人の言葉と神の言葉


テサロニケの信徒への手紙一 2:13―16

このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。兄弟たち、あなたがたは、ユダヤの、キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちから苦しめられたように、あなたがたもまた同胞から苦しめられたからです。ユダヤ人たちは、主イエスと預言者たちを殺したばかりでなく、わたしたちをも激しく迫害し、神に喜ばれることをせず、あらゆる人々に敵対し、異邦人が救われるようにわたしたちが語るのを妨げています。こうして、いつも自分たちの罪をあふれんばかりに増やしているのです。しかし、神の怒りは余すところなく彼らの上に臨みます。


語る人と語られる言葉

 新約聖書には二七巻の書物がありますが、その中でもテサロニケの信徒への手紙一は最も早くに書かれたものとされています。パウロは紀元後の五〇年ころにテサロニケで伝道し、そこにクリスチャンの集まりを生み出しました。この手紙はパウロがさらに伝道旅行を続けてコリントに達した時に、まだ去って間もないテサロニケの信徒の人々にあてた手紙です。テサロニケという町は当時のローマ帝国の領土であったマケドニア州の首都でした。今で言うところの大都市にあたるような存在で、現在のギリシアの中でもアテネに次いで二番目に大きな町です。そのようなテサロニケですから、そこには実に様々な人種、宗教、文化が渦巻いていたと考えられます。

 キリスト教の伝道の始まりはユダヤ教の会堂を中心としたもの、つまり、ユダヤ人を中心とした伝道でした。しかし、パウロが目指したのはユダヤ人以外にもイエス・キリストを宣べ伝えることことでした。聖書ではユダヤ人以外の人々をまとめて異邦人と呼んでいますが、パウロはこの異邦人伝道を生涯の目標として伝道旅行を続けたのでした。その意味でテサロニケにできた教会は最初の本格的な異邦人教会であったわけです。もちろん、そこでの出発は楽なものではなく、今日の聖書箇所の二章一四節に記されているように同じテサロニケに生きる他の人々から迫害を受けたことがうかがえます。パウロの語る言葉を受け入れ信じたために彼らは苦しい目に会わなければなりませんでした。一体、パウロの言葉を異邦人たちはどのように受けとめたのでしょうか。

 その前に私たちが礼拝の中で語られる言葉をどのように受けとめているかを考えてみましょう。すでに長く教会にいる方々は多くの説教者の話を聞いてきたことでしょう。あの先生の話はわかりやすいとか、あの先生の話は世間話に過ぎないとか、人によっていろいろな印象があることも事実です。あるいは、このような感想を述べることもできます。「あの先生は非常にいい話をするのだけど、行動がともなっていない。言うことと、することとが一致していない」。つまり、普段、接する中で何かつまづく点があると、あの先生は行動がともなっていないから、いくらいい話をしてくれても何か信用できないと考えてしまいます。

 もちろん、生活のあらゆる面で落ち度のないことは理想的です。特に、日本人は人間の言葉と行為の一致を強く求める伝統を持っています。それは西欧の考え方と比較する時に明らかになります。いくつかの例をあげます。フランス人のルソーという人は『エミール』という理想的な教育論を書きました。それは教育論としては一種の古典的名著となって現代でも読み継がれていますが、実際、ルソーという人はかなり放蕩な私生活を送っていたらしく、生前からそのことは有名でした。しかし、それで『エミール』という書物の価値が下がるわけではありませんでした。書かれた本と書いた人とは別のものと考えられるのです。また、二〇世紀最大の神学者の一人としてパウル・ティリッヒという人がいますが、彼も同じ様なエピソードを持っています。そのエピソードは彼の妻によって彼の死後、暴露されたものですがそれはこういう話です。彼が晩年に『組織神学』という大きな書物を書いている時、一章を書き上げるごとに次々と若い女性のところに行っては活力を得てきたと言うのです。もちろん、ティリッヒの書いた書物は今も広く読まれています。

 今、あげた二つの例は少し極端な例ですけれども、西欧においては言葉はその人の行為や人格とは区別して考えられてきたことがうかがえると思います。日本的に言葉と人格を一致させるのと西欧のように両者を区別するのとどちらがいいのかというのが問題ではありません。そうではなく、私たちには無意識に言葉と人格とを一致させようとする傾向性があるということをまずは知っておく必要があります。

人と神の領域

 ここで、今日の聖書箇所にもう一度、目を向けてみたいと思います。最初にパウロはテサロニケの信徒に対する感謝の言葉を述べています。そして、このように理由を述べるのです。「なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」。テサロニケの人たちはパウロたちの言葉を神の言葉として受け入れたと言うのです。これは、テサロニケの人たちがパウロたちを神のごとき存在として信じたということではありません。様々な悩みと矛盾を持った生きた人間であるパウロが語った言葉は紛れもなく人間の言葉です。百パーセント人間の言葉に違いありません。しかし、それをただ語られては過ぎ去ってゆく人間の言葉としてテサロニケの人々が聞いたのではなく、まさに永遠の命を約束する神の言葉として理解したのでした。人間の言葉を全くそのまま同時に、神の言葉として受け入れたということです。

 私たちも非常に自分の関心に合った話を聞いたり、耳ざわりの良い感動的な話を聞いたりすると、これは神が説教者を通じて自分に語って下さったものだというふうに感じるでしょう。これは確かに神の言葉だと思ったりします。しかし、他方、どうもピンと来なかったり、自分に具合の悪いことが語られるとこれは神の言葉ではなく、ただの人間が語っている言葉に過ぎないのだと思いたくなります。同じ説教が自分の都合次第で神の言葉になったり、人間の言葉になったり、あるいは、ここからここまでは感動したから神の言葉であり、あとは人間の言葉だというふに色分けしたりします。こういった考え方はイエス・キリストをどこまで人間でどこから神とするかという議論に似ています。ある人々はイエスは半分は人間で、半分は神だと考えましたし、また、ある人々はイエスは完全に神であるから肉体を持った人間ではなかったとさえ考えました。今、私たちはイエス・キリストをどのように告白するでしょうか。まことの人にして、まことの神。それが私たちの信仰の告白です。同じことが説教に関しても言えるでしょう。神の言葉と人間の言葉という線引きしようとすれば、私たちは結局のところ自分に都合の良いようにしかメッセージを受け取ることができないでしょう。自分を肯定してくれる言葉しか受け入れなければ、私たちに「新しさ」はありません。いつも同じ自分、古い人のままです。テサロニケの人々はパウロの言葉を神の言葉として受け入れました。それによって彼らは迫害の危機をも引き受けることになったのです。しかし、彼らはそれによって全く新しいものとされる喜びを教会の中で味わっているのです。

生きて働く神の言葉

 私たちも人間の言葉を神の言葉として受け入れることのできる教会でありたいと思います。語られる言葉の根拠は説教者にあるのではなく、神にあります。それによって、私たちは人を神とすることなく、神の言葉を受け入れることができます。逆に言えば、神の言葉とは何かということを十分に知ることにより、人を神とすることを防ぐことができるのです。戦争中の教会の反省点はまさにこの点にあると言えます。一人の人を神としてしまった。言葉と人格とが緊張感なく癒着している伝統を利用して、国民を従わせる神聖な言葉を作り出すために人間が神として信仰されたのでした。そういった危機を神の言葉は本来、見抜く力を持っているのです。それをヘブライ人への手紙四章一二節は次のように語っています。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。

 神の言葉という以上、それは一人一人の個人に向けられているだけでなく、教会という共同体の中ではじめて本来の意味を持ちます。それが神の言葉が生きて働くということの意味です。今日の聖書箇所では一三節の後半においてこのように記されています。「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです」。しかも、イザヤ書五五章一一節にあるように、それはむなしくは神のもとには戻らない言葉です。必ず実りをもたらす言葉です。パウロはテサロニケの教会がユダヤの教会と同じ様に迫害されていることを、両者の信仰的なつながりにおいて見ています。それぞれの苦難の中で教会という一体感を確認し、そして、その苦難を共同体として引き受けているところに、神の言葉が生きて働き、実りをもたらしていることを示しているのです。

 現代において私たちは特別な迫害を経験することはなくなりましたが、この時代特有の苦難というものがあります。また、個人の生活の中では誰もが大小の苦難を負っているでしょう。個人的な信仰の中で自分一人の力でそれに立ち向かおうとするならば、どのような信仰者であってもいずれは疲れ果ててしまいます。そのような時、神の言葉を受け入れる教会があるということは大きな慰めです。その言葉を私たちは共有しています。テサロニケの教会では、すでに死んでしまった人は終末の時に一体どうなるのかという心配をしていたのですが、パウロによれば私たちが神の言葉につなぎとめられている限り、生きているとか死んでいるとかというのは問題とはならないのです。生きているものも、すでに眠っているものも神の言葉につながれているのです。ですから、私たちが生涯において天に積むべき宝とは、まさに、神の言葉を神の言葉として受け入れることです。神の言葉が私たち自身の中でどのように根付き、成長していっているのかを絶えず顧みる者でありたいと思います。

(一九九三年一月三一日、札幌北光教会、小原克博)