わたしに答えてください。律法の下にいたいと思っている人たち、あなたがたは、律法の言うことに耳を貸さないのですか。アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。これには、別の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガルです。このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。
「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
喜びの声をあげて叫べ、
産みの苦しみを知らない女よ。
一人取り残された女が夫ある女よりも、
多くの子を産むから。」
ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あの時、肉によって生まれた者が、しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
自由になりたい。聖書も自由ということについて語ります。自由になれと命じます。しかし、日本の社会で伝統的に考えてきた自由と聖書の中で語られる自由との間には大きな違いがあります。日本人が精神的な自由を考える時によく言われるのは「悟り」ということです。一切の煩悩から解き放たれて、この世の出来事・現象に心を騒がすことなく真理を会得することとでも言えるでしょう。宗教だけでなく日本にある多くの「道」とつくものの中にはこのような悟りの精神が見受けられます。柔道、剣道といった武道から、茶道、華道にいたるまで悟りの境地が語られます。閉じられた静寂の中に美を感じるのです。悟りは何も禅仏教だけの専売特許ではなく、私たちは無意識のうちにそのようなものを求めたり、実践したりしています。以前にも話したことがありますが、ウォークマンの音楽に聞き入る若者はその一例です。
誰もが自由でありたいと思う。しかし、他人にも自由を認めなければならないとなると、自分なりに自由の持ち方を工夫しなければなりません。その工夫の一つが自分だけの空間を作るということであり、一種の透明カプセルの中に閉じこもろうとする傾向になって現れてきているようです。今日の新興宗教のほとんどがそのような性格を備えて、若者の要求に応えています。そこでは神と自分とが直接的な一体感を味わうことができるプライベートな空間が用意され、自らも神秘的な力を得ることができると信じられます。自分だけの空間に引き篭っている限り誰もその自由を妨げるものはいないのです。
一口に自由と言ってもいろいろな形があります。ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは、彼にとっての決定的な自由について語っています。キリストによってもたらされた自由を説明するのに、今日の聖書箇所ではアブラハムの家族の話を用いて説明しています。
パウロはこの二人の女性サラとハガル、そして二人の子供イサクとイシュマエルとを非常に対比的に描き、現代の感覚からすると少々差別的な感じすらするような表現を用いていますが、パウロはハガルが奴隷だという理由からそのように強調しているわけではありません。むしろ、強調点は神の約束によってサラがイサクを生んだという点にあります。
パウロはこのガラテヤの信徒への手紙をおよそ二千年前に書いているわけですが、アブラハムの物語はそのパウロからもさらに二千年前の出来事です。パウロは神の約束ということが果たす大きさを何とか知ってもらおうと、当時誰もが知っているこの物語を新しく解釈するのです。アブラハムとイサクそしてキリスト者は神の約束によって生まれた、そのことの故に同じ線上に立っています。神の約束は決してすぐ納得のいくようなものではありませんでした。アブラハムは神の声に従って故郷の家族を捨てて、まだ見たこともないカナンの地へと旅立たねばなりませんでしたし、年老いたアブラハムとサラに子供が生まれるということも信じ難いことでした。また、念願の息子イサクが生まれたかと思うと、神はそのイサクを犠牲のいけにえとして捧げなさいと命令するのです。前途洋々たる約束と言うよりはむしろ理屈では理解できないような約束や命令がアブラハムとイサクに語られたのでした。アブラハムは信じ難い約束をも信じ、それに従順であったように、キリスト者も与えられた約束を安易に受けとめるのではなく、その約束に固くとどまりなさいとパウロは語るのです。
二九節に「あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています」とありますが、何かローマ帝国か、ユダヤ教が教会に対して組織的な迫害をしていたわけではありません。そうではなく、パウロが警戒している敵は教会の中にいました。ガラテヤの教会では新しくキリスト者になった人に対して律法の中で定められていた割礼を強制しようとしていました。律法へ逆戻りしていたキリスト者たちへの反論がこのガラテヤの信徒への手紙の中で一貫して述べられています。パウロは教会の中に蔓延しつつあった律法主義に対して、キリストはこの律法から私たちを自由にして下さったのではなかったのかと問うのです。
日本の教会も例外ではありません。アメリカの禁欲主義とともに伝えられたプロテスタント教会では初期の時代から暗黙の規律と言ったものが存在していました。禁酒・禁煙はその一例ですが、あれはしてはならない、これをしてはならない、このようにすべきだという様々な形の規律がキリスト教信仰とは独立した存在感を持って日本風にアレンジされながら教会の中で育まれていったのです。この一週間ほどはクリスマス讃美礼拝の問い合わせが頻繁にありましたが、決まって聞かれる質問がありました。「教会には普通の人でも行けるのですか?」という質問です。おそらく、教会は普通の人ではない特別な人の集まりとして見られているのでしょう。まだまだ、教会の敷居は高いようです。
教会は実際は実に雑多な人間の集まりです。決して画一的な善男善女の集まりではありません。生まれたての赤ちゃんから年配の方まで幅広い世代から、また、様々な社会的背景を持った人々がこの教会にはいます。お互いが自分の自由を勝手に主張し出したら、あるいは自分流のやり方に人をあてはめようとしたら、たちまち衝突が起きます。では、衝突を避けるためにそれぞれが自分の信仰的「悟り」の中に居座るべきなのでしょうか。聖書が語る自由とは決してそのような個人的で内向的な自由ではありません。聖書が語る自由はいつも教会という共同体を意識しています。真の自由は神の民として、新しいイスラエルとして実現される共同体的な自由です。それは今はまだおぼろげにしか見えないものですが、私たちが個人主義的な自由の主張へと逃げ込むことに絶えず警告を発しています。私たちがもし自由を語れるとするならば、それはキリストによる自由です。キリスト・イエスはその生涯において隣人と徹底的に関りを持ちました。そして、すべての隣人の罪を引き受けて十字架につけられたとするならば、イエスの復活によってもたらされた自由は決して自己満足的な自由ではなく、かえって、人と人との関りの中でこそ実現される自由であるはずです。
イエスがもたらす共同体的な自由は必然的に自分自身の過去からも自由であることを要求します。聖書は律法からの自由、罪からの自由、死からの自由を語りますが、それらはまとめて言うならば、古い自分からの自由です。私たちはは慣れ親しんだ自分のやり方にとらわれ、自分の罪にも気付かず、死ぬことを恐れる存在です。そういった古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着なさい(エフェソ四・二二−二四)と聖書は語ります。そのような自由への約束を私たちはキリストによってすでに受けているからです。この約束された自由への喜びを宗教改革者ルターは『キリスト者の自由』という文章の冒頭で次のような二つの命題にまとめました。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する」。
一九九二年をあと数日残し、私たちは煩悩に思い煩う必要はありません。私たちはすでに自由にされています。大胆にその自由を行使すべきです。何人にも従属しない自由人である私たちが、すべてのものに奉仕する僕として何をすることができるのか、そのことを神の前に感謝して問いつつ新しい年を迎えたいと思います。
(1992年12月27日、札幌北光教会)