イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
このような問いに対して、全く関心のない人はいないでしょう。真理とは一体、何なのか?聖書を読む時も、私たちはそこでどのような真理が自分に語られているのかを考えながら読みます。特に、ヨハネによる福音書では真理という言葉が非常に頻繁に出てきます。真理という言葉がヨハネによる福音書のキーワードであるとも言えます。今日は、与えられた聖書の箇所を通じて、真理とは何かということについて考えていきたいと思うのですが、その前に、ピラトの問いの意味を考えておく必要があります。
ピラトの質問に対してイエスは答えませんでした。なぜでしょうか。ピラトは、真理とは「何か」と問いかけています。ピラトにとって、真理とは「何か」と問えるような「もの」に過ぎなかったのです。つまり、何かということさえ教えてもらえれば、すぐにでも手に入れることができるようなものを考えていたわけです。これは、もちろん、ピラトだけの問題ではありません。当時の人々も、真理というのはどこか超越的な世界にあって、それを悟ることができれば人間は全く自由になるのだと考えていました。コリントの信徒への手紙一の一章二二節で「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」とパウロは言っていますが、ここで言われている「しるし」や「知恵」ということも、ピラトが言った「真理」と内容的には同じです。誰でも、この世を越えた世界からの真理によって、この世の不自由から脱出したいと考えます。何かそのような便利なものはないのかと思います。
イエスがピラトの質問に答えなかったことには、深い意味があることがおわかりいただけるでしょう。ピラトは「真理とは何か」と問いながら、目の前にいるその人自身が真理そのものであることには全く気がつきませんでした。ヨハネによる福音書の一四章六節でイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言っています。生きたイエス自身が真理であるということは、私たちが真理に対して「もの」として近づくことができるのではなく、明らかにイエスとの人格的な関係に招かれていることを表しています。私たちは真理を求めると言いますが、実はすでに私たちが真理であるイエスから求められているということでもあります。真理を求めるために、この世を捨てて超越的世界に目を向けるのとは全く反対のことを聖書は語ります。ヨハネによる福音書一章一四節ではこのように記されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。真理はあの世にあるのではなく、まさにこの地上において具体的な姿をなしたということです。
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に私の弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とイエスはユダヤ人たちに、そして、私たちに語ります。しかし、それに対して、ユダヤ人たちは自分たちはアブラハムの子孫であって、だれかの奴隷になったことなどないと答えています。彼らは律法を守ることによって自由にされると考えていました。また、アブラハムの子孫であることは彼らにとって救いの特権でもありました。自分たちこそは神の恵みを受けるにふさわしい聖なる民であると考えていました。イエスは、そのような彼らの考えに対して、「罪の奴隷」という言葉を投げかけます。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」という言葉は、ユダヤ人であっても、ギリシア人であっても、たとえ何人であっても罪の力から無条件に逃れる特権を持っている人間はいないということです。
聖書は、旧約聖書も新約聖書も、人間の罪深さについて繰り返し語りますが、特に、人間の罪がどのような形で始まったかということを創世記の三章が説明しています。いわゆる、エデンの園における蛇の誘惑の場面です。エデンの園の中央には命の木と善悪の知識の木が生えていて、アダムとエバはその木の実を食べてはいけないと命じられていました。しかし、その神の戒めを破って、善悪の知識の木の実を食べることによって、二人はお互いに恥ずかしいと思うようになります。また、エバに対しては子供を産む時の苦しみや、男によって支配されることが語られ、また、アダムに対しては、生きていくために生涯、働き続けなければならないことが語られます。そして、人間が善悪を知る者となったことから、アダムとエバはエデンの園から追い出されることになりました。
この物語自体ついては今ここで詳しく説明することはできません。ただ、人間が神の前に罪を犯すことによってもたらされた変化を指摘することができます。罪を犯す前は、二人とも恥ずかしいとは思わず、男と女という明確な区別はありませんでした。しかし、罪を犯した後には、恥ずかしいと思うだけでなく、男はこのように生きるべきもの、女はこのように生きるべきものという区別が生じてきます。そして、善と悪とを区別する者になったと言われます。それらは神によって与えられたというより、人間が自ら選び取った罪の結果だと聖書は語ります。
それまで男も女もなく、善も悪もなかった世界に、人間が自分の身勝手から、いろいろな区別や差別を持ち込むことになります。イエスは、自分たちはアブラハムの子孫であると語るユダヤ人たちの態度の中にまさに、そのような点を見たと言えます。アブラハムの子孫であるかないかは彼らにとっては、聖なる者と俗なる者、善と悪、選ばれた者と選ばれなかった者という境界線を意味しています。そこでは、二元論的な区別と差別がなされています。二元論という考え方そのものは何も悪いものではありません。ただ、人間はそれを自分を肯定化し、敵対する者を拒絶するための道具として使おうとします。そのような人間こそ罪の奴隷であること知り、身勝手な二元論から解放されて、本当に自由になりなさいとイエスは語っているのではないでしょうか。
イエスが「真理はあなたたちを自由にする」と言った時に、その真理は狭い意味での宗教的な真理ではありませんでした。ユダヤ教に対抗し、それに打ち勝つ真理を示しているのではありません。もし、そうならば、ユダヤ人と同じ論理の上で戦っていることになります。実際に、イエスが示そうとしているのは、宗教や人種や性別に従って人間が懸命に作り上げた境界線を神の働きははるかに越えているではないかということです。それを知るためには、三一節にあるように、イエスの言葉にとどまる、つまり、イエスを信じ、イエスと一つになりなさいと語られています。パウロもガラテヤの信徒への手紙四章二八節で同じ様なことを語っています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あたたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。
キリストにおいて一つ。これは一つの神秘です。この神秘を教会は聖餐式を通じて思い起こし、確認してきました。アダムとエバは食べてはならないと言われた善悪の知識の木の実を食べることによって罪を犯し、エデンの園にいられなくなりました。それに対し、私たちは、十字架という木にかけられたイエスを食べることによってもう一度、エデンの園に、神のもとに帰ることを約束されます。もちろん、エデンの園を古き良き時代のノスタルジーとして考えることはできませんし、そのようなエデンの園を回復することは問題ではありません。新約聖書は、「新しい天と地」という表現を用いて、それが昔のエデンの園への回顧趣味となるのではなく、将来にもたらされる終末の出来事であることを強調します。ヨハネの黙示録二一章三節以下で語られているように、そこでは、「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」そのような世界が約束されています。エデンの園で失われたすべてがそこで回復されます。そのためには、私たちはイエス・キリストを通らなければならないというのが聖書の中心メッセージです。
今日は、真理という言葉に焦点を当ててきましたが、聖書の言う真理は決して、私たちが手に入れ、勝手に所有できるようなものではありませんでした。また、真理はそれをかざすことによって、自分に優越感を与えたり、人を裁いたりする道具でもありませんでした。真理という言葉は、ヘブル語でもギリシア語でも、「誠実」という意味を持っています。イエスはその生涯を通じて、まさに神の誠実さを表しました。人間が自分の罪によって神から離れ、なおも神に反逆する中で神は私たちを救い、ご自分のもとに呼び戻そうとされます。「真理はあなたたちを自由にする」。この言葉において、私たちはクリスチャンの特権意識や魔術的な開放感を味わうのではありません。私たちを貫いている神の圧倒的な誠実さに触れる時に、私たちは人為的な束縛や分け隔てから解放され、自由な者へと変えられます。イエスという真理にとどまることにより私たちは自由にされ、神の誠実さの中に安らぎを得ることができるのです。
(1993年6月27日、札幌北光教会、小原克博)