引くことなく、イエス・キリストとともに引き受けられました。天地創造の時に神は創造の一つ一つの段階で「それを見て良しとされた」と創世記に記されています。たとえ神を拒み神に反逆するような罪人であっても神は「良し」とすることができます。たとえ自らが変わり果てようともそのことを成し遂げようとする神の決意が預言者イザヤにおいて暗示され、そしてイエス・キリストにおいて成し遂げられたのでした。そこに愛があります。神の真実の姿があるのです。そのような神の人間に対する絶対的な誠実さ。この神の誠実さこそが私たちの慰めの拠り所になるのです。

(1992年11月15日、札幌北光教会、小原克博)