キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
イエスがよみがえられた。驚きと喜びに満ちたこの知らせは、ばらばらになっていた弟子たちをもう一度、一つに呼び集め、そこから教会が生まれることになります。それに対して、現代に生きる私たちは、この復活をどのように理解しているでしょうか。イエスの生涯があり、イエスの十字架があり、復活があることを私たちは知っています。しかも、それらを当然の筋書きとして受け入れてしまっています。しばしば、十字架と復活という具合に表現しますが、十字架の後には復活が来ることを当然の展開として、その二つを一緒に考えてしまっています。しかし、実際、弟子たちにとっては十字架ですべてが終わっていました。そこでは、十字架と復活を結んでいる「と」という言葉は、出来事と出来事とをつなぐ働きをしているのではありません。「と」は一切の終わりであり、ピリオド、休止を意味しています。つまり、十字架と復活の間には静寂と沈黙の三日間が決して取り去ることのできない重さを持って横たわっています。十字架という歴史的出来事の延長に復活があるのではなく、この両者はただ鋭く対決させられているということに注意を払う必要があります。私たちの日常的な理解は歴史的であり、時間の中でイメージや映像を捕らえようとします。その私たちにとって、よみがえりの出来事はただ不可解なとまどいを与えます。よみがえりが持つ不可解さを私たちはどのように理解することができるのでしょうか。
しかし、イエスの弟子たちにとって、彼らの新しい生活、信仰の始まりは確実にイエスの復活の出来事に根拠を持っていました。イエスのよみがえりという出来事に出会うことによって、不安と失望の内に命からがらガリラヤへと逃げて行った弟子たちは、もう一度、エルサレムへと戻ります。そして、そこでキリストを宣べ伝えるためには命も惜しまない使徒へと変えられたのでした。ダマスコに向かう途中のパウロにもイエスは現れました。それはパウロの意志に反した出来事でしたが、そのことによりキリストの迫害者サウロは異邦人への伝道者パウロに変えられたのでした(ガラ九・一以下)。彼らが、等しく伝えたことは、あのイエスこそはキリストであり、そして、今なお生きておられるということです。たとえ、それが人々から理解されず、つまづきを与えるものであったとしても、彼らにとってはイエスの復活こそは第一に宣べ伝えられなければならない事柄でした(Tコリ一五・一二以下)。
私たちは、そういう時代とは異なった形で、教会とかかわりを持っています。私たちにとって、教会とはすでに世の中に存在し、しかも、十分に社会的に認められている立派な組織体です。安心して教会にいることができます。世の中の騒がしさや、世の中の混乱した状態から脱出して、もっと落ち着いた、お行儀のよい人生を送りたいという人には教会は実に好ましいものに見えます。しかし、復活の出来事は私たちの安定志向を打ち砕くような力を持っています。それは、イエスがマタイによる福音書一〇章三四節で「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われたことにも関係しています。私たちは自分の理解の及ぶ範囲内でこじんまりと生きたいと願っているのに、復活の出来事は私たちの日常的な理解を越えた次元を示そうとしています。また、その出来事の真実に目を開かれることが、聖書を正しい視点から読む手掛かりとなります。その視点とは一言で言うならば、終末論的な視点です。これについては、ここで多くを語ることはできません。神の国が近づいたというイエスの言葉の中にも、イエス自身の復活の中にも歴史を越え、歴史に対して対決する神の力が現れています。死すべき人間の命が永遠の命の約束を受け、人生のはかなさが神の安息の中へと招きいれられることの意味はきわめて終末論的だと言えます。私たちの今ある命が無限に延長されることが永遠の命ではありません。コリントの信徒への手紙二の五章四節のパウロの言葉を借りるならば、「死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。つまり、神の力によって、私たちの命が神の命の中に取り込まれていく、そのような終末の到来をイエスは宣べ伝え、パウロもその理解の上に立っています。そして、それらすべての根拠を聖書は、死を滅ぼす力の中に、つまり、復活の中に見ています。
イエスの復活後の現れ方については、それぞれの福音書によって違いがありますから一まとめにして語ることはできません。確かに、ヨハネによる福音書のように、疑うトマスに対して、イエスが十字架につけられた時の釘の跡に指を入れなさいと言うような非常にリアルな描写もあります。しかし、それにしても、最後にイエスがトマスに語った言葉は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハ二〇・二九)というものでした。いくつかの福音書が復活後のイエスと弟子たちとの交流を非常に生き生きと描いているのは、復活ということが弟子たちの妄想や勝手な思い込みによって生じたのではなく、そこではイエスと弟子との人格的な交わりが中心になっていることを表すためです。イエスが幽霊のように現れたのか、生身の肉体で現れたのか、それらのことに聖書は関心がありませんし、どのような姿であれ、それによって復活の真実性を証明しようとしているのではありません。使徒言行録によればイエスが弟子たちに現れたのは四〇日間ということですが、ともかく、イエスはずっと弟子たちの目の前にいたわけではありませんでした。ここに、私たちの注目すべき点があります。それは、見ることから信じることへの移り変わりです。弟子たちはいつまでもイエスを見ていたわけではありませんでした。見ることが終わった時、彼らは信じました。そして、彼らが見た復活の主を福音として伝えることによって、見ないで信じる信仰を他の人々の間にも呼び起こしたのでした。
見ないで信じる力が私たちには与えられています。この力は一見、単純なようですが、これこそが復活によって私たちに与えられた最大の賜物であり、また同時に、私たちの永遠の命を明らかにする力です。そのことをはっきりさせるために、ここで、もう一つ問いを立てましょう。なぜ、私たちはイエスの復活の時と来るべき終末の時の間に置かれているのでしょうか。イエスの復活後、私たちに見える姿で永遠にイエスがとどまってくだされば、私たちは簡単に信じはしないでしょうか。あるいは、顔と顔とを合わせて見ることになる終わりの時がもっと早く訪れれば、私たちは簡単に信じはしないでしょうか。しかし、現実にはそのどちらでもなく、つまり、見て信じることは求められず、イエスは神のもとに姿を隠され、代わりに聖霊が私たちに与えられ、見ないで信じることが私たちには求められています。これは、神の大いなる神秘の業です。この世に生きながら、しかも見ないで信じることによって初めて、私たちは自分自身の中にある永遠の命に目を向けることができるからです。イエスの復活と終末の時にはさまれて、私たちはこの世のはかなさの内にあっても、神に生かされていることを見ないで信じることができるのです。
しかも、イエスの復活と世の終わりの時とは無限に離れているのではありません。コリントの信徒への手紙一五章二〇節に書かれているように、「キリストが死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられた」とするならば、すでに世の終わりの前に「最後の日」が明けそめています。永遠の命の到来による死の絶滅は、すでに動き出しています。暴力と死に満ちたこの世界の中で、すでに新しい創造がキリストにあって始まっているのです。私たちは明日のことを思い煩う必要はありません(マタ六・三四)。見ないで信じる力は復活の主によって私たちに与えられた特権です。その特権を私たちがどのように生かすのか、そのことに主イエスご自身が関心を持って、今日も私たちのそばにいて下さっています。
(一九九三年一〇月一七日、札幌北光教会、小原克博)