主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか。お前は神に劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせるのか。威厳と誇りで身を飾り、栄えと輝きで身を装うがよい。怒って猛威を振るい、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし、すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。お前が自分の右の手で、勝利を得たことになるのだから。
ただし、ヨブ記は、単に知的関心を持つ人の中で独占されてきたわけではありません。それはしばしば人々の現実生活の中に深い影響を及ぼしてきました。ここでは、二つだけその例を挙げることにします。一つはユダヤ人の歴史とのかかわりです。最近話題になった「シンドラーのリスト」という映画の主題ともなっていましたが、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量殺戮(ホロコースト)という事態の中で、多くの敬虔なユダヤ人は民族に降りかかる悲劇の意味を、ヨブと同じように神に問いました。アウシュヴィッツにおいて、神はなぜ沈黙を保たれるのか。また、もう一つの例として、ラテン・アメリカにおけるキリスト者たちの苦悩を挙げることができます。彼らは貧困・抑圧・差別からの解放を求め苦悩します。そして、彼らは自分たちの神への叫びが、まさにあのヨブの叫びに連なっていることを知っているからこそ、彼らの戦いが単に失望に終わるとは考えていません。
私たちの日常の生活の中でも、同じような悩みがあることでしょう。信仰を持つことによって、幸運が引き寄せられ、一つ一つの出来事がハッピーエンドになるとは言えないことを私たちも知っています。ヨブの苦しみはヨブと共に終わってはいません。私たちが生きる世界の中に多くのヨブが存在し、また、あのヨブの中に私たちがいます。一体、ヨブと私たちはどのような運命の糸で結び付けられているのでしょうか。それを知るためには、今日与えられた聖書箇所そのものに向き合う前に、ヨブ記の大きな筋道を知っておく必要があります。
物語は、神によって驚くほど祝福され、財産に富んだ、無垢な正しい人の話から始まります。その人ヨブのことは、神の前に集められた神の使いたちの集会でも話題になるほどでした。しかし、そこでサタンによって一つの問いが投げかけられます。なぜ、ヨブはこれほどまでに敬虔で正しいのか。それは、ただヨブが神から祝福されて富に満ちているからに過ぎないとサタンは言います。神はそれに対して直接答えることはせずに、ヨブの運命をサタンの試みの手にゆだねます。それから次々に災難がヨブの身に降りかかります。しかし、財産や家族を失っても、ヨブは次のように語ります。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(一・二一)。さらに、自分自身の体が耐え難いほどの皮膚病に冒されても、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(二・一〇)とヨブは彼の妻に答えています。このように最初、彼は自分の不幸の中でも神への忠実を見事に示しています。しかし、沈黙と苦痛の一週間の後、次第に彼の言葉の調子が変わってきます。まずヨブは自分の生まれた日を呪い始めます。「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか」(三・一一)とヨブは嘆きます。それからヨブは彼を慰めるためにやって来た三人の友人たちと、彼の苦しみの原因をめぐって激しく議論を戦わすことになります。友人たちは代わるがわるに、ヨブの不幸がヨブの罪によって引き起こされたことを教えようとします。ヨブは友人たちが諭す言葉に対して、彼が自分の生まれた日を呪ったのと同じ激しさでもって反論します。ヨブは自分の舌には不正がないこと(六・三〇)、それゆえに、自分が神によって正当に扱われていないこと(九・三五)を一貫して主張します。ヨブは非常にストレートな表現で自分の苦しみを訴えかけます。「わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。生きていたくない。だからわたしは言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う」(九・二〇―二三)。このような調子でヨブと三人の友人たちのやり取りが延々と続けられ、その果てに突如として神の語りかけが始まります。私たちに与えられた聖書箇所は、その中心的な部分を占めています。
そして、圧倒するような問いの前に立たされて、「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ」という言葉がヨブに臨みます。神はヨブの心の中にある、まだ知られていないことを聞き出そうとして、このように尋ねているわけではありません。ここでは、むしろ、ヨブ自身が神との関係の中で一体何者であるのかが、あらためて問われているのです。同様のことが創世記の失楽園の物語の中で記されています。取って食べてはならないという木の実を食べたアダムとエバは、神の足音を聞いて、神の顔を避けるために木の間に姿を隠します。もちろん、神の目からすればアダムがどこにいるかなど明らかなことですが、それでもそのアダムに対して「どこにいるのか」と尋ねています(創三・八)。これも、「お前は一体何者になってしまったか、わかっているのか」というアダムと神との関係を問題にしています。アダムは、なぜ取って食べたのかという神の追求に対して、自分を正当化するために責任をエバになすりつけようとします。また、エバは同様に責任を蛇になすりつけようとします。そのようなアダムとエバの答弁と同じく、ヨブは友人たちとの議論において、最後まで自分の正しさを主張し、知ったかぶりをする者であり、責任転嫁する者であり続けました。しかし、今、あらためて「お前に尋ねる。わたしに答えてみよ」と神ご自身が問いかけているのです。この問いかけの中で、ヨブの罪が暴露されます。しかし同時に、ヨブ自身が以前とは違う何者かになる可能性が開かれていくのです。
まず、続く言葉によって徹底してヨブの罪が暴かれていきます。「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪とするために、わたしを有罪とさえするのか」。神の義の前に人の義を押し通そうとしたヨブに対して、悔い改めの言葉が臨みます。ヨブが自分の無罪を主張した点にこそ、ヨブの罪があるということが明らかにされています。ヨブの主張は、人間の立場を肯定するために神を人間の勝手な神理解の枠の中に押し込め、この世のことを容易に説明できるものと思い込み、神の主権を侵害しながら、まさに神に有罪宣告を下す行為となっていたのでした。ヨブにとって、神の義は十分ではありませんでした。なぜならば、もし神の義が十分にこの世を満たしているとするならば、「このわたしをこそ、神は救ってくださるべき」(一三・一六)だとヨブは考えていたからです。しかし、この私が不当に扱われたままであるということは、神の義、神の支配が十分でないからだということになります。そのようなヨブの態度に対する批判が、九節以降で語られています。ここでは、この世における「驕り高ぶる者」、「神に逆らう者」が問題にされながら、彼らの不正を正しく裁く力を持っているのかとヨブは問われています。ヨブは同じ要求を神に押し付けてきました。ヨブは神の義に不服を唱え、神こそはこの世から不義を撤廃し、完全な秩序と義の支配を行使すべきだという全体主義的な要求を訴えていました。それによって、何より自分自身の回復がなされるはずだとヨブは見込んでいたからです。皮肉に満ちた神の問いかけは、そのようなヨブの欺瞞を見破り、ことごとく彼の罪状を明らかにしています。しかし、それはヨブを滅ぼすことを目指しているのではありません。むしろ、ヨブが一体何者であるのか、どこに立っているのかを徹底して問いただすことによって、ヨブが自分自身の内から悔い改めへの道を開くことを促していると言えるでしょう。
この物語の終わりで、ヨブは再び神にその正しさを認められています。しかし、それは罪を犯しながらもヨブがよく忍耐したからではありません。もしそうならば、やはりこの世の因果法則が正しかったということになります。そうではなく、神が不義なるヨブをとらえ、神がヨブを悔い改めへと導いたからです。正しいか、正しくないかの決定権は、あくまでも神の側にあるのです。ヨブは、あれほど執拗に神への激しい訴えをなしていたにもかかわらず、最後には実にあっさりと、神の前に屈伏してしまいます。しかし、おそらくそこには神への控訴に破れ去った敗北者としての悲哀より、むしろ、一切を自由に支配する神の絶大なる力の内に自分自身も置かれていたのだという安堵と満足があるのではないでしょうか。
私たちは苦しみによって必然的に生じる空虚さを、この世の様々な知恵によって埋め合わせる前に、その空虚さを謙虚さへと変え、そして神の言葉を受ける器となる時を待つべきではないでしょうか。そこに、私たちが「聖なる生けるいけにえ」(ロマ一二・一)となって礼拝をささげ、神の言葉を聞く意味があるのです。大量の情報が、この世にあって苦しむ者同士を連帯させるのではなく、「打ち砕かれ悔いる心」(詩五一・一九)こそが私たちを神のもとに一つにつなぎとめます。そこにキリストが示して下さった道があり、主の御手の内にとらえられるという永遠の安息があるのです。
(一九九四年七月一七日、札幌北光教会、小原克博)