天の住みかと地上の住みか


コリントの信徒への手紙二 5:1―15

 わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として「霊」を与えてくださったのです。
 それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
 主に対する畏れを知っているわたしたちは、人々の説得に努めます。わたしたちは、神にはありのままに知られています。わたしは、あなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。わたしたちは、あなたがたにもう一度自己推薦をしようというのではありません。ただ、内面ではなく、外面を誇っている人々に応じられるように、わたしたちのことを誇る機会をあなたがたに提供しているのです。わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。


コリント教会の状況

 コリントの信徒への手紙はパウロがかつての伝道旅行で築いたコリントの教会の人たちにあてて書かれた手紙です。現在のギリシアの首都はアテネですが、そのアテネの西側にコリントという町はあります。もっとも、コリントは当時から町というよりは都市としての性格を持っていました。地中海に面した行き来の盛んな都市でしたから、そこには様々な人種の人々が住んでいたと考えられます。もちろん、他の地中海沿岸の町々と同様にそこにはたくさんのユダヤ人もいました。そのような典型的なギリシア都市コリントで成長しつつある教会にパウロは特別な関心を寄せながら、この手紙を書いているわけです。

 この手紙の中では伝統主義的なユダヤ人クリスチャンとギリシア思想にかぶれた精神主義的なクリスチャンの両方にパウロは挑戦をしています。特に今日の聖書箇所では人間は死んだらどうなるのだろうという今も昔も人が一般的に考える問いに対してパウロは彼の信仰理解を述べています。もっとも、パウロは死後の世界がどうなっているのかとか、人間の体が霊魂と肉体でどういう構造になっているのかということを説明しようとしているのではなく、あくまでもそれら一切がキリストという存在によって最終的的な意味を持つということを語ります。

生と死の彼方

 しかし、死んだらどうなるのかという問いは洋の東西を問わず、誰もが一度は関心を持つテーマです。ギリシアの世界と言うと日本とは全く異質なもののような印象があるかもしれませんが、実は非常によく似ている点がいくつもあります。どちらの世界も多神教的で、時間の流れは円のように循環していると考えられています。また、人間は皆、霊魂を持っていて、肉体が死んだ後はこの霊魂が生き残ってどこか別の世界へ行くと考えます。死とは霊魂の居場所がこちらからあちらへと移動することだと考えられます。この霊魂の行き先についてはいろいろな呼び方がされます。仏教で言えば極楽浄土なのでしょう。最近では仏教でお葬式をしても、誰々は天国から見守ってくれているからね、という言い方をしばしばするようです。キリスト教の天国のイメージを極楽の代わりとして借用しているわけで、天国という言葉もすっかり大衆化しているなという感じを受けます。

 では一体、聖書は死後の世界について何を語っているのでしょうか。聖書にはもちろん天国に相当する言葉が頻繁に出てきます。天、神の国などです。しかし、いずれにしても死が天国への直接の通路になってはいません。死ぬことによって天国に行く、今日の表現を用いるならば、死ぬことによって「主のもとに住む」(八節)ということが自動的に実現されるわけではありません。もし死ぬことによって自動的に天国に行けるならば、パウロは地上の住みかを脱いで裸になることを何も恐れる必要はなかったはずです。そして、フィリピの信徒への手紙の一章二三節のように、「二つのことの間で、板挟みの状態」にあって苦しむこともなかったでしょう。また、死が神と一体となるための通り道であるとするならば、イエスの十字架における死といったものは単純に一つの手段として理解されてしまいます。イエスは十字上で苦しんだ。しかし、すぐに神のもとに行けることを知っていて、ちゃんと見通しは立っていた。少し我慢すれば計画通りに神の右に引き上げられることがわかっていたという具合に理解されます。このようにイエスの十字架を理解するとすれば、イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは単なるポーズになってしまします。それは十字架の死を劇的に見せるための演出に過ぎなくなります。

 しかし、実際には聖書は死をそのように安易には表現していません。死はあくまでも神に逆らう現実として、神に反逆する力として描かれています。ギリシア的あるいは日本的な死の理解や、死後の世界の考え方のほうが随分、気が楽です。霊魂がこちらからあちらへ引っ越しをするだけですから、あちらへ行ってしまえば、後は適当に美化することもできます。それに対し、聖書の言葉は恐ろしいです。使徒言行録一〇章四二節や使徒信条はイエスは「生きている者と死んだ者との審判者」であると語ります。今日の聖書箇所では一〇節で「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち」と記されています。聖書は明らかに死の後も一人一人の人間の人格が継続することを前提にしています。何か霊魂のような顔のない、のっぺりしたイメージではなく、一人一人が死後も固有の顔を神の前に持っているわけです。ですから、死によって一人の人の人格が丸められたり、美化されたりすることはあり得ないわけです。

 聖書が生きている者も死んでいる者も等しく神の裁きの前にあると言う時に、それは人間の生と死を超えたところにある「終末」という視点から語っています。終末という視点からすれば死も最終的な終わりではありません。生も死も飲み込む力がそこにはあります。そして、パウロが四節で「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために」と言う時にはまさにそれは終末的な命のことを意味しています。その命こそはパウロにとってはイエス・キリストであり、そのキリストを上に着たいと彼は願っているのです。

キリストと唯一なる神

 もっとも、パウロは熱狂的な終末論者ではありませんでした。最近、世の中を騒がせている熱狂的な終末論者は自分たちの宗教的熱心さが世の終わりをもたらすと考えます。そこでは自分こそがキリストだいう人が必ずと言ってよいほどに出現します。そして、最悪の場合には自分たちの命を断つことによってこの世に対する勝利感を味わおうとします。パウロはどうでしょうか。彼が生と死、そして終末のことについて語る時、それは彼の宗教的熱心がそう語らせているのでしょうか。彼がここで語っていることの根拠は非常に端的に一五節において示されています。「その一人の方はすべての人のために死んでくださった」。パウロにとってこれこそが最も大切なことで、また、最も強く伝えようとすることです。「その一人の方」とはイエス・キリストのことです。このキリストのゆえに彼は地上の住みか、天の住みかについて語ることができます。パウロにとっては自分の信念や熱心さなどが問題ではなく、キリストこそが生と死を超えて存在を支えてくれる根拠なのです。

 そして、「すべての人のために」と言う時に、もちろんクリスチャンだけを意味してはいません。イエスをキリストと告白できる人のためだけではなく、文字どおりすべての人のためにイエスは死んでくださったということです。別の言葉で表現すると、このことを唯一神信仰と言います。唯一なる神という言葉は、私は神様を複数ではなく一人だけ信じますということではなく、唯一の神が一人残らずすべての人に向き合っているということです。人がそれぞれ何を信じ、どのように考えるかによって区別される前から、唯一なる神がおられるということです。他の人のことは知らないけれど、とにかく私は聖書の神様を信じますというのは、正確に言うと唯一神信仰ではなく単一神信仰です。それは、いろいろある神様の中でたまたま自分にはキリスト教の神様が相性がよさそうだから、この神様を自分は信じますという信仰です。クリスチャンだけの神を信じ、そしてそのクリスチャン集団の親分の名前がたまたまイエスという名前なわけです。唯一神信仰と単一神信仰との違いはよく理解しておく必要があります。

 アルバート・シュヴァイツァーという人の名前をどこかで聞いたことがあるかもしれません。シュヴァイツァーはアフリカにおける医療活動で有名ですが、彼は医者であるだけでなく、バッハの研究者そしてオルガン奏者としても知られていました。さらに日本ではあまり知られていないのですが、シュヴァイツァーは当時、非常に影響力のあった神学者でもありました。特に彼が主張した「生命への畏敬」という考え方は今なお大きな影響を持っています。簡単に言うと、命あるものには等しく恐れ敬うべき固有の価値があるということです。命を持っているという点においては人間であろうと蚊であろうと本質的には同じ価値を持っていると言うのです。彼がアフリカのジャングルの療養所にいる時に、彼の腕に蚊がとまっても飛び去るまで待っていたというエピソードは有名です。生命への畏敬という主張は明らかに、人間や人間の理性を中心にした西洋的キリスト教信仰に対する反抗です。それは他の被造物を差別あるいは排除し、人間だけが特別に神と関りを持つという単一神信仰への批判です。シュヴァイツァーの主張は、表面的には唯一神信仰を装っている西洋のキリスト教が実は単一神信仰ではないかという指摘をしたのでした。

 しかし、さらに「キリストはすべての人のために死んでくださった」ということの意味を徹底していくならば、私たちは「生命への畏敬」だけでは十分でないことに気付くでしょう。キリストによって明らかにされた唯一なる神への信仰は、死せるものへの畏敬をも含みます。キリストは死んだ者のためにも死にそしてよみがえったからです。唯一なる神は生きている者と同様に死んでいる者にも徹底して関っている。神が関り、神がそこにおられる故に死んだ者もまた、生きている者と同様の価値を持っています。生と死の間に断絶ではなく、それを超えた力があることをパウロはイエス・キリストの死と復活によって知らされました。パウロにとってこれはただ驚きです。どのような災害も、苦難も、一羽のすずめが落ちることもすべて唯一なる神の意志を離れては起こり得ない。たとえ表面的には幸運であったり不幸であったり、善であったり悪であったりすることがあっても、生と死の境界線を超えて一貫する神の意志があるということパウロは圧倒的な力を持って示されたのでした。

 この神秘、この驚き、この圧倒する力にパウロは飲み込まれたいのだと言うのです。そこでは地上の住みかか天の住みかかという選択はもはや大した意味を持ちません。ただ、主イエスに喜ばれる者でありたいと願い、そしてローマの信徒への手紙一四章八節では次のように確信するのです。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。

 パウロと同様、私たちも生きることと死ぬことの間に板挟みになっています。生きることの苦しさをおぼえる時には死んだ方がましだと思い、生きることの喜びを感じる時にはそれが死によって終わることを恐れます。この二つの間に挟まれています。しかし、あらゆる被造物の生と死を超えた命の力があることを聖書は示します。この命に私たちも飲み込まれ、それを上に着たいと思います。

(一九九三年四月二五日、札幌北光教会、小原克博)