聖霊を信ず


ガラテヤの信徒への手紙 5:22―26

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。


霊の文化史

 聖霊という言葉を初めて聞いた時の第一印象は、どのようなものでしょうか。聖書を読んだことのない人でも、この聖霊という言葉だけで何か想像することができるでしょう。日本語では、「聖」と「霊」という二つの文字で表されていますから、それぞれをイメージして組み合わせれば、何か思いつくかもしれません。実際、聖書には「霊」という言葉が非常に多く出てきます。新約聖書では「霊」は三七九回現れています。その内、「神の霊」として用いられているのが最も多く(二七五回)、他に、人間の霊を表したり(四七回)、悪霊として現れたりします(三八回)。このように、一口に霊と言っても、その用いられ方は様々です。

 新約聖書の時代においても、「霊」は当時の世界で、広く信じられていました。人間が大きな病気をしたりすると、それは悪霊の仕業であると考えられました。だから、悪霊を追い出すことを仕事にしている人も大勢いました。また、霊というのは、ただ人間にとりついたりするだけでなく、自然の様々な力の背後には霊が存在すると考えられていました。例えば、地震が起きたり、嵐が吹いたりするのは、それらを引き起こす霊がいるからだと考えられました。あるいは、霊と霊とが喧嘩をすると、そのような災害が生じるとも考えられました。このあたりのことを、聖書ではコロサイの信徒への手紙が書いています。人々が世の中を支配している様々な霊の働きに心を奪われていることをパウロは知っていました。しかし、パウロはそのような霊(「世を支配する霊」、コロ二・八)に束縛されることから自由になることを語ります。この世にある、どんなに大きな霊の働きよりも、キリストの力の方がはるかに大きいことをパウロは述べています。

 今は、新約聖書の時代において、霊がどのように考えられていたかを述べましたが、現代の日本人の感覚もそれらと共通点を持っているように思います。幽霊や霊界の話は日常的な話題になっています。高級な守護霊を持てば、幸福な人生が開かれると語られています。いずれにしても、霊ということに多くの人が関心を寄せています。そのような中で、私たちは「我は聖霊を信ず」という信仰告白をしなければなりません。様々な形で霊ということが取り沙汰にされる中で、私たちにとって、そして、この世にとって聖霊とは何かということを、今日は考えていきたいと思います。

新約聖書における「霊」

 新約聖書に霊という言葉がたくさんあることはすでに述べましたが、それらの多くは旧約聖書から、霊についての理解を引き継いでいます。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、霊はヘブライ語でルーアッハと言います。ルーアッハはもともと、風や息という意味を持っています。もちろん、風や息を直接に霊と考えたわけではなく、風や息のような動きを与えている根源的な力のことをルーアッハと呼びました。この典型的な例が創世記の冒頭部分に書かれています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」。天地創造の時に、それを生み出すような潜在的な力として神の霊が語られています。このイメージは、新約聖書の聖霊に直接につながっていきます。なぜならば、自分たちの先生を失い、混沌の淵に沈んでいた弟子たちに対し、新しい命を与え、その混沌の中から教会を生み出した力を、使徒言行録は聖霊の働きとして記しているからです。

 パウロもまた、神の霊、聖霊について多くを語りました。しかし、同時に、間違った霊にとらわれている人々には厳しい批判を投げかけました。特にコリントの教会では、病気をいやしたり、預言をしたりという様々な霊的な賜物を自分の能力として自慢する人たちがいたのですが(一コリ一二章参照)、パウロは霊を個人の能力や所有物としては決して考えませんでした。むしろ、パウロは霊的な賜物がキリストの体としての教会に結び付くべきことを強調しました。互いに自慢しあう必要もなく、互いに批判しあう理由もありません。様々な霊的賜物がキリストにあって一つとされる喜びをパウロは語っています。ですから、パウロにとって、神の霊はイエス・キリストの霊と同じ意味です。

 人間には、何か特別な能力を所有したいという願望があります。霊もその一つにされてしまいます。ヨハネによる福音書二〇章二二節ではイエスご自身が弟子たちに向かって、「聖霊を受けなさい」と言われていますから、クリスチャンであれば、自分も聖霊を受けたい、手に入れたいと思うのも当然です。しかし、すでにパウロを通じて見てきたように、聖霊を所有することなどできません。事態はまったく逆です。コリントの信徒への手紙一の六章一九節は次のように語ります。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神の神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」。聖霊が宿ることは、聖霊を所有することではなく、かえって自分自身が自分のものでなくなると聖書は言っています。では、聖霊が宿ることによって、私たちは一体、誰のものになるのでしょうか。ここで、ハイデルベルク信仰問答の問一とその答えを引用したいと思います。問「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」。答え「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります」。「生きている時も、死ぬ時も」というのは要するに、いつでもということです。調子が良かろうが、悪かろうが、自分自身の能力と努力で偉大な業績を打ち立てようと、すべてを失い死に直面していようと、しかし、私は私のものではなく、キリストのものだということです。そして、このことが「ただ一つの慰め」だと言うのです。

聖霊の実

 聖霊が、私たちを神に導く風であり、私たちに命を吹き入れる息であるならば、到底、私たちは聖霊を手に入れるなどと言うことができません。私たちは聖霊のすさまじいエネルギーの前に呑み込まれ、そしてキリストのものとされるだけです。このように新約聖書が語る聖霊は、ただ漠然とした、一般的な霊のことを意味しているのではなく、それはいつもイエス・キリストと密接に結びついています。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、私たちが約束された霊を受けるためにキリストが十字架にかかって死んで下さったと述べます(ガラ三・一三―一四)。このことは同時に、ヨハネによる福音書一二章二四節の「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉を思い起こさせます。聖霊は、イエスの十字架の死の実であると言うことができるでしょう。イエスが一粒の麦として死んで下さった。その一粒の麦が結んだ豊かな実が、私たちに訪れる聖霊の働きです。そして、ヨハネによる福音書一四章二六節が語るように、イエスの父なる神が遣わす聖霊は、イエスのことをことごとく思い起こさせます。まさに、神とイエスと聖霊が地上に実をもたらすための共同作業をしています。ガラテヤの信徒への手紙五章二二節では、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」だと言っています。愛も喜びも平和も、決して一人の人間が個人的に手に入れることはできません。一人の人間が満足いく信仰生活を送り、人生の幸福を保証してくれるものとして聖霊が与えられているわけではありません。聖霊の実はすべて人と人との間で、もたらされるものです。そのような人と人との間の多くの実りが、キリストにあって一つにされる姿をパウロは教会の中に求め続けています。さらに、聖霊は教会と教会の外の世界との間にも実りをもたらします。それが私たちの宣教の根拠です。またさらに、聖霊は人と人の間だけでなく、人と自然との間にも実りをもたらします。人が自然から奪い、利用し、そして捨て去るという今日の姿は、決して聖霊の望むものではありません。人と自然との間においても、愛、喜び、平和、節制が満ちることを神は望んでいるはずです。

 聖霊の働きは決して抽象的ではなく、極めて具体的です。イエス・キリストがその命と引き換えに蒔かれた種を、今、私たち一人一人が手の中に持っていると考えて下さい。その種は私たちの手のくぼみの中にあって、混沌としているかもしれません。しかし、天地創造の時と同様、そこには神の霊がともなっています。神は混沌に向かって「光あれ」と言われ、そして光を生じさせました。今、主から受けた命の種に向かって、私たちが叫ばなければなりません。愛に満ちよ、喜びに生きよ、平和よ来れ。その種は、実は私たち自身です。ですから、私はまだ、その命の種をもらっていませんとは誰も言えません。キリストはすべての人をすでに捕らえて下さっているからです。「我は聖霊を信ず」という信仰告白は、その深い意味において、私たちがキリストによって捕らえられ、キリストのものとされていることの告白でもあります。そして、そのことが、生きる時も、死ぬ時も、私たちのただ一つの慰めになるのです。

(一九九三年一〇月三一日、札幌北光教会、小原克博)