これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。
新約聖書の時代においても、「霊」は当時の世界で、広く信じられていました。人間が大きな病気をしたりすると、それは悪霊の仕業であると考えられました。だから、悪霊を追い出すことを仕事にしている人も大勢いました。また、霊というのは、ただ人間にとりついたりするだけでなく、自然の様々な力の背後には霊が存在すると考えられていました。例えば、地震が起きたり、嵐が吹いたりするのは、それらを引き起こす霊がいるからだと考えられました。あるいは、霊と霊とが喧嘩をすると、そのような災害が生じるとも考えられました。このあたりのことを、聖書ではコロサイの信徒への手紙が書いています。人々が世の中を支配している様々な霊の働きに心を奪われていることをパウロは知っていました。しかし、パウロはそのような霊(「世を支配する霊」、コロ二・八)に束縛されることから自由になることを語ります。この世にある、どんなに大きな霊の働きよりも、キリストの力の方がはるかに大きいことをパウロは述べています。
今は、新約聖書の時代において、霊がどのように考えられていたかを述べましたが、現代の日本人の感覚もそれらと共通点を持っているように思います。幽霊や霊界の話は日常的な話題になっています。高級な守護霊を持てば、幸福な人生が開かれると語られています。いずれにしても、霊ということに多くの人が関心を寄せています。そのような中で、私たちは「我は聖霊を信ず」という信仰告白をしなければなりません。様々な形で霊ということが取り沙汰にされる中で、私たちにとって、そして、この世にとって聖霊とは何かということを、今日は考えていきたいと思います。
パウロもまた、神の霊、聖霊について多くを語りました。しかし、同時に、間違った霊にとらわれている人々には厳しい批判を投げかけました。特にコリントの教会では、病気をいやしたり、預言をしたりという様々な霊的な賜物を自分の能力として自慢する人たちがいたのですが(一コリ一二章参照)、パウロは霊を個人の能力や所有物としては決して考えませんでした。むしろ、パウロは霊的な賜物がキリストの体としての教会に結び付くべきことを強調しました。互いに自慢しあう必要もなく、互いに批判しあう理由もありません。様々な霊的賜物がキリストにあって一つとされる喜びをパウロは語っています。ですから、パウロにとって、神の霊はイエス・キリストの霊と同じ意味です。
人間には、何か特別な能力を所有したいという願望があります。霊もその一つにされてしまいます。ヨハネによる福音書二〇章二二節ではイエスご自身が弟子たちに向かって、「聖霊を受けなさい」と言われていますから、クリスチャンであれば、自分も聖霊を受けたい、手に入れたいと思うのも当然です。しかし、すでにパウロを通じて見てきたように、聖霊を所有することなどできません。事態はまったく逆です。コリントの信徒への手紙一の六章一九節は次のように語ります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。聖霊が宿ることは、聖霊を所有することではなく、かえって自分自身が自分のものでなくなると聖書は言っています。では、聖霊が宿ることによって、私たちは一体、誰のものになるのでしょうか。ここで、ハイデルベルク信仰問答の問一とその答えを引用したいと思います。問「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。答え「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。「生きている時も、死ぬ時も」というのは要するに、いつでもということです。調子が良かろうが、悪かろうが、自分自身の能力と努力で偉大な業績を打ち立てようと、すべてを失い死に直面していようと、しかし、私は私のものではなく、キリストのものだということです。そして、このことが「ただ一つの慰め」だと言うのです。
聖霊の働きは決して抽象的ではなく、極めて具体的です。イエス・キリストがその命と引き換えに蒔かれた種を、今、私たち一人一人が手の中に持っていると考えて下さい。その種は私たちの手のくぼみの中にあって、混沌としているかもしれません。しかし、天地創造の時と同様、そこには神の霊がともなっています。神は混沌に向かって「光あれ」と言われ、そして光を生じさせました。今、主から受けた命の種に向かって、私たちが叫ばなければなりません。愛に満ちよ、喜びに生きよ、平和よ来れ。その種は、実は私たち自身です。ですから、私はまだ、その命の種をもらっていませんとは誰も言えません。キリストはすべての人をすでに捕らえて下さっているからです。「我は聖霊を信ず」という信仰告白は、その深い意味において、私たちがキリストによって捕らえられ、キリストのものとされていることの告白でもあります。そして、そのことが、生きる時も、死ぬ時も、私たちのただ一つの慰めになるのです。
(一九九三年一〇月三一日、札幌北光教会、小原克博)