良い知らせを伝える者


イザヤ書 52:1―10

 奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なるエルサレムよ。無割礼の汚れた者が、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは銀によらずに買い戻される」と。
 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。
 いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る。主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ。


イザヤ書の歴史的背景

 今日からアドヴェントに入ります。アドヴェントはラテン語のアドウェントゥス(Adventus)から来ている言葉ですが、もともと、「到来」という意味を持っています。そして、教会では神の子の到来を待ち望む期間として、クリスマスの前のおよそ四週間をアドヴェントとして過ごします。世の中でも、この季節にはクリスマスのムードで彩られ、いやでもクリスマスが近づきつつあることを実感させられます。クリスマスと共に、また一年が終わったな、と感じる人もいるでしょう。毎年、めぐって来るクリスマスですが、私たちは、今、どのような気持ちでそれを迎えようとしているでしょうか。今日の聖書箇所であるイザヤ書は、直接にクリスマスの出来事を指し示すものではありませんが、クリスマスへとつながっていく、いくつかの大切な点を含んでいます。

 この聖書の箇所で語られていることを理解するためには、まず、これがどのような歴史的状況の中で語られたかを知る必要があります。どのようなことが起こったのか、聖書を読むだけで大方の検討はつきます。一節から三節までは、シオン、つまり、エルサレムのことが語られています。敵によって攻め込まれて、売り飛ばされるような事件があったこと、しかし、今や、買い戻されようとしていることがわかります。7節以下は、その解放の喜びを歌ったものと理解できるでしょう。この一連の事件は、歴史の中ではバビロン捕囚と呼ばれているものです。六〇年間におよんだバビロニアでの捕囚から、ペルシア王クロスによって解放され、エルサレムへと帰ることを許されたことが、七節以下の喜びの背景にあります。そこでは、喜びが単に個人的なものではなく、民族的な広がりを持っていることがわかります。

神のアドヴェント

 七節は、ローマの信徒への手紙一〇章一五節に引用されていることからもわかるように、多くの人の共感を得た言葉であったと言えます。少なくとも、引用したパウロはその言葉の中に自分自身の姿を重ねていたことは確かです。「良い知らせ」は、今日のように新聞やラジオのない時代には、人間の足と声とによって伝達するしかありませんでした。それだけに、その良い知らせを伝える者と、聞く者との間にかわされる喜びは非常に大きなものであったはずです。そして、そこで伝えられたのは、平和であり、救いであり、あなたたちの神が王となられたということでした。神が王となられたというのは、さらに八節の後半では「彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを」と説明されています。つまり、神がエルサレムに帰って来られることが喜びだと言うことです。もちろん、それまで捕われの身になっていた自分たちが、そこから自由にされ、故郷であるエルサレムへと帰って行くことができるのは喜びですが、もし、そこに神がいなければ喜びにはなり得ません。神が来られるということ、つまり、神のアドヴェントが、この良い知らせの中心にあります。

 次に、私たち自身のことを考えてみましょう。目まぐるしく移りゆくこの時代の中で、私たちはどこか落ち着き場所を求めようとします。しかし、しっくりする場所がない。あるいは、今の自分は本来の自分ではないと感じるかもしれません。それは、まさに、イスラエルの人々が宗教も文化もまったく異なるバビロニアの地に置かれている時の故郷喪失の思いに似ています。私たちにとって、この世はバビロニアであり続けています。そのバビロニアの中で、古きよき時代のノスタルジーに帰る場所を見つけることもできるでしょう。あるいは、点々と自分の居場所を移すこともあるかもしれません。しかし、聖書が語っているのは、私たち自身の心の持ち方のことではなく、神が帰って来られたということです。私たちのもとに確かに神が来られたということを知る時に、私たちは本当の自分自身を見出し、良い知らせを喜ぶことができます。

 しかも、私のもとに来られる神は、私だけの神ではありません。一〇節にはこのように記されています。「主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」。ここでは、神が単にイスラエル民族の神としてではなく、全世界の神として告白されています。神の働きの普遍性が、民族的な枠を飛び越えて理解されていることは注目に値します。

クリスマスと新しい命

 このように旧約聖書の中で証しされ、待ち望まれてきた神の到来が、最も私たちの近くに起こったのがクリスマスの出来事です。クリスマスは、言うまでもなく、主イエス・キリストの誕生を祝う時です。しかし、それはイエスがキリスト教という宗教の教祖様だから、その誕生日を祝うという性格のものでしょうか。もし、ただそれだけだとしたら、毎年迎えるクリスマスは確実にマンネリ化してくるに違いありません。クリスマスが来るごとに、また一年が過ぎた、年をとったと思うだけです。先ほどのイザヤ書は私たちに何を教えるでしょうか。神が来られることによって、私たちは生活や自分の命に新しい意味を与えられます。バビロニアにいながら、バビロニア以外の世界を指し示されます。私たちはイエス・キリストの誕生と共に、私たちの内にどのような新しさが芽生えようとしているのかを問う必要があります。

 私たちは「年をとる」という表現を使います。まるで、自分で「年」を獲得していっているかのように年をとると言います。しかし、実際には神によって年を与えられていると言うほうが正確でしょう。クリスマスはそのことを、はっきりと教えてくれます。たとえ、何歳になっても、イエスの誕生は神の子の到来として、私たちの命の最終的根拠を思い起こさせてくれます。ヨハネによる福音書三章一六節はこのように記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。世の中では、一年の計は元旦にあり、と言います。しかし、教会では、一年の計はクリスマスにあり、と言うことができるでしょう。与えられた命、生活をどのように用いるべきかを、元旦にではなく、クリスマスに向けて、クリスマスに合わせて考えてみて下さい。なぜならば、私たちの命と主イエス・キリストの命とは切り離すことができないからです。その喜びを、その良い知らせを、この世に向かって伝える者でありたいと思います。

(一九九三年一一月二八日、札幌北光教会、小原克博)