イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
今日の聖書箇所の前には、永遠の命を得るためにはどうすれば良いかと尋ねてきた金持ちの男の話があります。この男は確かに永遠の命を求めていましたが、財産を売り払って、貧しい人々に施しなさいとイエスに言われた時に、悲しみながら立ち去って行きました。彼はどうしても財産を手放すことはできなかったからです。しかし、ここでこの金持ちの男が永遠の命と自分の財産とを天秤にかけて、仮に財産をすべて放棄したとしましょう。結果としてはイエスの言葉に従ったことになりますが、もし、それが自分の救いに執着した結果だとしたら、彼はおそらく一生、彼が放棄した財産のことを忘れることはできないでしょう。救いの交換条件として財産を献げたわけですから、献げた財産が大きければ大きいほど、彼は誰よりも先にまず自分が救われなければならないという気持ちを強く持つことになります。財産によって神の国の一等地を買い占めたという一時の安心はおそらく長くは続きません。
そのような金持ちの男が去った後で、イエスと弟子たちの問答があり、特にペトロが非常に勇んでイエスにこのように語ります。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」。この言葉にはおそらく、「だから、あの金持ちの男と違って私たちは神の国に入ることができるでしょう」という意味がこめられています。そして、その意味ではペトロもまた、あの金持ちの男と同じ視点でものを見ています。もちろん、イエスはペトロの言葉に答えて、「そうだ。あなたたちはあの金持ちの男と違って、すべてを捨てて私に従ってきたから、そのかわりに神の国に入れてあげよう」ということは言っていません。「わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」というイエスの答えは所有物、人間関係を否定して、道徳的に清貧な生活を送ることを求めているわけではありません。道徳的な戒めではなく、神の国が到来したという終末的状況の中でイエスはこれらのことを語っています。「捨てる」ということが道徳的な意味でないとすれば、一体、聖書はどのような意味でそれを語っているのか。そして、それが今日の説教題にもある「成人すること」とどういう関係があるのか。そのことを今日は考えていきたいと思います。
「成人すること」とはまさにこのことに関係しています。ルカによる福音書の一五章に「放蕩息子のたとえ」があります。この息子は父親のもとにいる時は目の前にあるすべての物を当然、自分に与えられるべきものとして考えていました。しかし、父親のもとを離れて放蕩の限りを尽くした結果、父親から分けてもらった財産をすべて使い果たしてしまい、最後には食べるものにすら困ってしまいます。彼はこのような状態から、もはや息子ではなく雇い人の一人として家においてもらおうと決心して家に帰ります。しかし、そこで自分の帰りを待ち構え、大喜びする父親の姿を見て、彼は父の愛を本当に知ることになります。息子は一度すべてを失うことによって、はじめて父の愛の前に正しく立つ、きっかけを与えられました。このたとえ話では息子は自発的に財産を捨てたわけではないですけれども、この出来事は彼にとって成人することへの大きなステップになりました。パウロも、コリントの信徒への手紙一の一三章で愛が最も大切であることを説明する中で、「成人した今、幼子のことを棄てた」と語ります。キリストに出会う以前のパウロは律法によりすがって生きていた、まだ幼子の状態であったわけです。しかし、今やキリストによりパウロは神の愛とは何かということを充分に教えられ、それを「成人した」と呼んでいます。パウロはフィリピの信徒への手紙の三章六節以下で述べているように、キリストを知ることにより過去のすべてを「損失」あるいは「塵あくた」と考えています。律法から自由になることによって、パウロは神の前に自分の足で立つことの責任と喜びを語っています。
一般的に今日の日本社会の特徴として、大人になれない、大人になりたくないという傾向が指摘されます。成人式を済ませたからと大人になったなどとは決して言えません。世界中に、大人になるための様々な通過儀礼があります。それによって帰れない一線を引くわけですが、都市型の生活の中ではこのような通過儀礼は消滅しつつあります。つまり、子供から大人になり切れないまま、ずるずると年を重ねていくことになります。そういう意味でも、成人するとは若者にだけ向けられる言葉ではなく、六十才、七十才になった人も等しく問われる事柄です。
聖書的には成人するとは、神に向き合うことのできる自分があるかどうかということです。そして、そのことは「捨てる」という行為によってはっきりとすることを聖書は教えています。具体的な所有物を放棄するだけでなく、自分自身に対する所有権をも放棄することをパウロはローマの信徒への手紙一四章八節で語っています。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。すべての所有物、そして私たち自身が神のものである。この視点を持たずに私たちは主イエスに従っていくことはできないことを今日の聖書箇所は教えています。
最後にもう一度、問いましょう。私たちは神の前に成人しているでしょうか。私たちが困った時にだけ神に寄り頼み、私たちの口から出る言葉が神への要求と隣人への不満であるならば、とても成人しているとは言えないでしょう。神の前に立たされているとは、今、自分に与えられている責任と使命とをはっきりと知ることです。神によってこの世に命を与えられたことは他の人とは比較できない固有の価値を持っています。私でなければならない使命、あなたでなければならない使命を知る時にキリストの体としての教会が力強く造り上げられていきます。私たちは神の前に成人する時にはじめて命を与えられたことの価値と意味を喜びを持って知ることができるでしょう。神から使命を負わされた私たちは、それぞれにキリストの十字架の苦しみを負わなければなりません。しかし、そこで受ける傷は、つまりキリスト者がこの世の戦いの中で受ける傷は、イエスと共に十字架を負ってきたことの生きたしるしとなります。そのような人生を生きる者にとって、無益なものは一つもありません。私たちが受ける傷さえも、神が共に生きて下さっていることの証しとなるからです。
(一九九三年八月二九日、札幌北光教会、小原克博)