さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
いずれにしても、キリスト教の二千年近い歴史の中で、今日の聖書箇所は伝道の絶対的な必要性を語っているものとして理解されてきました。なぜ伝道しなければならないのか、それは聖書に書いているからだと答えることができます。一九節、二〇節にはこのように記されています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。イエスの命令として、弟子にしなさい、洗礼を授けなさい、教えなさいということがずばりと書かれているわけですから、多くの教会が今日の聖書の箇所をキリスト教宣教のための理由付けにしてきたのも当然であると言えます。ただ、問題なのはこの部分だけをマタイ福音書の全体の文脈から切り離してしまって、教会の伝道のための大義名分として振りかざすことです。
ここだけを切り取ってプラカードのようにして教会が伝道活動をすればどうなるのでしょう。教会の歴史がそのことを語ってくれます。ヨーロッパ大陸ではこのようなことがありました。宣教師がある部族に出会って洗礼を受けなさいと言います。しかし、その部族がキリスト教を拒否すれば皆殺しにされてしまいました。洗礼を拒んで罪を負いながら生き続けるよりは、早く死んでしまった方が神の前に罪が軽くて済むのだと考えたからです。また、もっと現代に近い時代で言うと、一九世紀から二〇世紀にかけて東南アジア諸国では西欧列強の国々に土着の文化が根こそぎ破壊されました。西欧の人々にとっては、自分たちの持っている西欧キリスト教文化こそが主イエスが教えなさいと言ったものだと思い込んでいたわけです。本当の神を知らない程度の低いアジアの文化の中で生きるよりは、近代的なキリスト教文化を植え付けて人々の生活をまるっきりキリスト教化してしまうことがアジアの人々にとって幸せなことに違いないと考えたわけです。
今、あげた例はキリスト教宣教のすべてを言い表すものではありませんが、その現実の一面を表しています。異文化の中に飛び込んでいった勇敢な宣教師たちは、自分たちは聖書の言葉に従っただけのことだと言うかもしれません。しかし、人間は聖書の言葉すら自分たちの都合の良いように利用することができます。ある一部だけを切り抜いて、そこに自分たちの思いをいっぱいに詰め込んで、ほら、聖書が言っているではないかとうそぶくこともできるのです。キリスト教宣教の支えとなって来た、このマタイによる福音書の結末部分はそれだけ慎重に考えるに値する箇所です。私たちが思い込みの伝道、押し付けの宣教活動をしないためにも、少なくともこの聖書箇所をマタイ福音書全体の文脈の中で理解していこうと思います。
しかし、実際、聖書はそのようなことを言っているのではありません。また、教会はこの世の中における先生と弟子、先輩と後輩といった上下関係をこえたところに立とうとしています。教会にはすでに信仰を持ってから何十年にもなる、いわゆる信仰の先輩たちがいます。しかし、その信仰の先輩たちは最近、教会に来たばかりの信仰の後輩に対してえらそうに命令することはできないし、現にそのようなことはしないでしょう。信仰的なキャリアの長さや、人生を長く生きたことが無条件に価値の基準にはなりません。それどころか、聖書は経験を持っていると自負している人の中にこそ罪が潜みやすいこと、そして、若者であっても何もおじける必要のないことを語っています。そもそも、イエスの弟子たちはほとんど教育を受けていない無学な人たちでした。信仰的な経験が大切ならばイエスは、聖書をよく知っている律法学者たちを弟子にでもすればよかったわけです。しかし、そうはしませんでした。信仰の上でも人生の上でもろくに経験を持っていない人々をイエスは弟子として選ばれました。
マタイによる福音書では弟子についてどのように語られているでしょうか。一二章四九節では、イエスは弟子たちの方を指して、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいると言っています。弟子はイエスの家来ではなく、母や兄弟としての扱いを受けているわけです。また、一八章一節以下では弟子たちが自分たちの中で誰が一番偉いのかとイエスに聞いている場面があります。イエスの弟子たちも誰がイエスの一番弟子か、という弟子の中での上下関係を気にしていたことを表しています。しかし、イエスはその問いに対して、一人の子供を呼び寄せてこのように答えました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。
イエスの復活後、一番最初にイエスに出会ったのは二人の女性でした。イエスは彼女たちに他の弟子たちにガリラヤへ行くように言いなさいと命じました。そして、復活したイエスとガリラヤで出会っているのが今日の聖書箇所です。ガリラヤは当時、中央のエルサレムからは辺境の地と見なされ、宗教的にも社会的にも低く見られていました。しかし、ガリラヤはイエスが実際に生活し、多くの弟子たちを招き、活動を始めたその場所なのです。それは、かつてイエスが地上で生きていたように私たちが生きている、この世のことに他なりません。聖書が伝えようとしている点はここにあります。復活のキリストに会えるガリラヤとは一体どこにあるのか。あなたにとってガリラヤはどこか。
そのような聖書の問いかけの中で、もう一度、一九節以下のイエスの言葉を読みなおして下さい。弟子にしなさい、洗礼を授けなさい、教えなさいという命令は決してイエスの宗教的理想をこの地上に実現することを命じるものではありませんし、イエス帝国を地上に築きなさいと命令しているのでもありません。問題は、私たちが生きているこの世の生活のただ中で、一体、どこで私たちは小さな者と共にいたもう主と出会うのかということです。私たちの生活範囲は限られたものです。しかし、現代に生きる私たちはただ自分の生活、自分の社会にのみ関心を寄せて生き続けることはできません。私たちの社会の中だけでなく世界には主イエス・キリストが伴われようとするあの小さき者がたくさんいます。アジアの多くの国にイエスの弟子である、あの小さな者が生きています。一〇章四二節ではこのように書かれています。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。
弟子にしなさいという言葉のもとで、かつてキリスト教宣教はアジアの国々を奴隷状態にし、そこから搾取してきました。私たちはもはや弟子としての上下関係を争ったり、思い込み、押し付けの宣教をすることはできません。イエスの招きと派遣において、たとえ小さな私たちでさえも主と出会うことがゆるされ、その報いが約束されています。私たちが復活の主イエス・キリストとどこで、どのように出会うかは、狭い意味での宗教心の問題ではなく、非常に具体的な課題として私たちの生活全体に投げかけられているのです。
(一九九三年五月二三日<アジア祈祷日>、札幌北光教会、小原克博)