神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
(一)あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
(二)あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及び慈しみを与える。
(三)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
(四)安息日に心を留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
(五)あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
(六)殺してはならない。
(七)姦淫してはならない。
(八)盗んではならない。
(九)隣人に関して偽証してはならない。
(十)隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
イスラエルの民がエジプトの地で奴隷生活を強いられ四百年ほどの月日が経ったとき、モーセが誕生します。そのモーセが何度かの失敗の後、ついにファラオを説き伏せてイスラエルの民をエジプトから導き出します。しかし、ファラオの心変わりによって、イスラエルを砂漠で全滅させるために差し向けられたエジプト軍が、今にもイスラエルの人々の背後に襲いかかろうとします。しかも、目の前には海が横たわっています。そのとき、神の言葉に従い、モーセが手を海に差し伸べると、強い東風が吹き、海を二つに分け、イスラエルの人々は追っ手の攻撃を免れるのです。しかし、乳と蜜の流れる約束の地カナンまでの道のりは遠く、民たちは繰り返し、不平不満をモーセに突きつけます。そのような旅の途上、シナイ山で神とイスラエルの契約のしるしとして与えられたのが十戒でした。
十戒は単なる戒めではなく、神とイスラエルとの間に結ばれた契約のしるしであるということは大切です。その契約の内容を端的に語っている箇所が一九章三節以降にあります。
モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」
かつて奴隷であったものが、今や神の民、神の宝とされるということ、ここに出エジプト記の主題があります。そのような解放の物語の中で与えられた十戒ですから、それはようやく自由にされた人々をあらためて規則に縛り付けようとするものでは決してありません。反対に、それは、神によって与えられた自由をイスラエルが決して忘れることのないように立てられた「自由への道しるべ」であると言うことができます。この自由への道しるべをないがしろにしたり、忘れるときに、再び、私たちは奴隷の状態に置かれてしまいます。そのような意味を秘めた十戒が具体的に何を言おうとしているのか、そのことを次に見ていきたいと思います。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。これは、いわば神の自己紹介であると言えます。なぜなら、ここで神はご自分の名前を明らかにしているからです。日本語の翻訳ではわかりにくくなっていますが、「主」という言葉はもともとヤハウェという神の名を表しています。ヤハウェという名は旧約聖書に六五〇〇回以上も登場するのですが、それが「主」と訳されていることには理由があります。ヤハウェをローマ字風に表記するとYHWHとなりますが、これは昔から神の名を表す神聖四文字として、発音することが控えられてきました。しかし、イスラエルの民にとって聖書の朗読は礼拝の際に欠くことのできないことであり、YHWHという神の名をただ読み飛ばすというわけにはいきませんでした。そこで、YHWHという文字に出くわすたびに、ヤハウェとは発音しないで、わざとアドーナイ、つまり「主」という具合に読み替えて発音しました。ここには、旧約聖書に独特な知恵があります。文字に書き記された神の名をあえて、その通りには発音しないことによって、神が人間の思いのままにはならないことをイスラエルの人は感じ取っていたのでした。
このように「わたしは主である」という神の自己紹介から、第一戒への道が開かれていきます。ヤハウェなる神が、ヤハウェというただ一つの名前を持つことがわかれば、第一戒の「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めは当然のことです。神がヤハウェというただ一つの名前によってイスラエルに臨むということは、私たちの生活もそのただ一つの名前に対応する、ただ一つの現実性を持っているということです。このことは、他の国々の神の名前と比べてみると、はっきりとします。例えば、バビロニアのマルドゥクという神は五〇の名前を持っていましたし、エジプトのラーという神も同様に多くの名前を持っていました。当時の世界では神が多くの名を持てば持つほど、それは生活のあらゆる場面で力を発揮してくれるということであり、名前の多さが神の力強さを証ししてくれると考えられていました。一族繁栄のための神、災いから守る神、罪を赦す神という具合に、人間の必要に応じて名前が使い分けられたのです。それに対して、十戒の第一戒が求めるのは、ヤハウェという一つの名前を持って臨む神には、生活の都合の良い一部分だけをもって応えるのではなく、生活の全体をもって応えなさい、ということです。
祝祷の際の「完全な者になりなさい」(二コリ一三・一一)という言葉や、イエスが語られた「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・四八)という言葉もこのような意味で理解されなければなりません。「完全になる」とは欠点をなくして、あらゆる面において落ち度のないパーフェクトな人間になりなさいということではありません。まったく逆です。それは、ただ一人なる神の前に、私たちの落ち度や弱さや罪もひっくるめて、すべての生活を完全に明け渡しなさいということです。良い面だけを神の前に差し出して、都合の悪い点は別の神に、例えば、飲み屋のママさんのように何でも聞いてくれるやさしい神に申し開きをするのではありません。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と命じられる神は、人間の破れを承知の上で、それらをひっくるめて人間の生活全体を引き受けて下さるのだということです。第一戒が求め、また「完全な者になりなさい」というイエスの言葉が求めているのは、まさに、そのような神への完全な信頼です。
次に、「あなたはいかなる像も造ってはならない」という第二戒は何を意味しているでしょうか。いわゆる偶像礼拝の禁止ですが、聖書の時代と違って、目に見える偶像を造ったり、持ったりすることをしていない私たち現代人にとっては、この第二戒は一見、クリアーしやすい戒めのように思われます。しかし、実際にあった次のような場面を想像してみて下さい。ある教会の婦人の方が、ご子息を亡くされて、悲しみに沈んでいるときに、教会の役員の人たちが訪問にやってきました。その婦人の方は、ご子息が生前愛用していた品々を遺影のある祭壇のようなところに飾って、亡き子を偲んでいたのですが、これを見た役員の一人が、これは偶像礼拝ではないかと言って、そのご婦人をたしなめたというのです。果たして、十戒の第二戒に違反したのは、亡き子の遺品に思いを寄せていた婦人であったのでしょうか。むしろ、第二戒の違反者は婦人をたしなめた役員の人ではなかったのでしょうか。その人は、「物」と神を結び付けることは、即、偶像礼拝であると思い込んでいました。また、その人にとって、十戒の戒めは自由の道しるべではなく、人を裁くための道具となっていました。像を造ったのは、その婦人ではなく、この役員の人だったのです。神はそのような遺品の中にかかわりを持たれないのだ、という具合に、その役員の人は神の現れ方を勝手に囲いこんでしまっているのです。つまり、神についての勝手な像を造ってしまっているのです。神は、人間の都合の良いように精神化されることがないばかりか、神はこの世のものを聖なるもの、聖なる場所とする自由と力を持っておられます。モーセが燃える柴の中から神の声を聞いたとき、「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(出エ三・五)と語られたのです。ごくありふれた場所が神の御心によって、一転して聖なる場所とされるのです。一体、人が、神はここに現れるべきだとか、ここには現れるべきではないという勝手な像を造ることができるでしょうか。
この第二戒は思うほど容易なものではないのです。我々は、目に見える偶像ではなく、目に見えない偶像を造るからです。いろいろな偶像を造っては、それを用いて人を裁こうとします。私たちが教会の中でする議論ですら、場合によっては、それぞれの偶像と偶像とを戦いあわせているに過ぎないのです。自分こそが正義を語っているのだと思う、そのときこそ、私たちはこの第二の戒めを絶えず心にとめなければなりません。
第三戒の「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」は、すでにヤハウェの名を説明したことから、わかると思います。私たちが神の名をわかりきったことのように口にし、あるいは、私たちが困難に陥ったときの「間に合わせ」として神の名を唱えるときに、神の名の濫用が始まります。神が私たちの生活の一つの方便になってしまいます。この第三戒の意味をリフレッシュさせるために、イエスはマタイによる福音書五章三三節以下で、誓ってはならないと教えています。 第四戒は、安息日の戒めであり、これは教会においては日曜日の礼拝として守られてきました。このように第一戒から第四戒までは神と人の関係を中心にした戒めでしたが、それを前提にするならば、当然守らなければならない人と人との倫理的関係が第五戒から第十戒まで記されています。
Deep river my home is over Jordan
Deep river Lord I want to cross over into campground
Don't you want to go to that gospel feast
That promised land where all is peace
Walk into heaven and take my seat
And cast crown at Jesus's feet
出エジプトの物語は、私たちがこの世にあって旅人であることを思い起こさせてくれます。そして、その旅の途上で、旅を支え導いてくれる神を忘れ、神以外のものを確かなものと考え始めると、私たちは途端に不自由になってしまします。そのことを十戒は教えてくれています。十戒は自由への道しるべであると言いました。十戒において、私たちは文字に書き記された規則に従うのではなく、私たちの旅を支え、導いて下さる、生きた神と出会うのです。そして、その神こそが私たち旅人を「深い川を越えて」約束の地まで導いて下さるのです。
(一九九四年六月二六日、札幌北光教会、小原克博)