我らの主イエス・キリストを信ず


マルコによる福音書 8:27―30

 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。


イエスをキリストと告白すること

 使徒信条の中に「我らの主イエス・キリストを信ず」という表現があります。使徒信条の他にいわゆる信仰告白文と言われるものはたくさんありますが、信仰告白の中で最も最初にあった形は「イエスを主とする」、「イエスをキリストとする」というものでした。それを説明するために信仰告白はだんだんと長いものになっていきましたが、原点はここにあります。日ごろ、私たちがイエス・キリストと呼んでいるのもイエスはキリストであるという告白から来ています。イエスという名前は旧約聖書に出てくるヨシュアという名前をギリシア語風に発音したものであり、「神は救いである」という意味がありますが、特別な名前ではありませんでした。それどころか、イエスという名前はありふれた名前でした。他方、キリストというのもちろんイエスという名前に対する姓ではありませんが、ヘブライ語のメシアをギリシア語にしたものです。メシアにしてもキリストにしても「油を注がれた者」、「救い主」という意味があります。つまり、イエスという名前も、キリストという称号もそれ自体としては何も特別なものではありません。重要なのは、あのイエスという歴史上の人物をキリストであるとすることです。日本語ではイエスとキリストの間に小さな黒丸があります。この黒丸はイエスとキリストという二つの単語を区切る働きをしているだけではなく、イエスがキリストであることを表しています。その意味では、この小さな黒丸の中に何を見るかが私たちの信仰を決定していると言えるでしょう。

 今日の聖書箇所はこの黒丸に関係する一つのドラマを物語っています。イエスは弟子たちに人々が自分のことを何者だと言っているかと尋ね、それを聞いた後で「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と質問します。それに対して、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えています。ここだけを読むとペトロはさすがに偉いなと思うのですが、マルコによる福音書が表現しようとしているのはペトロの偉さではありません。むしろ、逆にイエスをメシア、キリストと告白することが簡単ではないことを言おうとしています。それは三一節以降を読めばはっきりします。イエスが自分の苦難、死、復活について語るのをペトロがいさめるのに対してイエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言って、ペトロをしかります。すぐ直前でイエスをメシアであると告白したペトロがここではサタンと呼ばれています。このことは同時に三〇節の「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」ということとも深く関係しています。この戒めの言葉は、ペトロのキリスト告白を否定するものではありませんが、イエスがメシアであることは今はまだ本当の意味ではわからないのだということを言おうとしています。つまり、イエスがメシアであることはイエスの苦難、十字架での死、復活を通じて初めて明らかにされるということをマルコによる福音書は伝えようとしています。だから、そこではイエスを信じるということはイエスの十字架を背負うことと同じ意味を持ちます。

 イエス・キリストを信じるということは、イエスをキリストと告白するということにつながっています。それは、例えば洗礼を受けた、信仰告白をしたからもうわかっていると言えるほど簡単な事柄ではありません。そこには私たちがいつになっても帰っていかなければならない信仰の原点があります。実に聖書もイエスをキリストとする意味をいろいろな方向から立体的に描き出そうとする努力をしています。今日はイエスをキリストと告白することの深さと広がりについて聖書からくみ取っていきたいと思います。

キリスト告白の多層性

 今日の聖書の箇所はマルコによる福音書からですが、この福音書は紀元後の七〇年を過ぎたころに書かれたと言われています。それはどういう時代かと言うと、エルサレムがローマの手によって陥落させられ、ユダヤ人たちは命からがら逃げ出し、難民のようになってさまよわなければならなかった時代です。ローマ帝国によって実質的に国家を失った直後のユダヤ人たちの屈辱感は想像を絶するものだったでしょう。そのような中で彼らは自分たちの屈辱を晴らし、もう一度、国を再建するために彼らを導いてくれる力強いメシアが現れることを待ち望んでいました。政治的なメシアを望んでいたとも言えます。そのような時代のさなかにマルコによる福音書が書かれました。先ほども言いましたように、そこで語られるメシアはローマの手によって十字架上で処刑されたナザレのイエスです。そのイエスがメシアだと告白するキリスト者たちは、一般のユダヤ人からすれば、まさに屈辱に屈辱を上塗りする、許しがたい連中として映ったに違いありません。一三章一三節ではイエスの言葉として次のように語られています。「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。これはイエスの言葉であると同時に、マルコによる福音書が書かれた時代状況を反映しています。教会はユダヤ人と同じ「メシア」という言葉を使いながら、それを全く違う意味で理解していました。それゆえに、教会は憎悪の対象となります。しかし、万人の憎悪の中に立たされてもイエスを十字架につけられたメシアとして力強く告白しなさいというのがマルコによる福音書の本来の意図する所です。イエスをメシアと告白することはそのような重さを持っていました。

 このマルコによる福音書と同じ場面をルカによる福音書、マタイによる福音書も持っていますが微妙に表現が異なります。ルカによる福音書では「サタン、引き下がれ」というペトロに対する叱責はありません。ルカによる福音書を書いたルカという人は使徒言行録も書いていますが、ルカとっては初期の教会の歴史の中で使徒たちの果たす役割を重要視していますから、その代表的存在であるペトロをサタンと呼ぶことはできません。他方、マタイによる福音書一六章一八節ではこのように言っています。「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。福音書の中では教会という言葉はマタイによる福音書の中にしか出てきませんが、ここではペトロのキリスト告白を通じて教会誕生の起源を与えようとするマタイの姿勢をうかがうことができます。このように同じペトロのキリスト告白でも福音書によって強調点が異なります。イエスをメシアあるいはキリストと告白することは、決まりきった信仰告白を繰り返すことではありません。それは、それぞれの状況によって変化に富んだ固有の告白をすることができる自由を含んでいますし、そうしなければならない責任を含んでいます。

 このことは、パウロについても言えます。彼は具体的な教会の問題にぶつかりながら、それに答える形で手紙を書きましたが、それによって彼のキリストに対する信仰の告白は深さと広がりとを持ったものになりました。パウロはペトロたち使徒から聞いたことをオウム返しに繰り返したわけではありませんでした。初期の教会にとってまだまだ不明りょうであった律法と福音の問題、イスラエルと異邦人との関係などをパウロは彼自身のキリスト告白として整理していきます。それが時としてユダヤ人キリスト者との衝突を引き起こそうとも、パウロにとっては譲れない一線としてのキリスト理解がありました。彼にとってイエス・キリストは律法の限界を飛び越え、ユダヤ人と異邦人といった区別を越えて救いをもたらして下さる方でした。パウロはそのように告白し、そのようにキリストの死と復活の恵みを宣べ伝えていきます。  パウロの働きによって大きく前進した異邦人伝道は、さらにパウロの弟子たちへと引き継がれていきますが、その中でも特に、エフェソの信徒への手紙やコロサイの信徒への手紙の中でキリストは宇宙的な規模にまで拡大されていきます。コロサイの信徒への手紙一章一五節以下ではキリストは万物よりも先にいたこと、キリストによって万物が造られたことなどが書かれています。

 このように、同じキリストを告白するにしてもペトロのような素朴な告白から宇宙的なキリストまで、そこには大きな広がりがあります。大きな流れから理解すれば、キリスト教の歴史はよりいっそう大きなキリストを求める道であったと言うことができます。新約聖書には二七巻の文書がありますが、それぞれが固有な立場でキリストを告白しています。そのようなキリスト告白の多様性を聖書は包み込んでいます。聖書が持つこの豊かさに私たちは触れなければなりません。その豊かさに触れることができれば、私たちにとって信仰告白は決して押し付けて与えられるものではなく、自分自身が作り上げていかなければならないものだということがわかります。

どこでイエスと出会うか?

 新約聖書の各巻はイエスとの出会いのドラマを物語ったものであると言えるでしょう。ここで再びマルコによる福音書に戻りたいと思います。イエスをメシアと告白したペトロは、イエスが言われた通り、やはりイエスを裏切ることになりました。イエスが捕まえられて、つばをはきかけられ、殴りつけられ、平手で打たれたりしている時に、ペトロはイエスを知らないと言います。それ以降、ペトロがどのような足取りをたどったかということをマルコによる福音書は一切、書き記していません。イエスの十字架を見守っていたのは女性たちでしたし、また、イエスが復活したことを天使から告げられたのも女性たちでした。しかし、天使は弟子たちと、そしてペトロに告げなさいと女性たちに命じます。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ一六・七)。ペトロたちがイエスに初めて出会った、あのガリラヤで再び復活のイエスに出会うことが許され、そのことが約束されます。それは、イエスに従うことを誓いながら、自らの弱さのゆえにそれを果たし得ないキリスト者への約束でもあります。マルコによる福音書は、一六章八節で女性たちが天使の言葉を聞いて震え上がり、逃げ去ったという場面でぷっつりと幕を閉じます。その後、ガリラヤで、ペトロたちに何が起こったのかについては何も記していません。それは読者の想像力に任せられています。いずれにしても、ガリラヤで出会うという約束から新しいペトロが生まれます。

 イエスをキリストと告白することは確かに一筋縄にいくことではありません。しかし、主イエスは私たちの弱さを知った上で、出会って下さいます。「我らの主イエス・キリストを信ず」という信仰告白は使徒信条がそのように言っているから、まねをするというものではありません。聖書を通じていくつか見てきたようにイエスをキリストと告白する方法やイエスとの出会い方は、人によって全く異なると言うこともできます。クリスチャン・ホームに生まれた人にとっては、エマオへ向かう途中の弟子たちに現れたイエスのように(ルカ二四・一三―三五)、イエスは知らない内に横に付き添って下さったかもしれません。思いもかけず出合い頭にイエスに出会い、すぐさま洗礼を受けた人もいるかもしれません。出会い方が様々であるように、告白の仕方も実際のところは様々です。しかし、エフェソの信徒への手紙四章五節以下が語っているように「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」。使徒信条も「信仰は一つ」ということの一つのしるしです。それは画一性の押し付けではありません。私たちの弱さゆえに信仰の告白は一貫性を保つことができず、また、人によって信仰の言い表し方も様々ですが、しかし、一人の主がいて下さるという確信がそこには込められています。

 大切なことは、私たちがどこでイエス・キリストと出会っているかということです。私たちの生活があって、それとは別のところに信仰の事柄があるわけではないはずです。ペトロたちにとって、ガリラヤとは自分たちが生まれ、育ち、仕事を営んでいた生活の現場でした。そこで彼らは復活のイエスに出会う約束を与えられました。イエス・キリストへの信仰は私たちの偏狭な宗教心の片隅に追いやられるべきものではありません。イエスはキリストである、そして、私はそのイエスに従っているという実感、その告白を生活のどこで見いだすのか、私にとってイエスと出会うガリラヤはどこなのかということが絶えず問われているのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。このイエスの問いを私たちの身に置きながら、新しい一週を歩んでまいりたいと思います。

(一九九三年九月一九日、札幌北光教会、小原克博)