さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。
『神があなたのために天使たちに命じると、
あなたの足が石に打ち当たることのないように、
天使たちは手であなたを支える』
と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。
『あなたの神である主を拝み、
ただ主に仕えよ』
と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
創世記三章一節以下では、誘惑者である蛇が女に近づき、神が食べてはならないと命じた善悪の知識の木の実を食べるようにと唆します。実際、女がそれを見ると、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」（創三・六）と聖書は記しています。女はすでに、この誘惑のとりこになり、もはやその力と争うことはできません。「食べると必ず死んでしまう」（創二・一七）と言われていた木の実を食べ、そして、男も女の言いなりになって食べてしまいます。これが有名な失楽園の物語です。
私たちも日常的に様々な誘惑にかかわっています。誘惑とまで言わずとも、何かを決断するときにあれこれの迷いを感じます。いろいろな事柄が、こっちこそが大切なことなのだと一斉に叫び出すと、一体、何が本当に大切で、何に従っていけばよいかがわからなくなります。そのような意味では、私たちの回りには数えきれないほどの誘惑があるとも言えます。数えきれないほどの誘惑を私たちは一つ一つ相手にしなければならないのでしょうか。
今日の聖書の箇所で、誘惑が悪魔によってなされているということは注目に値します。イエスは雑多な誘惑に試みられているのではなく、誘惑の根源的存在である悪魔と対決しています。ここでは三つの誘惑がなされていますが、最後の誘惑を退ける際に、イエスは「退け、サタン」と叫び、そして「悪魔は離れ去った」と記されています。イエスが、誘惑する実体がサタンであることを見抜くことによって、サタンは退散していきます。ここでは根源的な誘惑と、それに対する勝利が語られています。私たちが見抜くべきサタンはどこにいるのか、そして、イエスがサタンの誘惑に打ち勝った勝利の本質は一体どこにあるのかを、考えてみたいと思います。
第二の誘惑は、神殿の屋根の上でなされ、悪魔も聖書の言葉（詩九一・一一―一二）を持ち出してきます。当時のユダヤ人たちの多くがメシア求めていたような、奇跡的なしるしを身をもって示せと言うのです。イエスは自分の力をいつ、何のために用いるべきかを知っていました。したがって悪魔のささやきは、時をわきまえることを知らないものであり、それは神を試すことに他なりませんでした。ここでもイエスは、センセーショナルな姿で神の子であることを示すのではなく、人間として神への従順を表しています。
第三の誘惑において、悪魔は自分の持つ力をあからさまに行使して、イエスに世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せます。自分に仕えるならば、この世の王にしてやると言うのです。ここで悪魔は完全に自分の姿を現したので、イエスによって「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と言われます。
これらの誘惑を受け、そして最終的に勝利されたイエスの姿は、私たちが好み、理解しやすい、いわゆる英雄の姿ではありません。日本人好みのヒーローは、途中の苦労があっても、最後は奥の手、必殺業を使って悪者をやっつけます。水戸黄門なら印篭、ウルトラマンなら最後の必殺業を持っています。途中の苦労は、最後の逆転劇を盛り上げるための良い演出をしてくれます。結局は、悪者が持ち得ない必殺業を出すことによって、いわゆる善玉が勝利することに私たちは酔いしれてしまいます。
イエスは悪魔に「神の子なら」と誘惑されながらも、悪魔が言うような奇跡の業を行いませんでした。それは、最後の最後に悪魔を劇的にやっつけるために、とっておかれたのでしょうか。そのために、出し惜しみされたのでしょうか。ただ神の言葉によって戦い、そして神への従順を示されたイエスの姿こそ、私たちは真実を見ていかねばなりません。
そのような意味では、このイエスが悪魔と対決する物語の中には、来るべき十字架と復活との本質が隠されています。イエスが十字架にかけられたときに、人々は何と言ったでしょうか。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」（マタ二七・四〇）。ここでも、悪魔がイエスを誘惑するときに使った、同じ「神の子なら」という言葉が語られています。イエスは大声をあげて、そして息を引き取られました。十字架上で生き絶えたイエスを見て、悪魔は今度は自分が勝利したと感じたでしょうか。悪魔は絶叫したに違いありません。一人の人間として神への従順を、十字架の死に至るまで貫いた神の子を前にして、悪魔はもはや立ち向かう術を知らないからです。
私たちはそのようなイエスの勝利のもとに立つ恵みを与えられています。ヘブライ人への手紙二章一八節には「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と記されています。このことは、イエスが自分の経験から他の人間の困難や苦しみを知って、だから助けることができるということだけを言っているのではありません。それはさらに、私たちが誘惑を受けるときに、イエス・キリストが受けた誘惑そのものが私の助けになるということです。私たちは様々な誘惑を別々のものとして考えるのではなく、それをイエスが受けた誘惑として理解する必要があります。イエスが受けた誘惑の中にこそ、私たちが誘惑に打ち勝つ手掛かりが秘められているからです。
実際、私たちはこの世で蛇の言いなりになっています。一人の人間として立つということは、決して容易なことではありません。アダムとエバが避けることのできなかった、神のようになりたいという傲慢さを人類は今も持っています。また、私たちは他人を自分以下の者に落としめることによって、ようやく自尊心を保つ存在かもしれません。しかし、自分や人を神のごとく人間以上の者と考えたり、あるいは、自分を卑屈に、他人を差別的に人間以下として見なすことは、すべて悪魔の誘惑の手口にはまっています。また、この世における苦痛から逃れようと、安易にあの世に救いを持ち越そうとすれば、同じく悪魔の罠にはまります。私たちはこれらの誘惑に立ち向かうように「聖なる者」とされています。聖書はキリスト者のことを聖なる者たちと呼びますが、もちろん、この言葉は今まで見てきたように、徹底して神の言葉に忠実な一人の人間としてあり続ける証しの言葉です。それは特別な能力や、人にはない特別な神聖さを与えられた者という意味では決してありません。人間としてあり続けることと、神の子とされることの逆説的な同一性を知らなければなりません。この世において、イエスと共に一人の人間として生きる。それを、私たちを取り巻く悪魔的誘惑への反撃の言葉にしたいと思います。
（一九九四年二月二〇日、札幌北光教会、小原克博）