アグリッパはパウロに、「お前は自分のことを話してよい」と言った。そこで、パウロは手を差し伸べて弁明した。……
実は、私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。」「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たのです。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周りを照らしました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しますと、主は言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起き上がれ。自分の足で立て。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためである。』」
しかし、そのようなアイヌの人たちに対して和人はどのような態度を取ったでしょうか。アイヌの人たちに対し「土人」というレッテルを貼り、和人に従うべき未開人として扱ってきたのです。そこには、同じ人間としての優しさはなく、代わりに和人はアイヌより優れているという優越感と支配欲があります。
和人、すなわち日本人はアイヌに対してだけ、このような態度を取ってきたわけではありません。第二次世界大戦の時に、日本が韓国・中国をはじめとする多くのアジア諸国に対してなしてきたことも同様の意識構造をともなっています。優秀な日本が支配し、治めることによってアジア全体が栄えると考えたのでした。ここにははっきりと宗教的なイデオロギーがあります。日本は神国であり、日本人は選ばれた民族だったのです。天皇という神のもとに特別に選ばれた民族が、他の選ばれざる民族を支配することは当然の結論でした。
選ばれた民、選民という考え方はもちろん第二次世界大戦時のドイツ帝国にも見られましたし、また他の時代にも、選民という意識が大国の支配欲を駆り立てとことは言うまでもありません。これは非常に宗教的な要素を含んでいます。しかも、「選ばれる」という考え方は聖書に深く根付いています。例えばパウロが、自分は母の胎内にあるときから神によって選び分かたれているのだと言う時に(ガラ一・一五)、それは他の人々に対する優越の気持ちから言っているのでしょうか。あるいは、私たち自身が神によって選ばれている、教会が神によって選ばれているという時に、それはどのような意味を持つのでしょうか。今日は、有名なパウロの回心の出来事を通じて、それらのことを考えてみたいと思います。
このパウロがキリストに出会います。出会うというよりは、太陽より明るい光によってなぎ倒されるという体験をします。そして、使徒言行録九章、二二章によれば、その体験の後にアナニヤというイエスの弟子から洗礼を受けることになります。パウロは、この洗礼によってキリスト者として選び出され、さらに異邦人のための伝道者として遣わされます。神の選びからは外れていると考えていたユダヤ人のもとに、キリストの選びを宣べ伝えるためにパウロは用いられます。ここには決定的な変化があります。ユダヤ人が選民であるという考え方は、生物学的な血のつながりによるものであり、もしユダヤ人として生まれなければ、もうどうしようもありません。この点で、異邦人はユダヤ人に対してどうしようもありません。また同じ様に、アイヌの人は和人に対してどうしようもありません。ユダヤ人であることや和人であることが価値の基準になっているからです。それに対して、キリストの選びはその人が何人に生まれたかなどということを超越しています。このことは当時の世界の人々にはかなりショッキングなことであり、また、自分が選ばれていると考えている人々にとっては腹立たしいものであったに違いありません。しかも、キリスト者をあれほど熱心に迫害していたパウロが、パウロというユダヤ人が異邦人に救いを宣べ伝えようとしているのです。キリスト者になることは出生やその他の条件によらずに、ただ神の恵みによります。洗礼はその恵みのしるしです。今日の私たちは洗礼を個人の決意表明のようなものとして受け取りがちですが、本来、そこには人間が作り上げてきた様々な隔ての壁を打ち壊すという大きな働きがあったことを知っておく必要があります。
異邦人の選びについては、マタイによる福音書八章一一節で、イエス自身が異邦人である百人隊長の信仰に感心して、次のように述べています。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。「御国の子ら」というのはユダヤ人のことです。選ばれていると思っている者たちが泣きわめき歯ぎしりせねばならず、かえって異邦人たちがユダヤ人の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブと天の国で宴会の席に着くという具合に、ここでは選びが逆説的に語られています。
エレミヤ書の冒頭部分で、神がエレミヤを預言者として立てると言うのに対して、エレミヤは次のように答えて、なんとかその責任を逃れようとします。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者に過ぎませんから」。つまり、私には何の人生経験もなく、何のキャリアもありませんから、どうか見逃して下さいと言っているのです。それに対して、神が「若者にすぎないと言ってはならない」と語るのは、まさに主イエスがパウロに対して「自分の足で立ちなさい」と言っているのと同じです。人生経験に寄り頼み、それによって立つのではない。エレミヤよ、今あるあなた自身の足で立ちなさい、と神は語っているのではないでしょうか。
キリスト者として生きる、信仰を持つとは、自分の足で立つということです。二本足で直立歩行することが人間の特徴の一つであるように、キリスト者となるということは、人間の中の特殊な類型になること、特殊なタイプの人間になることでは決してなく、まさに人間そのものになることです。キリスト者として生きることは、真に人間として生きることとまったく同じです。そうだとすると、キリスト者として選ばれていることが他の人々を排除することは決してないはずです。私たちの選びはただ個人の救いためではありません。エレミヤが諸国民の預言者として選ばれ、パウロが異邦人を恵みあずからせるために伝道者とされたように、私たちも他者のために選ばれています。
パウロは自分の足で立つことによって、それまで彼が寄り頼んできたものが塵あくたであったことを発見しました(フィリ三・八)。それは、自分の足で立て、と命じて下さった方が自分自身の命を支えていることの発見でもありました(ガラ二・二〇)。自分自身の足で立つことは、神によって与えられたこの命の意味を問うことでもあります。そして、ただ自分自身の意味を問うだけでなく、立った足で隣人を支えることによって、あるいは自分が倒れそうになった時に支えてもらうことによって、人間とは何かという問いが答えられ始めるのです。
(一九九四年一月一六日、札幌北光教会、小原克博)